ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

あるトランス女性が見た北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』

北村紗衣先生による映画評論『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』が、書肆侃侃房さんより出版され、小規模な出版社から出たアカデミックな身分の著者(北村先生は、私自身は拝読したことがないのですがすでにシェイクスピアに関する単著も出されている、シェイクスピア研究者です)による本としては珍しいような売れ行きを示しているそうです。

この本が注目を浴びているのは、おそらくそれがフェミニズムの視点からさまざまな映画作品を批評するというものだからでしょう。多くのひとがそうした視点を、あるいはそうした視点から見たことを語る術を求めていたということでしょう。

この記事ではそんな話題の本『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』に対し、否定的な話をしたいと思っています。


いくつか、先に断っておきたいことがあります。

まず、この記事を書いている私は何者なのか。これに関しては、多くを語ることはできません。ひとつだけ言えるのは、私はいわゆるトランス女性だということです。トランス女性にもさまざまなひとがいますが、私は性同一性障害の診断を受けたうえでホルモン治療を受け(20代後半のことです)、さらにガイドラインに沿った診断書などをもとに性別適合手術を受け、その後に裁判所にて戸籍の性別の変更の手続きも行い、服装などは完全に女性もの、現在は職場でもプライベートでも単に女性として過ごすという、比較的むかしから知られていたと思われるタイプにあたります。

身分を詳しく語れないのも、こうした事情のためです。親しい友人や家族はもちろん私が男性として暮らしていた時代を知っているので、性別移行のこともわかっているし、職場には事情を知っているひとも部分的にいるし、また見た目から推し量ってわかっているひともいるかとは思いますが、私は自分がトランスであることを積極的には語らず、できたらシス女性と同じ仕方で見てほしい、というよりトランスであることにそもそも思い至りさえしなければそれに越してことはないという形で暮らしています。要するにカムアウトしないで暮らしたいというタイプで、トランス界隈の用語でのいわゆる「埋没」志向のトランスです。なので、例えばここで名前などを書いてしまうと、それは実質的にカムアウトになってしまうため、どうしてもそういうわけにはいきませんでした。それでも、埋没志向の者であっても、トランスである身から何か言いたくなることはあり、どうしたらいいか迷った末に選んだのが、匿名のブログ記事という手段でした。(なので、このブログも、この記事を伝えるためのツイッターアカウントも、この記事だけのためのもので、ほかに何の内容もありません)

これが人の目にとまるかどうか、私にはわかりません。もしいくらかのひとに見られることがあったなら、もしかしたら私が誰であるかわかるというひとの目に入ることもあるかもしれません。そのときはどうか、これを書いているのが何者なのかということについては、知らないふりをしていただけたら、と思います。


もうひとつ断っておきたいのは、北村先生のご本を、私は手元に持ってはいないということです。買っても借りてもいません。これは、普通に考えると、ひとに批判を向けようとする者の態度としてはたいへん失礼で、不誠実なものです。なので、その点で謗りを受けるならば、甘んじて受け入れたいと思います。ただ、私なりの事情があるということだけご理解いただきたいと思います。

私はもともと映画が好きで、そして自分自身がトランス女性であるという事情のために、トランス女性が登場する作品を好んで見ています。とりわけ『タンジェリン』という映画を素晴らしいものだと感じていました。これは『フロリダ・プロジェクト』の監督がiPhoneで撮った、トランス女性が出演するトランス映画という、いろいろな点で斬新な作品で、同じトランス女性といっても私とはだいぶん違うタイプのひとが登場するのですが、それでも二人のヒロインの友情に胸を躍らせながら見ました。

その『タンジェリン』と、以前にアカデミー外国語映画賞を受賞して話題になった『ナチュラル・ウーマン』が『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』で取り上げられていると聞き、ぜひ読んでみたいと思いました。けれど品薄でなかなか見つからず、アマゾンで注文しようかとも思っていたところに、きょうたまたま書店で見つけて、「いちばん気になっている『タンジェリン』の評を見てみて、文体や内容が気に入ったら買って読んでほかの箇所も楽しもう」と、試し読みをしてみたのでした。ですが、(それこそがこの記事を書いた理由なのですが、)この本の『タンジェリン』や『ナチュラル・ウーマン』への視線は、ありがちなシス(トランスでないひと)がトランスに向ける、差別的と言ってもいいようなものでしかなく、わくわくしながら手に取ったはずなのにむしろショックで動揺してしまい、家に置いておきたいとは到底思えず、買うことを断念したのです。表紙も可愛らしく、タイトルも素敵で、それにほかの章は普通に面白そうだったから、私自身としても本当に残念に思います。

そうした事情から、この記事は、トランス女性に関する記述の箇所だけを本屋さんでさっと試し読みした、その記憶と印象だけで書かれた、その点で不誠実でおそらくはアンフェアなものになっています。ですが、私にはあれをもう一度読み返すことが心理的にできません。ですから、そのような不十分な用意のもとで、なぜ私がショックを受けたのか、どこが差別的だと判断したのかを語ることをお許しいただきたいと思います。


