ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

北村先生の応答を受けて

今朝方に通知が来まして、北村先生が先日の記事に言及しながらブログ上で応答してくださったそうです。

https://saebou.hatenablog.com/entry/2019/07/16/075455


まず、私がほんの少し前に書いたたったひとつのブログ記事に気づき、それを読み、さらにはそれに応えてくださった北村先生の誠実さに、感謝と尊敬の念を捧げさせてください。ありがとうございます。

また私の誤読や誤解については、拝読した状況が状況なので、その通りなのだろうと思いますし、これらについては私の責任です。


ただ少しだけ気になるのが、幾人かのトランスのひとの評をあげて「トランスでもこのように批判している」という趣旨のことをおっしゃっておられますが、もちろんそういうことはあるだろうと思います。ただ私の記事のなかでもそのように書いているかと思いますが、トランスのなかでの多様性はかなり大きく(国内のSNSなどでもGID概念へのコミットメントが強い当事者とそうでない当事者で互いに互いの無理解を批判しあったりしていますし、そうした異なる陣営はフィクション作品に関する評価にも大きく食い違いがちです)、あるタイプのトランスがそのように批判的に見ているから、別のタイプのトランスの経験も掬い取れていないということは基本的には言えないかと思います(実のところ私には、それがこちらが女性としての経験を語ったときに、「でもこちらの言い分と同じことを言う女性だっているではないか」と別の女性の発言を引き合いに出す男性と、どれだけ違う身振りなのかわからないのです)。前の記事で紹介している『Girl』も、性別の問題を体の問題に極限していると批判する当事者に対し、モデルとなった別の当事者が「しかし、あれは私の経験そのものなのだ」と応答するという一幕があったと聞きます。「その映画は現に誰かの経験を掬い取っているのではないか、そしてそのひとはその言葉を必要としているのではないか、既存の批評的な観点から評価する前に、まずこれまで語られてこなかった経験を語るものとしてのその意義をきちんと示してほしい」それが、私の思いです。そうでもしないと、批判を受けるような映画でしか掬い取れないような経験を現にしているトランスには、声が失われてしまいます。

またステレオタイプに関して、あのようにしょうもない(と私も思いますが)ひとであれ、そしてそれが暴力的な仕方であれ、異性愛(あるいは少なくとも両性愛)の男性に求められるというのは、異性愛者でありトランスである私からすると、間違いなくその機会があれば実際に心から、喜んで求めるものである、と言って良いと思います。それは他のステレオタイプを切実に求める気持ちの延長線上に、現実的にある願望であり、また脅威です(この傾向は私自身もしばしば友人から気をつけるように注意されていますが)。映画で描かれている彼女たちがそうしたものに惹かれるというのも、単にステレオティピカルな表現であるというより、私たちが持つまさにそのような痛々しい傾向を描き出してくれているものだと私は感じました。そしてそのように映画製作者に目を向けてもらえることに、私のようなひとが生きていると知っている視点が存在することに、少なくとも私は勇気を得ます。その意味において、そうした映画もまたエンカレッジングたりえます。私たちのそうした弱く痛々しい姿でさえ。それを語る物語が少なすぎるいまの社会では。


これまで語ってきたような点で、少なくとも私のようなタイプのトランスは疑いもなく「保守的」です。長い髪やスカートを好むだけでなく、男性への好みなどもひっくるめて。ここには、もしかしたら私の側の、ひとつの混同があるのかもしれません。少なくとも私やそれに似たタイプのトランスの人々は、そのひと自身の傾向として「保守性」を持っており、それはしかも以前の記事で述べたような人生の経路からして、ほとんど不可避的とも思える仕方で「持たざるをえない」ものとなっています。それはそうしたタイプのトランスにとって、生きることそのものと、アイデンティティ形成それ自体と結びついているのです。もちろんそれを「保守性」と呼ばれることに抵抗はあります。むしろ私は、そうした「保守性」を私に認めない人々や社会の保守性に抗い続けて生きてきたのですから(こうした観点からすれば、保守的か進歩的かの二分法は、等しく「保守的」と呼ばれるひとのあいだの、具体的には保守的なマジョリティと「保守的」なマイノリティの背後にあるこうした違いを無視するものと感じられます)。ともあれ、そうした人物を描くなら、その表現はどうしたって「保守的」にはなるだろうと思います。問題はそれが、描かれている対象はそうではないはずなのに(そうではない面が重要な点で大きいのに)単に保守的な表現であるのか、あるいは描かれる側の人物の切実な生き方としての「保守性の希求」を描いたがゆえの結果なのかということです。

