ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

映画紹介『Girl』(2018)

バレエダンサーを目指すトランスの少女の物語

ルーカス・ドン監督作、オランダとベルギーの合作。

映画「Girl/ガール」公式サイト 2019年7/5公開

日本では2019年に公開され、この記事を書いている現在もわずかながら公開中の映画館があります。

第71回カンヌ映画祭にてカメラ・ドールとクィア・パルムを受賞したとのこと。カメラ・ドールはわかりますが、クィア・パルムというのはこの情報を調べていて初めて知りました。2010年からあるみたいで、『わたしはロランス』、『キャロル』、『BPM』などの有名な作品が取っているみたい。

バレエダンサーを目指して努力し、そして自分自身の体の形状に苦しみ続ける少女を描くこの作品は、実在のダンサーであるノラ・モンスクールさんをモデルにし、また監督とモンスクールさんのあいだでの密なコミュニケーションのもとで製作されたそうです。批評家からは概ね高評価である反面で、トランスやクィアの批評家からは批判的な意見もあるとのこと。

いろいろな意見があるのも承知のうえで、私はこの映画が大好きです。今年はいまのところ旧作も含めると50本弱の映画を見ていますが、そのなかでいちばん好きかもしれません。

この記事では、映画『Girl』の概要と、私が魅力を感じた点、あと最後に軽くこの映画が引き起こした議論について私なりに思ったことをお話しします。

 

あらすじ

バレエダンサーを目指す15歳のトランスの少女ララ(ヴィクトール・ポルスター)。お父さんと弟と三人で暮らしながら、有名なバレエ学校に進学することになります。バレエを始めた時期の遅さから先生からは不安の声が上がるものの、全体のレッスンのほかに体に鞭打つようにして個人レッスンも受け、努力するララは、次第に認められていくようになります。

その一方で、ララは自分の変わった体への苦悩を抱き続けます。第二次性徴を投薬で抑制しているものの、ペニスへの嫌悪感を拭い去ることができない。お父さんや病院の先生からは「その体のままでももうすでに素敵な女の子なんだよ」と諭されるものの、ホルモン治療や性別適合手術を望み、そうしないと自分が女の子だとは思えないと語り、普段はテーピング(と字幕にありましたが、いわゆる「タック」、ペニスや睾丸を無理やり押さえ込んで目立たなくする手法のことかなと思いました)で体つきを矯正しています。

自らを追い込むような練習、体つきを気にしての食事量の減少などが徐々にララを衰弱させ、よりいっそう追い詰めていく。衰弱すればするほど医者は性別適合手術に難色を示すようになり、悪循環に陥ってしまう。その果てにララは、ある重大な決断をすることになります。

 

理解のある社会にそれでも残る苦悩

この映画で印象的だったのは、ベルギー(が舞台だと思うのですが、勘違いだったらごめんなさい)におけるトランスへの理解や受容の度合いが日本とはぜんぜん違うように見えたこと。上でも書きましたが、どうしても自分の体が女性の体だとは思えないというララに、お医者さんやお父さんが「その体のままだも素敵な女の子じゃないか」と語りかける。それって少なくとも私自身は治療の過程では、特にシスのひとからは言ってもらったことがない言葉で、いろいろな経験の末にようやく自分から「どんな体であれ女性は女性なんだ」と考え、言えるようになったという感じで、だから「そんなふうに普通に語られる世の中ってすごいな」と感心しました。それにバレエ学校でも女子生徒として入学を認め、更衣室なども普通に使わせていて、「社会的な受容」というあたりでは日本よりすごく進んでいるという印象でした。

もちろん、眉をひそめたくなるような出来事やひどい行為もあるんです。バレエ学校の先生がララに目を閉じさせて、ほかの生徒に「ララを女子生徒として受け入れることに反対のひとはいますか?」といった趣旨の問いかけをする場面がある。あれって先生側からしたらトランスの子も受け入れ、シスの子にも配慮して、と当たり障りのない対応のつもりなのでしょうけれど、大勢のひとのなかでひとりだけ名指しで「この子を女の子として受け入れられる?」と問いかけられるのって、ちょっと胃が痛くなるような話ですよね。そもそも受け入れるも受け入れないもなく、ララはもともと女の子なのに、何の権利があってほかのひとがそんなことを決めるのかとも思いますし。

それにバレエ学校の子たちもなかなかひどくて、本人たちは悪気がないのかもしれないけれど、自分の体を嫌ってシャワーも浴びずにこっそり着替えるララに向かって「シャワー浴びなよ」と平気で言ったり、合宿では「私たちの裸を普段見てるんだから、あなたも見せてよ。女同士なら見せられるでしょ?」と迫ったりする。シスとトランスを同等に扱うことって、必ずしも体について同じように扱うことではないはずなんです。というか、シスのひと同士だって体にコンプレックスがあるひとに、ことさらにそれを見せるように言ったりするのって侮蔑的ですよね。それと同じで、自分の体に苦悩しているララに向かってそういうふうに言うのって、当人の意図はわかりませんがひどく侮蔑的で、そしてそうした言葉を向けられたときのララの表情も見ているだけで胃が締め付けられるようになりました。