本題に入る前にもう一点、この記事の目的について述べさせてください。私は北村先生を「告発」したり「糾弾」したりしたいわけではありません。だから、もしこの記事を見たひとが、北村先生や、それ以外のフェミニスト、あるいはフェミニズム思想を攻撃するのに私の言葉を利用する、ということはよしていただきたいと思っています。むしろ、あのような本を出したかた、あるいはあのような本を読んだかた、読みたいと思うかたならば、きっとひとより柔軟で広い視野を持っているはずなので、どうにかその視野をもうほんの少しさらに広げて、トランス女性のことも見てほしい、そう思って書いています。



ここからが本題です。


北村先生がトランス映画を取り上げた章は長いものではなく、そこではまず、(正確な文言は記憶できていませんが)トランス映画をあえてただの女性映画として見て、それをフェミニズムの歴史のなかに位置付けるといった目標が提示され、そのうえで『タンジェリン』や『ナチュラル・ウーマン』がトランス女性の出演するトランス映画であることに一定の評価はしつつも、そのなかで出てくるステレオタイプ的な女性像などを論難し、全体としては「古くさい」ものと評価するという内容でした。その過程で『リリーのすべて』のようなもっと前の作品にも言及し、そのなかでも女性を幻想視しすぎる傾向があることを指摘し、否定的に評価していました。


まず、北村先生に同意する点を挙げたいと思います。トランスの俳優にとって活躍する場があまりに少ないこと、トランスの役柄もしばしばシスの俳優に取られるのに、シスの役柄をトランスの俳優が演じることはないという非対称性があることなどを北村先生は指摘していました。この点に問題があるというのは私も思います。とにかく、トランス、特に外見からそれとわかることの多いトランス女性には、俳優という仕事はかなり狭い門であるのではないかということが容易に想像されます。

「俳優は自分とは別の存在を演じるものなのだから、シスがトランスを演じてもいいように、本当はトランスがシスを演じたっていいはずだ」という趣旨のお話も、一点だけ留保をつけたうえで、その通りだと思いました。北村先生と同じく、私も(当事者ではありますが)トランスの役柄をシスのひとが演じるのが必ずしも問題だとは現時点では感じていません。もちろんトランスのあり方にとって、振る舞いだけでなくその身体そのものが大きな意味を持ちます。ですので演じるうえではその身体性も、性別適合手術やホルモン治療は受けているのかいないのか、ホルモン治療を受けているとしたら何歳ごろから受けているのかといった設定があるはずなので、それに適した身体を模倣しなければ不適切です。こうした点で私が特に優れていると感じたシス俳優は、現在公開中の『Girl』の主演のかたと、あと少しむかしの『トランスアメリカ』の主演のかたで、前者はシス男性らしく、後者はシス女性ですが、こうした演技をするかたならトランスの役を演じても違和感はないと思います(『トランスアメリカ』のかたは、なんとシス女性なのに、「声変わりをした男性がボイストレーニングで頑張りつつもまだ女性だと納得されるほどの声を出せずに不自然な声で話してしまう」という演技をしていて、見終わって調べるまで当事者による演技だとばかり思っていました)。

ただ、留保というのは、これはシスとトランスの体のあり方に外見上際立って大きな違いはない(連続的に見やすい)ことと、現時点ではトランスの側で自身のトランス的な身体をむしろプライドの礎とするという思想がそれほど大きくないこととを条件として言えることだという点です。後者はたぶん重要で、現時点ではトランスの当事者たちにも、自分自身の体のありようがプライドになるという感覚が希薄なので、シスのひとがそれを模倣するというのに無頓着になりやすいというところがあると思うのです。「ブラック・イズ・ビューティフル」みたなかたちで、むしろトランスの体のあり方が美しい、これは私たちの誇りだみたいな思想が盛り上がれば、シスのひとがトランスのひとの体を模倣するのは簒奪になるでしょう。そして、現時点でも、私がたまたまそうではないだけで、そう思っているひとはいると思います。


さて、ここから否定的な話に移りたいと思います。


まず、トランス女性の映画をあえて単なる女性映画として、フェミニズムの、あるいは女性の歴史のなかに位置付けるということについて、どう思われるでしょうか?