たぶん北村先生は、作品の表現としての保守性を批判しているのではないかと思います。他方で自身のそうしたどうしようもない「保守性」に自覚的であり、しかもそれをトランス性と切り離しがたい仕方で経験している私は、そのような作品を見てむしろ「私が描かれている、私は確かにこういうことをする、こういうふうに行動する、こういう男性に引っかかる可能性も生々しく想像できる」と感じます。そして、それがほかの作品にはないこうしたトランス映画の、少なくとも私から見た重要な価値なのだと。言い換えるなら、表現の問題なのか、現実の生の問題なのか。私は、なかなか描かれることのない生き方をしてきたトランスの一人として、トランス映画に対して後者を大きく見ています。(もちろんトランスの描き方が何の知識も踏まえていなくてだめだろうという作品もたくさんあり、そうした場合は「不適切な表現」だと判断しますが)


もしかしたら私は、(身勝手な話ですが)現在の社会においてトランス映画を社会的な望ましさみたいな観点から批評されることそのものに違和感を覚えているのかもしれません。私にとって重要なのは、そこに現実に生きるなんらかのトランスのひとの経験とリンクするものがあるかどうか、言い換えると、その映画のなかに確かにトランスの人物が生きているかどうかです。私は映画批評というものをわかっていないので、もしかしたらそもそも批評というのはそうしたものに関わるものではないのかもしれませんが(だとしたら端的に言って映画批評はそもそも私の人生とは大して関係がないのでしょう)、いまようやく広まりつつあるトランス映画について語るなら、その観点から、どんなひとの、どんな経験がここに語られているのかという観点から見てほしいと思うのです。あるいは、さらによく経験を捉えるにはどうしたらいいのか。そうした経験の参照や経験への想像なしに与えられる批評は、私には私たちのなまの生き様を重要でないものとして脇に置いているように感じられるのです。そしてそれを私は、シスのひとがまたトランスとしての生き方を無視している、と認識せざるをえないのです。(いいことなのが悪いことなのかはともかく、トランスの批評家がトランス映画を評するときには、私はそうした感じ方をしません。その批評そのものに、私とは異なるそのひとにとってのトランスの経験が結びついているのをしばしば見出せるからです)


私が北村先生のトランス映画に関する評をざっと読んで(すでに述べたように、本当にざっと読んだのみです)、ショックを受けたあとにひとりの友人に最初に送ったLINEは、「こんな本を読んだのだけど、このかたはトランスの友達とか知り合いとかは周りにいないのかな…」でした。おそらく、(これは応答を受けたうえで思ったことなので先の記事と整合的な話になるのかはわかりませんが)私がもっともショックだったのは、トランスの経験、トランスのひとの生き方、人生というものへの視点の欠如だったのではないかと思います。最終的に「保守性」を批判するならそれはそれでいい、でも単に表現の問題ではなく、この世界の現実にそう生きざるを得ないトランスのひとの存在、そうなるに至る心理、なかなか語られることのないそうした生のありようがスクリーンに乗せられることへの感情、そうしたものへの視点がすっぽり抜けているように見えて、それがシス目線に感じられたのだと思います。実際いただいた応答でも、私の経験に関しては単に「語ってくれてありがとうございます」くらいに触れられているだけに見えたのですが、それこそがいちばん重要なのです。私たちの経験と、それとどうしようもなく結びついたものとしての「保守性」が。

実のところ、その「保守性」が自身の経験やアイデンティティと固く結びついているがゆえに、そしてそれが言及されていた映画にうまくあらわされているがゆえに、表現の保守性に対する批判が結果的に私自身や似た人々の経験やアイデンティティの拒絶に感じられたのでしょう。この点は私の混同なのかもしれません。ですが、マイノリティを描く作品をマジョリティのかたが語るとき、マイノリティの生のありようを生身では知らずに批評することになる以上、その危険性は(トランスの場合に限らず)常にあるのではないでしょうか。それが、マジョリティがマイノリティ映画の「保守性」やその他の不十分な点を批判するときの、どうしようもなくつきまとう危険であり、常に意識しなければならない罠なのではないでしょうか。それに実際、私は応答をしていただいたいまなお(あるいはいっそう)、北村先生は言及されていた作品だけでなく、私やそれに似たひとのような生き方や価値観、アイデンティティ形成の仕方そのものにも結局のところ否定的なのではないか(少なくともそうしたニュアンスを残しているのではないか)という疑念を持っています。またあの本を読んだひとが現実に「保守的」なトランスに出会ったとき、それを否定的に評価することにいくらかの理由を与えるような書き方になってはいないでしょうか? もしそうした書き方になっているなら、それは少なくともある種のトランスに対して否定的な感情を煽るものと言ってもいいのではないでしょうか? 重要なのは映画そのものというより、現に「保守的」でありそうならざるをえないトランスが存在しているということ、そしてそうした人々に対してあの本が示唆する見方なのだと思います。

