ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

すでに隣人である私からすでに隣人であるあなた達へ

差別的な言説の常として、トランス女性の「加害性」を語る人々の言葉には、私達の普段のリアルな姿が現れていないように見えます。

それはちょうど、映画『ジョジョラビット』で、ユダヤ人への偏見に凝り固まった主人公が、「ユダヤ人ってどんな人?」と聞かれて、得体の知れない悪魔のような人物の姿を語って聞かせるように。

でもたぶん、身近にトランス当事者がいない人が素朴に信じるかもしれないよりもはるかに、私達はもうあちらこちらに普通に存在しています。

もしかしたら、人によってはトランスと言えば限られたお店や空間にしか顔を出さない存在のように思うかもしれません。ですが、私は仕事のために新幹線で金沢まで行き、ついでに美術館を眺めて金沢おでんに舌鼓を打ったり、休日に本多劇場でお芝居を見たり、イメージフォーラムで映画を見たりしてきました。外に出かければ、お腹もすくし喉も乾く。私は個人経営の可愛らしいカフェが好きなので、そうしたお店を探してふらふらと歩き回ったりもしますし、それでも見つからなければスタバでティーラテを飲んだりしています。お酒が好きで、夜にはバーにもよく行きます。とは言っても、客同士の距離が近過ぎたりすると、知らない男の人に話しかけられたりすることもあるので(多くはありませんが)、静かな雰囲気で客同士の距離が保たれているお店に行くことが多いです。

仕事は、詳細は伏せますが、多くの人にとって「会ったこともない」というような仕事ではないと思います。パソコンを使うことが多く、肩こりに悩まされています。マッサージに行こうかと考えたりもしますが、それより運動で解消したほうがいいのかと、一時期は仕事終わりに市民プールに通っていました。一人で行くから話し相手もいないのですが、たまに更衣室で知らないおばあさんに「背が高いね」と話しかけられ「そうなんですよ。子供の頃によく寝過ぎて」などと返したりもしています。泳ぐのは得意ではありませんので、プールではしばらく水の中を歩いて、それから少しばかり泳ぎ慣れていない人向けのレーンで泳ぎます。息切れをしたら、後ろを泳いでいた人に先に行ってもらったりもするのですが、そんなときには知らないおじいさんに「若いんだからもっと頑張りなさい」と笑われたりします。

買い物にもよく行きます。背が高くてサイズが難しいのですが、最近はバナナ・リパブリックにちょうどいいサイズがある程度あることを知りました。もともともう少し派手な服を好んでいたので、これまでこのブランドはあまり意識していなかったのです。店員さんにコーディネートを相談しながら選びます。ついつい高すぎる身長を自虐的に語ってしまうのですが、大抵はフォローと共に、高い背を綺麗に見せる着方を提案してもらえます。

性別移行後、海外に行く機会はまだありません。本当はこの夏に行く予定だったのが、新型コロナ感染拡大の影響で、潰れてしまいました。

海外には出ていないものの、仕事の都合で、性別移行後でももうすでに四つの場所に住んでいます。そのそれぞれで、こうした生活を送っています。

長いあいだ近くに食事の出来るお店が少ない環境に住んでいたから、料理は得意ではないものの、スーパーに食材を買いに行って、自分で作る習慣は持っています。そこまで余裕のある暮らしでもないので、じっくり野菜売り場を眺め、比較的安い野菜を何点か選んだら、それを中心にして作れる料理を考えます。面倒なときにはお惣菜を買って帰って済ませます

遠出するときにはもちろん、大きな駅や空港を利用します。これを読むみなさんのなかで、品川駅や新大阪駅羽田空港、札幌空港などを利用することがある人はどれくらいいるでしょう? 私もそうした場所に行き、移動をしています。

待ち時間や電車の中では、空いていれば椅子に座ります。隣にいるのは、子供であることもあり、大人であることもあり、男性であることもあり、女性であることもあり、日本語を話す人であることもあれば、他の言葉を話す人であることもあります。

本が好きなので、出かければ必ずと言っていいほど本屋さんに行きます。ジュンク堂紀伊國屋ブックファースト。文学の棚を見て、社会学の棚を見て、哲学の棚を見て、芸術の棚を見て、締めくくりに文庫と漫画の棚を見るというのが、よくやるまわり方です。