一見すると、偏見のない中立な視点だと思われるかもしれません。「トランス女性を単なる女性として見るなんて、いいことじゃないか」と感じるかもしれません。でも、ひとつの罠があります。それは、フェミニズムの歴史も、フェミニストが語る女性の歴史も、それはほとんどもっぱらシス女性の語るシス女性にとっての歴史だということです。もちろんフェミニストであるトランス女性はいますし、これまでにもいましたが、それは決して主流に食い込んではいないはずです。

そしてそうした初めからシス性が前提となった視点のもとで北村先生は断じます。『タンジェリン』も『ナチュラル・ウーマン』も、古い女性映画の焼き直しだったり、むかしながらのステレオタイプを維持していたりしていて、北村先生の依拠する「歴史」に照らすと古くさいと。

例えば、これを男性と女性の話で語り直したらどうでしょうか? 私はそれほどいろんな映画を知らないので、架空の例を考えてみます。女性の陪審員が集まり、ある事件への判決を巡って議論を戦わせる映画です。そのなかには、事件の内容にも、発言の端々にも、女性だからこそしてきた、せざるを得なかったさまざまな経験に関わる要素があり、少なからぬ女性の共感を呼びました。そこに男性の批評家が現れ、言います。「この映画をあえて女性映画としては見ず、人間の映画として見たうえで、これまでの歴史に位置付けてみよう。こんな内容は『12人の怒れる男』の焼き直しで、古くさいものにすぎない」

この批評家には二つの視点が抜けています。ひとつは、自分の依拠する歴史が本当は中立な歴史ではなく男性の歴史であり、そこにはそもそも女性がほとんど(現実にも映画にも)登場してこなかったという視点です。それが抜けると単に焼き直しにしか見えないかもしれませんが、この抜け落ちた視点から見たなら、むしろ過去の作品がもっぱら男性のものだったということが重要なのです。そこを忘れて安易に過去の作品と重ねるのはおかしなことではないでしょうか。その道は、男性たちには見慣れたお馴染みの古びた道かもしれませんが、女性たちはいまはじめてそこを歩いているのです。

もうひとつの抜け落ちている視点は、女性の経験から見る視点です。実はいま取り上げている架空の作品には『12人の怒れる男』にはなかった新しい要素、すなわち女性の経験とリンクする内容が含まれているにもかかわらず、男性である批評家には関連する経験が欠けており、それゆえそうした要素を見る目がなかったために、それはただ見過ごされ、作品は単に古くさいものと判断されてしまったのです。

思うのですが、こうした的外れな批評を、私たちは実際に日常でよく耳にしているのではないでしょうか? 繊細さに欠ける男性が女性たちに歓迎された作品を難ずる言葉などに。北村先生の採用しているのは、シスからトランスへのこの手の視点なのであり、これは差別的な見方の典型のひとつではないでしょうか。


そしてもっと具体的で切実な問題は、見過ごされているトランスの経験なのです。

北村先生も『タンジェリン』などのステレオタイプ性を批判的に見ていましたが、実はシスのひとからトランス映画にこうした批判が向けられるのは珍しいことではありません。生田斗真さんが女性役で主演した『彼らが本気で編むときは、』にも、生田さん演じるリンコがあまりにもステレオタイプ的な女性の役割を演じていることを非難する批評がネット上で公開され、ちょっとした話題になっていたことを記憶しています。

(余談ですが、生田さんの出演は、設定上リンコがパスをしていない、つまりトランスであることが容易にバレる外見であるとされていること、そして生田さんの表情や視線、ちょっとした場面での怯えなどの演技は優れていたことから、「外見が男っぽすぎる」みたいな意見もよく見かけるものの、私はとてもよかったと思っています。というよりも、素朴な見方のもとでは「男っぽすぎる」とされる人物を女性として、母として描き切る、肯定するところにこそ、しばしば外見のために男性扱いされがちな私たちへのエールがあるとさえ思います)

ただ、トランスのひとが知り合いにいないかたにはピンと来ないかもしれませんが、ステレオタイプ性はトランス特有の経験と強くリンクしています。トランスの交流会に行くと感じるのですが、例えばトランス女性はシス女性に比べて長い髪を好み、スカートを好む傾向がかなりはっきりと強いように感じます。もちろんそうでないかたもたくさんいますが、その比率がシス女性の場合のショートカット率やパンツ率に比して極端に少なく見えるのです。私自身も髪は長いし、ほとんどスカートだし、化粧をせずに出かけることもほとんどありません。


このことには複合的な要因があるように思います。ひとつは、サバイバル上の理由です。特に成人したあとに性別移行したトランス女性に切実なことなのですが、私たちはしばしばその身体に自分の性別と異なる性別と結びつけられがちな第二次性徴の痕跡を残しています。高い身長やがっしりした肩、眉骨の隆起などです。こうしたものは、ホルモン治療をしてもなくせはしません。そうした特徴を持ちながら、髪を短くし、パンツスタイルにしてみることを想像してください。要するに、「男扱い」される確率が上がってしまうのです。シス女性と同じように見られるのがいちばんいいのですが、そうでなくても少なくとも女性扱いを求める存在として見てもらわないと困る。場合によっては身分証さえ「男性」となっていることもあるのに、変に周りから男性扱いされてしまうと、どんなトラブルになるかわからないし、トラブルが起きたときに自分の性別を明かし立てることも難しい場合があります。なので、一種の意思表示として、シス女性よりも女性らしさにこだわる格好をするのが、うまく生きていくコツとなる。