あるいはこう言ってもよいかもしれません、映画に対するその否定的評価が、その映画に自らの姿を見出すタイプのトランス女性の生き方への否定的評価までも含意する可能性を考え、その可能性をきちんと排除して語っていましたか? と。なされていたのかもしれません。でも私がざっと読んだとき、私はそこに私自身にまで波及する否定的評価を感じ取りました。問題は映画そのものというより、そのことなのです。

表現そのものと表現されるものをきれいに分けることはできないでしょうが、もし「保守的」なトランスの生き方を否定するような考えを示唆しているのでないのならば、そこは区別がつくように、しているのは純粋に表現の話であり、私や私に似たトランスたちがこのように、あるいは語られていた映画のなかで描かれるように生きることそのものは肯定されると示す、あるいは少なくともそこには価値評価が及ばないようにするという形を取っていただけていたら、と感じます。


ナチュラル」という言葉についてのお考えはわかるように思います。ただそれなら『ナチュラル・ウーマン』の主人公を語るうえで不適切(という語り方だったと思うのですが)ではなく、シスもトランスも関係なく誰に対しても女性に「ナチュラル」と形容することは不適切だから、ということを真っ先に上げてほしかったように思います。例えば同名の日本の小説や、同名の歌についても同様だと。それにそれが理由なのであればそれは一般的な話であって(女性にナチュラルもアンナチュラルもないから「ナチュラル・ウーマン」はよくない)、マリーナの作中での扱いなどについてはあの文脈で触れる必要はそもそもなかったのではないでしょうか? 

私自身はトランス女性を「自然な女性」だし、「生物学的女性」と呼びますが、これは結果的に自然な女性や生物学的な女性の条件にトランス女性も満たせるものしか入れないようにするということなので、結果的に出てくる認識は、おそらく北村先生と大差ないように思います。妊娠や出産に関する機能はもちろん、性器の形状もXX染色体を持つか否かも、私は自然な女性であるかどうかとは関係ないと考えています。要するに私にとって「自然な女性」は単に「女性」と同義で、そこに生物学的決定論の側面は入り込まないよう徹底されており、ただあえてそれを「自然な」と呼ぶことを許すことで、「『自然な』という形容詞自体を使わないようにすることで、胸のうちで、あるいは暗黙の仕方でそれを一部の女性用の特別な、語られざる形容詞として保存する」という可能性に明示的に抗っているというだけです。そのように「語らずして確保する」ことさえ許す気はない、と。私が『ナチュラル・ウーマン』に見出したのもその方向の思想です。

個人的な意見としては、これは北村先生の採用する立場よりももっとラディカルな考えなのではないかとも考えています。実際、北村先生が「自然」という言葉に抱いているであろう懸念は、私を、あるいはマリーナを「自然な女性」と呼ぶとき、おそらくすでに解消されているでしょう。性染色体がXYで、ヴァギナも少なくとも生まれたときには持たず、子宮もなく、生理も妊娠もない私たちに対して「自然」を使うとき、懸念されていた「自然な女性」の好ましくない含意の何が残っているでしょうか? むしろそれらはすべて晴らされることになり、残るとしたら「しかしそれを『自然』と呼ぶのに違和感がある」くらいの話ではないでしょうか? これはトランス女性を「自然な女性」と呼ぶことから即座に出てくる含意です。むしろ私としては、「自然性」が持つ好ましくない含意を徹底して打ち消すためにこそ、私たちをきっぱりと「自然な女性」と呼べばいいのに、とさえ思います(もちろんこれは、シスとトランスに本質的な身体的ないし生理学的な差が存在するという見解のひとであれば、取れない立場でしょうが)。トランス女性も「自然な女性」と呼ぶその用法ならば、体や機能や形状がどうあれ、シス女性もすべて「自然な女性」と呼ばれることになるでしょう。ですので、マリーナを「自然な女性」と呼ぶことへの拒絶の理由としては、一部の女性を特権視し、他を抑圧するような好ましくない含意というのは、本当ならまるで理由にはならないのではないかと思います。あの邦題に私が見出す思想は、どんな体をしていようと、シスだろうとトランスだろうと、あらゆる女性は「ナチュラル・ウーマン」であり、不自然な女性なんて存在し得ないというものなのです。実のところトランス女性を主人公とし、あれだけ差別され、暴力にさらされる物語の邦題をあえてこうすることの狙いとして、いったいほかに何が考えられるでしょうか? それが私の認識です。