病院には定期的に通わなければならず、私の場合は婦人科に行っています。特に待合室を分けられるでもなく、普通に待合室の座席に座っていて、隣に小さな子供を連れた人が座ったりしたら、子供の仕草を見遣りながら笑いかけたりしています。

そして、トイレが近い体質なので、出先でトイレに行くことも多いです。上に述べたような、それぞれの場所で。

「何の話を聞かされているのだろう?」と思うでしょうか? 「普通に暮らしてるだけじゃん」と思うでしょうか? それを、話したかったのです。私は、トランス当事者との交流がない人々が想像するかもしれないよりもきっと、はるかに普通に暮らしていて、普通にあちこちに出かけています。スーパーであなたの隣で玉ねぎを手に取っている人が、私かもしれません。

私一人でも、これだけ沢山の場所に、普通に出かけて、過ごしています。トランスの数は人口全体で見れば非常に僅かですが、それでも10人や20人ではありません。そのそれぞれが、異なるライフスタイルながら、でも確実に、それぞれの生活を送り、色々な場所に、色々な時間に、出かけています。

私が挙げた場所に出かけたことがある人はどのくらいいるでしょう? もしあなたが、本屋さんに行ったり映画館に行ったり電車に乗ったり飛行機に乗ったりする習慣のある人なら、あるときあなたのすぐ隣にいたのは私だったかもしれません。別のトランスの誰かだったかもしれません。「見ればトランスだとわかるから、それはない」と思ったでしょうか? でも、私達のそれぞれがこんな風にあちこちに出かけて暮らしているのだから、たぶん本当にすれ違ったことが全くないという人は想像以上に少ないのではないかと思います。ただ、すれ違っても気づいていないだけなのです。実際私は、電話でこそ低い声を気にされることがあるものの、生身で出かける場所では特に視線を向けられることもなく、普通に暮らしています。

「悪意を持った女装者と区別がつかない」と言われ、「ペニスを見せつけながら女風呂に押し入ろうとしている」のように戯画化され、「(シス)女性の安心のためにも、トランス用トイレを作ってそちらを使うべき」だとか「誰でもトイレを使い続けて欲しい」だとかと言われている人間は、そんな風に普通に暮らしていて、電車であなたの隣に座り、読書をしたりスマホを眺めたりしているかもしれない存在なのです。

もちろん、清水晶子先生が『思想』の掲載論文で指摘していたように、だからこそ恐ろしい、見分けがつかないからこそ不安になって、目に見えるマークがあると信じようとするという、そうしたものを抱えている人もいるのだろうと思います。そうした人々には、私がどれほど、「すでに隣にいるのだ」と言っても恐怖を解消することはできないでしょう。

でも、そうした恐怖を抱えてはいない人は、試しに今日一日ですれ違った人々のことを思い浮かべてください。買い物には行きましたか? 電車には乗りましたか? 散歩はしましたか? そのどれもが、私達も同じようにしていることです。だから、もしかしたら、あなたが買い物をしたり、電車に乗ったり、散歩をしたりするとき、すれ違った人のいずれかはトランスだったかもしれません。これまでの暮らしの中であなたがすれ違い、気に求めずに素通りした人々の中に、私達はすでにいます。

トランス女性への恐怖を語る人々が怖い存在として描く私達のことを、どうか具体的に知り、具体的に思い描いてみてください。それでもなお、その人に対して、その人が一番苦しんでいる身体的特徴を殊更に指摘して責め立て、今普通に過ごせている場所から追い立てて、「トイレに入ってこないで」などと言う気に、本当になるでしょうか? いえ、本当にそういう気でいる人が存在していることは、何年も何年もそうした言葉を見てきたから、よく知っています。でも、それ以外の人に聞いて欲しいと思っています。本当に、私達の体のことをあげつらい、今利用できている場所から追い立てるような言葉を発する人に罪悪感なく同意したり、そうした言葉にも「一理ある」などと言えるでしょうか? 道ですれ違う人々を眺めて、「そうした言葉によって傷つけられ、追い立てられるのは今目の前にいるこの人かもしれない」と想像しながら考えてもらえたら、と思います。