このあたりは、『ヘイト・ユー・ギブ』で語られていた、白人の子たちはスラングを使ったりしても気にされないけれど黒人である自分がそうするとギャング扱いされかねないから白人の子よりも品行方正にするという、主人公のサバイバル術に似ているかもしれません。


もうひとつは、女性性への切実な憧れです。これは、北村先生の『リリーのすべて』への否定的な扱いとも関連します。

北村先生は、リリーが「画家ではなく、女性になりたい」と語っていたことを指して、女性を変に幻想的に見ていてよくないという趣旨の批判をされていました。ですが、私から見ると、全体的に「何か違う」感が強く、世間でのヒットに反していまいちしっくりこなかった『リリーのすべて』のなかで、このセリフこそが数少ない、リアルで本当にトランスの生き様に向き合った言葉だと感じていて、実際私はこの映画の話を(私がトランスだと知っているひとに)するときには必ずこのシーンの話をしています。仲のいいシス女性の友人も当初ここがピンとこなかったと話していたのですが、このセリフはまさにトランス的な経験があればこそ、その重みも痛々しさも即座に、苦しいほどにわかるものなのです。


いきなり話がずれるようですが、最近個人的にものすごく嬉しい、「これまでがんばって生きてきてよかった」とはしゃぎたくなる出来事がありました。なんだと思いますか? ひとつは、友達とアイリッシュ・パブに行って、「このフィッシンアンドチップスって、どのくらいの量ですか?」と店員さんに訊いたら、「女性二人でならSサイズでも十分かもしれません」と言われたことです。もうひとつは期日前投票に行き、出口調査を受けたときに、調査員のかたがタブレットを渡しつつ「あ、性別はもう押しちゃいますね」と「女性」のところを押していたことです。

何を私が喜んだのかはわかるかと思います。なんの疑問もなく女性と見なされ、そのまま話が進んだことです。ですが、これが、たったこれだけのことが人生で最大級に嬉しい出来事で、嬉しすぎて帰宅して泣きたくなるという人生を、(もしあなたがシスであるなら)想像できますか? 

生まれてすぐ、男の子として分類されました。泣くと「男の子なんだから」と言われ、髪を少しでも伸ばすと「不潔だから切りなさい」と言われました。「可愛い」だとかと言われたこともほとんどなく、スカートを買ってもらったことさえなく、ちょっと可愛らしい文房具を買って筆箱に入れていたらクラスメイトから「おかまだ」といじめられ、ムダ毛を処理したら先輩から服のなかを覗かれて「何剃ってんだよ、気持ち悪い」と笑われました。

可愛い服が好きで、ファッションに興味を持ってからは、メンズ服のなかでも可愛らしいものを好んできました(ツモリチサトがお気に入りでしたが、なくなるそうですね)。少しでもフェミニンに着たくてちょっと首回りを広く開けたりしていたら、「気持ち悪い」だとか「ゲイなんじゃないの?」だとかと言われました。化粧をしているわけではなく、単に化粧水などで整えていただけでからかわれたこともあります。

周りの誰も私を女だとは言ってくれませんでした。だから私もなかなか自分でそうと気づかず、とにかく辛く、理由はわからないけれど自分が自然だと思うように振舞っているだけで周りに気持ち悪がられ、そして自分の体を見るとなぜか絶望的な気持ちになって、何もかもが意味がわからないまま、どうしたらまともに生きられるかもわからないまま生きてきました。

私は、周りの誰一人として私を女だとは呼ばないなか、私一人の「本当は男のひととしては生きていけない人間なのではないか」という疑念だけを頼りに知識を身につけ、自分の足で医者を選び、そして寿命や健康に影響が出る可能性があると言われてなお「それでも、たとえ長生きできないとしても、私は女として生きるべきなんだ」という一個の決意だけを頼りにホルモン治療を選びました。

そうして体が変化していき、もう周りに語ってもいいとなって初めて「私は女性として暮らします」と宣言しました。そうしてようやくスカートを履いたり、お化粧をしたりするようになりました。


シスの女性とはかなり違うというのがわかるでしょうか? シスのひとは、自分が物心つく前から女性としてのアイデンティティを周りに語られるのだろうと思います。そして、自分の意思とは無関係に女性性の記号を過剰に割り振られるのでしょう。想像するしかないのですが、そうした人生を送ったなら、ひとによってはその過剰性にうんざりし、「女性らしさ」に反発することがあるのだろうと想像します。

対して、私の人生にそのような道筋はあったでしょうか? 私からしたら、私の女性としてのアイデンティティは、何よりもまず、誰もが否定するなか自らの意思ひとつで選び取ったものなのです。そして、スカートや長い髪のようなステレオティピカルな女性的記号は、私にとってはずっとむしろ遠ざけられ続けてきた、触れれば周りに蔑まれる、いわばタブーのようなものでした。私は自らの意思で自分の女性性を選び取り、そして かつてタブーとされていたものを身につける「権利」を、周りに自分の女性性を説得し、自分自身でも実践することによって「勝ち取った」のです。おおげさな、もしくは変な話だと感じるかもしれませんが、少なくとも私から見たらそうなります。