北村先生が丁寧に応答してくださったおかげで、私自身にも私が気にしていたことの核が見えてきたように思います。それは取り上げられている映画の評価以上に、批判を受けているその映画で描かれているように(それゆえ批判されているような表現で確かに正しく捉えられる仕方で)現に生きているトランス女性の存在が、そうした人々のそこに至る経験や人生とともに無視されているのではないかということのようです。なので、映画の評価としては仮に批評家たちのあいだで一般的に受け入れられるものであったとしても、それを現にそうした作品を自分たちの物語だと思っているトランス女性たちと丁寧に切り離すことなく論じたならば、彼女たちを(私も含みます)不当に無視し、彼女たちの視線よりも自らの視線を優位に置くような側面を、その批評は持っているのではないかということなのです。実際の経験と丁寧に切り離し、純粋に、人々の実際の人生と無関係なものとして映画を論じる準備をするか(それならば「勝手なことを」と腹を立てることはあるかもしれませんが、差別的とまでは思わないで済むかと思います)、さもなくばまさにそのように生きるトランス女性と向き合い、その声を聞いてほしい、これが私の伝えたいことです。


『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』を読まれたかたには、女性の立場への意識が高いひとが多いだろうと想像します。ですので、このように考えてみてもらえないでしょうか? 北村先生ではなく、なんらかの男性が同じような本を書いたとし、それを読んだ一人の女性が私と同じような仕方で「女性の経験を踏まえていないではないか、これでは女性を無視していて差別的だ」と訴えたとする。そしてその男性は北村先生がしたのと同様の応答をし、いま女性は私が書いているのと同じような応答をする。「シス女性」を「男性」へと、「トランス女性」を「女性」へと書き換えた形で。わかりませんが、そのようにしたなら、もしかしたら私の感じていることがいくらか伝わるかもしれません。その女性は、男性側の批評に反論したのでもなく、男性側の批評を強化する論拠やほかの女性の意見を与えるように求めたのでもないのです。ただ、自分や自分に似た女性の経験や物の見方をあなたは気づいていないのではないか、気づかずにそれをないものとして扱っているのではないか、と言っただけなのです。(マジョリティ側のひとが納得のいく基準をもとに抽象的なレベルで議論をする前に、いまここにある個々人の具体的な生のありようを知ってほしい、それを知らないうちにそんな議論に入らないでほしいという私の気持ちも、女性である、同性愛者である、民族的マイノリティであるなどの立場のひとにとっては、私にはもちろんトランスであることと女性であることについてしかわかりませんが、おそらく似たようなことをしばしば感じているものではないでしょうか?)


追記: 

シスのかたから「保守性」を(トランス自身についてであれ、トランスの表現についてであれ)語られるときに私が感じていることは、おおむね哲学者の千葉雅也先生が以前に語っておられた、非カテゴリー的な者にとってのカテゴリー的なものの切実さ(そしてその「保守性」をマジョリティのひとこそが容易に非難すること)といった話と同じようなことではないかと思います。

それに関してはツイートもされておられましたが、『世界思想』46号に掲載されている千葉先生の論文にもまとめられていたかと思います。千葉先生はシス男性のかたですが、私はこの関連する千葉先生の言葉に「私が日々感じていることが表現を得た」という感動を覚えました。


追記2

書き落としていましたが、「古くさい」が特に否定的なニュアンスではなく「古典的」とのことだそうで、そうであるならばそれは納得しました。ただ普通はそれは否定的な言葉として使われているのではないでしょうか。その点は、「古くささ」より新しさのほうを強調して語ってくださればよかったのだろうと思います。「トランス俳優を使うのは新しいが、古くさい」、あるいは『クレイジー・リッチ』は「アジア人キャストばかりで作られているのは新しいが、古くさい」という形で語られていたように見えて、キャスティング以外のどこを高く評価していたのか少なくともざっと一読したところ見えやすい書き方ではなかったように思います(余談ですが、『クレイジー・リッチ』も私から見たら理想の男性と理想の関係を築き理想のプロポーズをされる、最高に素晴らしい映画でした)。もちろん、私が見落としていたのかもしれません。