そのようにして記号を身につけても、本当に女性扱いされる、つまり知らないひとも含めた周りのひとが私のアイデンティティに納得するようになるまではさらに長い道のりでした。おかま扱いもありましたし、知らない子供たちに囃し立てられ、ベランダにまで侵入されて珍獣扱いされたこともあります。いきなり怒鳴られたこともあるし、下着を買いたいだけなのにまともに相手をされなかったこともあります。ようやく、ここ1-2年でようやく、先ほど語ったような嬉しい出来事が起きるくらいのところまで来たんです。私にとって、そしておそらくほかの多くのトランス女性にとって、女性であることや、女性らしさのステレオタイプが持つことの意味は、こうした経験のもとでしか語ることはできません。

リリーの気持ちがわかるというのもこの点でです。もちろん現代ではリリーほど困難な状況にはないので、仕事をがんばることと女性としての暮らしを目指すことは両立可能です。とはいえそれもたいへんで、通院もありますし、手術のときにはひと月ほどは安静にしないといけないし、手術後はダイレーションという手入れが必要で、それにかかる時間もあります。私も術後すぐは勤務先が遠かったことも相まって、仕事の日は朝四時に起きないとダイレーションと通勤の両立が不可能という時期もあったりしました。職場での無理解やハラスメントもあります。ただ、リリーに比べたら状況は良くなっているでしょう。

ですが、このくらいに、確固たる意志を持ち、長い時間をかけて目指し、それでもなおなかなか到達できないのが、トランス女性にとって「女性として暮らす」ということなのです。もちろん「女性として」でどの程度のことを想定するかは当事者間でも違うので、一概にはいえませんが。そして、私自身、もしも女性として生きることとほかの何かとを天秤にかけるよう迫られたりしたら、前者を絶対に選びます。ほかの何を犠牲にしてでも。ただ女性でありたいだけ、それだけのことがどれだけ困難でどれだけの決意や労力を要するのかを知っているからこそ、リリーの気持ちがわかるし、あのセリフこそがあの映画の優れた点だと思うのです。直後の、リリーの妻の戸惑ったようなセリフとともに(あの戸惑いはシス女性的であると思います。女性であることが何かを犠牲にしてでも目指すものだなんて考えたことがない視線)。


北村先生は、こうしたことを想像さえしていないように思います。ただ自分たちにとって女性であることや女性らしさのステレオタイプがどういう意味を持つのかだけを考えている。ああした場面に古くささや奇妙さを感じるとき、それを感じさせるのはシスとしての色眼鏡なのです。むしろその違和感を手掛かりに、「なぜこのひとたちはこうなるのか?」と考えて、私たちの生き方に思いを馳せてほしかったところです。でもそこで北村先生はトランス女性の立場には向かわず、自分自身の観点から否定的に評価してしまう。

だいたい、トランス女性とシス女性は歴史的にも個人の経験でもこんなに違っているのだから、それなのにシス女性の歴史と経験のもとで育まれた尺度から見たりしたなら、それと異質であるトランス女性の物語が高い評価になんてそうそうなりようがなくありませんか?  それをしてしまっているのです。同性カップルが結婚式を挙げて感動しているのを見て、異性愛者が「いまどき結婚式に感動するとか、古くさいな」と言うようなものです。


もう一点、北村先生に賛同し難い点があります。それは『ナチュラル・ウーマン』のタイトルは、トランス女性であり、周りからもまるで女性扱いされない主人公を指すのに「ナチュラル」を使う点で不適切だとする主張です。リリーのすべて』の評価と重なりますが、私からしたらこの邦題こそがこの映画のもっとも素晴らしいポイントでした。

上に述べたような決意と困難を経て、私たちはどうにかこうにか女性としての立ち位置を獲得します。そんな私たちに立ちはだかる最後の壁が「体は男」だとかといった思想です。ひとによってはホルモン治療をし、手術も受けてさえいるのに、それでもなお言われ続ける「体は男」、「生物学的には男性」。私たちはいつまでも「不自然な存在」として語られます。そして、それはまさに『ナチュラル・ウーマン』で主人公が受ける差別の根幹にある思想でもあります。

そんな主人公を、それでも「このひとは自然な、生まれつきの女性だ」と肯定するこのタイトルのなんと力強いことでしょう。私はこの邦題に強く勇気付けられました。私のこの体でも、自然な女性なのだと。

しかし北村先生は「自然」というのは不適切で、むしろ自然とか不自然とかを解体する方向に行くべきだと言う。なぜなのでしょう? なぜトランス女性が自然な女性であってはならず、トランス女性について語るにはそうした二分法を解体させるべきなのでしょう? そのとき、では、「自然」が許されるのは誰ですか? シス女性ですか? だとしたら、北村先生はシス女性は「自然な女性」と語りうる(好ましくない語り方だとはしても)が、トランス女性はそのように語り得ず、トランス女性を女性として見るなら自然云々の話自体を解体するしかないと考えている。この背後にあるのが、トランス女性とシス女性はその身体において同等に扱うべきでないという思想でなくてなんなのでしょうか?

枠組みの解体は、だいたいにおいて望ましいこととされがちですが、「自然」はシス女性用の言葉で、でもトランス女性も仲間に入れてあげるために「自然」は解体しましょうなんて発想は、私にはそこまで好ましいものに思えません。というより、それは自然さを語ることを封じて、暗黙のレベルでそれをシス用に確保することで、シス/トランスの非対称性を維持する企みであるようにさえ思えます。


『サタデー・ナイト・チャーチ』という、多くのトランス女性が出演した映画がありますが、そうした出演者の一人であるインディア・ムーアさんは、自分が生物学的に女性だとツイッター上で訴えました。自分は女性であり、それゆえこの体は女性の体であり、それゆえ生物学的にも女性だ、というのです。

おかしな話だと思いますか? しかし、もし私が何かの偏見や何かの古くさい枠の解体を望むとしたら、まさにこの点です。「私のこの体を、それでもなお自然な、生物学的な、女性の体だと認めよ」これが誰にでも納得のいく話だとは思っていません。言いたいのはただ、『ナチュラル・ウーマン』というタイトルははっきりと、その方向で私たちを肯定しているということです。多くのひとが受け入れられなそうなこの思想を。それは私にとっては最大級のエンカレッジメントなのです。

それを単に不適切だと退ける北村先生は、私にはとてもシス的で、それも古典的なシス目線の持ち主だと感じられます。「女性だって男性と同等に理性的な存在だ」と言ったら、「いや『理性』は女性にはふさわしくない。むしろ理性とか非理性とかといった二分法を解体したところでこそ女性について語るべきだ」と返すようなものです。そんな発言は、仮に当人は男性と女性を同等のものと見なすための解体なのだと言っていたとしても、差別的な思想に基づくと思いませんか?


長々と書きましたが、これらが、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』をトランス差別的だと私が感じ、それゆえに買うことができなかった理由です。


もちろん、私はこれらのことが、差別を意図して、あるいは意識して語られたとは思っておりません。たぶん北村先生は、単にトランスの人々の生き方や経験を知らず、うっかり不用意なことを言っただけなのでしょう。ですから、もしかしたら多少口調がきつくなったところもあるかもしれませんが、私はさして責めるつもりはありません。ただ、きちんと目を向けてほしい、映画、特に当事者が関わっているような映画を見るときには、いまのご自身の視点から作品が持つ違和感を批判するのではなく、むしろその違和感を手掛かりにいまのご自身の視点から外れた人間の存在を察してほしいと思っています。



最後に余談ですが、もしトランス女性として生きるということがどういうことなのかに少しでも関心を持たれた方がいらしたら、私自身の経験に照らしてリアルで、しかも作品として面白かったフィクションには次のようなものがあるのでご紹介します。


映画『Girl』

すでに移行済みで周りにも女の子と概ね見なされている、バレエダンサー志望のトランスの少女の物語です。周りにおおむね受け入れられてなお残り続ける、体の形に対するどうしようもない嫌悪感を痛々しいほどに描いた優れた作品でした。見ながら何度も「これは私の物語だ」と思いました。この記事を書く少し前にまさに公開されたばかりですので、いまなら劇場で見れます。(ショッキングなシーンを含みます)


小説『If I Was Your Girl』

Meredith Russoさんの若者向けの小説。自殺未遂の末にカムアウトし、性別適合手術を受け、家を出たお父さんのもとへ引っ越して、新しい高校に女の子として通い出すトランスの少女のお話です。主人公はパスにまったく問題のない超美少女という設定で、その点は私とはだいぶん違いますが、Russoさん自身もトランス女性だということもあり、描写に「あるある」が散りばめられています。写真を撮られることへの咄嗟の怯えなどのシリアスな「あるある」だけでなく、性別移行によって服のボタンが逆になったせいで服を着るのに時間がかかるようになったなど、くすっと笑える「あるある」もありました(こういうことに言及してくれるフィクションってほとんどないのです)。あと末尾に設定の意図や、シスの読者、トランスの読者へのメッセージがあります。


小説『Birthday』

同じくRussoさんの作品。前作と違って、こちらは性別移行を試みる以前のトランス女性の苦しい心境が痛々しく語られています。男の子として生きることへの苦しさを感じながらもそれを打ち明けられずに次第に荒んでいく主人公、主人公を大事に思いながらもどうしたら良いのかわからない幼馴染やお父さん、そんな人々の数年を切り取り、次第に自分自身として生きようとしていく主人公を痛々しくも、でも最後は爽やかに描き切る、つい最近出た作品です。吐露される苦しみ、自分の体を単なる機械だと思い込み、あえて痛みつけるような真似をし、お酒に溺れるという自罰的な振る舞い。私自身にも覚えのある傷が描かれています。