そして取り上げられていたトランス映画に新しい点があるとしたら、それはまさにトランス女性の経験とのリンクではないか、そこは相変わらず見過ごされているではないか、とまだ感じます。そこを知らないで語れるのだろうか、と。ここでも問題は、トランス女性の経験に目を向けられているのかということなのではないかと思います。


追記3

もう少し簡潔に書けそうなので記させてください。

ある作品で描かれる限りでのある人物の振る舞いや装いが(つまりはそのような人物として描くことが)ステレオティピカルである、ないし保守的であると否定的に主張するとき、それはその人物と同じように振る舞い装う現実の人物もまたステレオティピカルで保守的であり、よくないという含意を伴うのでないでしょうか? 例えば作中での男女の関係性の描写が保守的であると主張するとき、もし現にその関係性を模したような関係を築く男女がいたとしたら、それは批判されるべきだということを、そうした評価は含意しないでしょうか?

そうした批判を、もっぱらマジョリティの特権性を解体するためだけに用いるのなら構わないのです。一見当たり障りのなさそうな作品に潜むそうした点を暴くことは、日常においてもそうした当たり障りなさそうなことをするひとの背後にある特権性を暴き立てるでしょう。実際、あのご著書の大半はそうした方向に向けられているものと想像します。

しかし、仮に方向性としてマジョリティ男性と似た「保守性」が見られるのだとしても、あの箇所で相手取られているのはシス女性である北村先生よりもむしろ弱い立場であるトランス女性なのです。問題は、作品の保守性を語るときに、仮に念頭にある目的がマジョリティ男性の特権性の解体だったとしても、その語りにおいて、まさに作品に描かれているように振る舞ってしまいざるを得ないタイプのトランス女性に対しても否定的な評価を同時に下してはいないか、ということなのです。言ってみれば、北村先生はご本人としてはマジョリティ男性だけを目標にその保守性を暴こうとしているのかもしれませんが、そのときに撃ち出す銃弾が私たちを貫通して進んでいるように思うのです。その銃弾が、私たちが甘んじて受けるべきものだというのならまだわかります。「こういうふうに生きてきたひとがいるのも知っている、こんなふうに言われたくないのも知っている、しかしあなたのためにこそ言うのだ」という形なら、パターナリスティックでシスプレイニング的ではあるかもしれませんが、存在に気づいているとは思ったでしょう。しかし、単に見えてないから気づかず撃ってしまっていたというのでは救いがありません。そしてあのご著書を読んだときに、私はそもそも自分たちの存在を気付かれてさえいないと感じたのです。

実のところ、あのご著書を書かれるに当たって、批評家や研究者など以外にはどの程度トランス女性やトランス男性の体験について調べ、どの程度実際のそうした人々と交流したのでしょうか? そうしたひとの経験や生き方についてどの程度のことを知り、言及されていた映画とそうしたひとの生き方との結びつきの可能性をどのくらい意識されたうえで語っていたのでしょうか? せめて当事者同士の交流会や、当事者が多くいる学会のようなものには顔を出し、意見交換くらいはされたのでしょうか? 私が気にし続けているのは、「その批評は妥当なのですか? 根拠があるのですか?」ではありません。「私たちがどう生き、何を感じてるのか知っていますか? 知ったうえで語っていますか?」なのです。こうした「そもそも私たちの生き方に関心を持ってはいないのではないか」という疑念は、数人のトランスの批評家の意見を自説の補強のために持ち出されてもなくなりはしません(そもそも私の素朴な感想も数え入れたとして、私自身も含めて複数ある当事者の声のうちで、これは拾い上げあれは拾い上げないというその選択は、いかなる権利のもとでなされているのでしょうか?)。そして、もし仮にトランスの人々の具体的で多様な生き方に無関心であったのならば(そうでないことを願いますが)、それにもかかわらずトランスを描く作品についてほんの数人のトランス批評家の言葉を持ち出すだけで自分はそのよしあしを断じる立場にいるのだというその前提は、この社会の差別的な構造に根ざしてはいないでしょうか? 私たちがシス女性に逆のことをすることは基本的にできないのです。そんなことをすれば、よくて無視されるか、悪ければ「けっきょく男だから女のことがわからないんだ」と言われるだけですから(もちろん北村先生はそんなことを決して言わないと思いますが、現在の風潮では世間的にはそうでしょう)。



*単純な書き間違いなどがいろいろ見つかるため、適宜修正しております。ご了承ください。