トランス当事者でも、自分の経験をどう感じているか、特にそれが体の問題だと感じるか、社会の問題だと感じるかといったことには大きなばらつきがあります。なので、私にとってはこれらの作品は私の経験に合致していましたが、必ずしもほかの当事者には同意されないかと思います。逆に「こんなのはまるで違う。ひどい偏見だ」と言うひともいるでしょう。実際、『Girl』には性別違和を体の問題に極言しすぎているとトランス当事者からの批判があり、それを受けて主人公のモデルになった、こちらも当事者の方が「しかしあれが私の経験したことだ」という趣旨の反論をされるなどしているようです。(当事者のあいだでも多様性が大きく、しかもことがさまざまなひとのアイデンティティの根幹そのものに関わるため、トランス映画を語るというのはトランス当事者にとってさえとても繊細なことなのです)

このあたりの多様性も、少しずつ社会に知られるようになってほしいところです。例えば気づかれたかもしれませんが、私はいちどもトランスジェンダー」という言葉を使っていません。広い意味で当事者に当たるひとでも、「トランスジェンダー」、「トランスセクシャル」、「性同一性障害」などの言葉にどんな意味を背負わせているのかには差があり、どの言葉を使うのかに強いこだわりがあるひともいるからです。(私自身も「トランスジェンダー」は好まず、「トランスセクシャル」の方がマシだったりします)「トランス」や「トランス女性」という言い方も、私は比較的背負っているものが少なくて使いやすいと思っていますが、嫌がるひともいるでしょう。北村先生のご著書はこのあたりも繊細でなかったように感じます。


それはともかく、この記事が北村先生や、そのご本を読んだひと、読もうと思っているひとが、トランス女性のあり方というものに目を向けるきっかけとなったら幸いです。



追記:

この記事を公開し、わざわざツイッターでもシェアをしたことの、すでに述べたのとは別の目的についてもきちんと明らかにしておきます。それは、もしどこかに私と同じように『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』にさまざまな偏見から解放された開かれた視野を期待していて、けれどトランス女性に関するその記述の差別性を見出しショックを受けたトランス女性がいたなら、きっとそのひとは、私もそうであるように、同じように傷ついているひとの言葉を求めているのではないか。「あなたの受けた衝撃はおかしなものではない」と頷く誰かを欲するのではないか。そう思い、そうしたひとがそれを求めて検索などをしたときに目に留まるように、開かれた場所に置くことにしました。

私がこの記事を投稿し、ツイッターにシェアするまで、私が簡単に検索したところでは、差別性の指摘どころか、トランスの話と絡めてこの本について語っているどんな言葉さえ見つかりませんでした。これは、私たちの置かれている孤独そのものだとも感じます。語り合う、共感し合う相手さえなかなか見つからない。私と同じようにショックを受けたひとがいたなら(いないに越したことはないのですが)、そのひとのショックを少しでも和らげる、あるいはショックを受ける権利がきちんとあるのだと安心してもらうのに、少しでも力になれたらと思っています。



追記2:

友達から、北村先生はAsk.fmというサービスを通じて匿名の質問も受け付けているから、直接読んでいただいて、この切実さを知ってもらってもいいのではないかとアドバイスを受けました。が、どうもAsk.fmというサイトに行くとフィッシングサイトへとリダイレクトされてしまって、まともに操作することもできなかったため、断念いたしました。(アプリを使ったら普通に見れるのでしょうか?)


追記3:

一日経って見てみたら想像を超えて多くのかたがご覧になっていたので、少しだけ自分の立場を明確化するためにさらに追記させてください。

私は例えば通常のステレオタイプ批判などを否定しているわけではありません。シス女性を描く映画でステレオティピカルな表現があるときなどに、それを指摘し、批判するような批評は有意義ですし、それに反対する気はまったくありません。

私が気にしているのはもっぱら、トランス女性を描く作品にシスの批評家が採用している既存の観点を、(たとえばトランスのひとのチェックなどなしに)そのまま適用することです。本文で述べた通り、少なくとも現在の社会では、トランス女性にはしばしばシス女性とはまるで異なる経験があり、それと結びついた物の見方や生き方がなされています。そして、現状ではトランス映画はそうしたトランス特有の生き方を掬い取ることにこそ目を向けているはずです。ですので、トランス映画やその登場人物、その製作者などについて語るうえでは、トランス特有の経験を踏まえた視点から見る、それが難しくともせめてシス視点では見えないものがあることに想いを馳せるというようにしてほしいだけなのです。

理想的には、トランス女性もシス女性も区別なく、それらが登場する作品も同じように批評されるようになるべきなのかもしれません。しかし、現在はそれが暴力的になりうる程度に、シス視点があまりに優勢であるとともに、シスとトランスの経験の差があまりに大きいと思うのです。これは、男性と女性、異性愛と同性愛といった、他のさまざまな非対称性と同様だと思っています。「理想的には」、それらが登場する作品は同じように扱われ、同じ規範に照らして批評されるべきかもしれない。しかし、それはすでに対称性が確立されたという意味での「理想」が達成された場合には、ということではないでしょうか? 現実の社会は理想の社会ではありません。少なくとも現時点では、まだ。だから非対称性が現にある「現時点では」、非対称的に下に置かれる側の経験を描こうとする作品を、たとえそれが上に置かれる側の規範に照らすと偏っているように見えたとしても、その規範に照らして評価すべきではないと思うのです。それに、その規範にはそもそもこれまで見過ごされていた私たちの声はほとんど含まれていないのですから、むしろそれをひとまず括弧に入れて私たちの声を響かせてもらうことにこそ、私たちの生き様を取り上げる作品の意義があるのではないでしょうか?

私が差別的だと言うのも、何も「ステレオタイプな女性像を認めてほしい」などといったことではありません。そうではなく、トランス女性を取り上げる作品を語るうえでその既存の価値基準を括弧に入れないならば、それはシスとトランスの経験の違いを無視して、一方的にシス視点でトランスを語ることになってしまうということなのです。私たちについて語るならば、私たちの視点を、それが存在することを知ってください。私たちはいまこのときにも、確かに存在し、生活し、私たちの視点から物を見ています。ただ、それに気づいてほしいのです。


追記4:

本文で、トランスはそもそもこれまで映画にまともに出てこなかったのだという趣旨のことを述べています。私はむかしから小説や漫画が好きで、物心ついたころからそういうものを読み、中学生くらいからは映画も見るようになり、大学生ころからは演劇にも足を運ぶようにしました。たくさんの物語に胸をときめかせましたが、ただ、私はどういうわけか、登場人物に共感して泣くといったことは、ほとんど経験せずに生きてきました。

私はずっと自分が冷たい人間で、だから感動できないのだと思っていました。ところが去年か一昨年だったかに、バイセクシャルの男性がトランスの女性に恋をするカナダの小説を読み(正確には自分をゲイだと認識していた男性がトランスの女性に出会い、自分の恋愛感情に戸惑いつつ、自らをバイセクシャルとして位置付け直す物語ですが)、そこに描かれているヒロインの心情、恋愛に求めること、好きなシチュエーションといったものに強く共感し、生まれて初めて小説のクライマックスで涙を流しながらページをめくるという経験をしました。小説を読んで涙を流すということが本当にありうることなのだと初めて知りました。物心ついたころには本が身近にあったからこれまでに何冊読んだのかなんてわからない。にもかかわらず、自分と同じようなことに悩み、同じようなものを好む人物を描く小説に生まれて初めて出会ったのです。このとき初めて、私は自分が冷たいせいで登場人物に共感できないのではない、そもそも自分に似た人物がほとんど描かれることがなかったからうまく共感できていなかっただけなのだと気付きました。

リリーのすべて』や『トランスアメリカ』などはすでに見ていたものの、トランスの人物を描く映画を漁るようにいろいろと見るようになったのもこのころからです。私はこれまで自分に似た境遇のひとを描く物語に触れたことがほとんどなかった、だから自分に似た人物の物語を見る・読むというのがどういうことなのかを知りもしなかった、でも世の中には少数ながら私みたいなひとを描こうとしている作品があるらしい、それを知りたい、みんな見てみたい。そのように思うようになったのです。ナチュラル・ウーマン』との前後関係は曖昧なのですが、『タンジェリン』はこうしたことがあったあとで、私でも共感できる作品を意識的に求めてレンタルし、そして楽しんだ映画でした。

知ってもらえたらというのは、物心ついたころからずっと本が好きな人間が、30年以上生きてやっと初めて「これだ」という小説に出会える程度に、トランスの経験に目を向けるフィクション作品はこの社会にはそもそも少ない、ということです(しかも日本語の小説ではしっくりくるものがあまり見つからず、未翻訳の英語小説を探してやっとでした)。これが本文で、シス女性の歴史からすると古くさく思えても私たちには初めてのことなのだという趣旨のお話をした背後の心情でもあります。

たぶん、これからもっとトランスのひとの姿を描く映画や小説は増えてくれるのでしょうし、トランス当事者の創作者もだんだん増えていってくれるのだろうという希望を持っています。私自身もそれが楽しみですし、もっと若い世代の、自分のアイデンティティに戸惑い、苦しむひとたちにとっても、きっとそれは大事な指針を与えてくれるものになるだろうと思います。



*北村先生が応答くださったので、それを見たうえでさらに感じたことも記しました。ただでさえ長い記事ですが、よかったらこちらもご覧ください。

https://snartasa.hatenablog.com/entry/2019/07/16/140020