そんなことはありつつも、でも日本と比べるとまだ社会的な障壁は少ないらしいベルギー。さらにララはいわゆるpassableな外見や声で、トランスのひとを見慣れていてたぶん多くのひとよりすぐに気づく私から見ても、街で見かけたらシスの女の子だと思いそうな雰囲気なんですよね。演じているのがシスの男性であるというのに驚いてしまったくらい。なのでこの映画では、社会は(差別的な目は残しつつも)概ねララが女性として生きる道が整っていて、しかもララ自身もまた周りから普通の女の子にしか見えないような姿をしている。でも、それでもララは苦しみ続けるんです。

あとで述べるように批判もあるポイントですが、この映画では繰り返し、強迫的なまでにララのペニスが注目されます。ララは周りに心配され、止められても、テープで隠すことをやめない。テープを貼ったり剥がしたりするシーンが何度も反復され、テープに覆われていないペニスからララが顔を背ける様子も繰り返される。ララにとって、性別違和はおそらく何よりも体への拒絶感なんです。だから、社会でそれなりにやっていく目処が立っていたとしても、その体がある限りララは自分自身を受け入れられない。社会がララを受け入れない以上に、はるかにララ自身がララを受け入れていないんです。トランス映画では性別移行そのものか、もしくは世間からの偏見といったものが焦点になりやすく思うのですが、この映画のララはすでに女性としての生活を確立していて、しかも世間の態度は比較的穏やかなものとなっていて、そうした語られがちな困難についてはずいぶん薄まっているはず。それでも、それだけではララは救われない、その痛みがすべての画面に溢れているような映画となっています。

この描き方が、私には強烈に響きました。トランスの当事者には、性別違和を主に社会の問題だと感じるひとからそれを主に体の問題と感じるひとまでのあいだで、グラデーション的にさまざまな感じかたのひとが存在しています。ひとによっては、「社会の偏見が問題なのであって、それが解消されれば治療や手術なんてしないで堂々と元の体のまま自分の性別で暮らせるのだ」と言うひともいます。ですが私自身はそうではなく、むしろ「戸籍変更の要件から手術が取り除かれたとしても、世の中のひとが『元の体でもちゃんと女性だ』と言ってくれたとしても、私は体を鏡で見るたびに嫌悪感を抱いていただろうし、結局は手術を受けただろうな」という側です。だから、ララの苦しみかたは、私にはどうしようもないほどにリアルに感じられました。

ララが自分の体を大事にしていないみたいに無茶なトレーニングをしたり、途中でピアスを開けたりしているのも、私にはなんとなくわかるように感じました。ピアスは私も性別移行前に開けていましたし、私の場合はダンスやスポーツに打ち込むといった方向ではないですが、昔から自分の体は粗末に扱っていたというか、「この体が私の最大の敵」という感覚が強かったから、痛めつけてやると少しだけ気が楽になれたような気がしたんですよね。無茶な飲み方をして気分が悪くなったりすると少しだけ気が晴れたり。私にとってはそれこそが性別違和の経験の核だったから、この映画を見たときに「ああ、私のあの苦痛を描いてくれている!」と感動できたし、あの痛みを知らないひとたちにぜひ見て、感じ取ってほしいとも思いました。

 

賛否の声

詳しく情報を追っているわけではないのでWikipediaで紹介されているようなものを軽く読んだだけなのですが、この映画にはいくつかの重大な批判も出たそうです。

ひとつはもちろん、主演がシスの俳優であること。『タンジェリン』や『ナチュラル・ウーマン』、さらには『サタデー・ナイト・チャーチ』やドラマ『Pose』と、トランスの人物はトランスの俳優が演じるという流れが強まっているなか、トランスの女の子をシスの男性が演じるというのには疑問の声があったようです。私はそこまでこだわらないほうですが、もしトランスの俳優が出ていたらさらに嬉しかったかなとは思いました。

もしかしたら役柄のために演じられる俳優も限定されていたというところがあるかもしれませんね。10代の女の子で、しかも激しく踊るシーンやバレエのレッスンのシーンがあり、第二次性徴前の体つきをしている。この設定をみんな叶えようとするとトランス/シスを問わずほとんど俳優さんが残らないのではないでしょうか。ただ、10代を演じられるようなトランスの俳優だとか、ダンスシーンを演じられるトランスの俳優だとかが見つからないのって、背後にはトランスのひとたちがシスのひとに比べて俳優やダンサーといった業界に進出しにくいという事情がきっとあると思うので、いつかそれが解消され、当たり前のようにトランス俳優が候補としてなを連ねるというふうになってくれたらいいですよね。

それ以外の批判としては、この映画がララのペニスに執拗に焦点を当てているということに関するものがあったようです。性別違和の問題を身体の問題に極限しているとか、そうした関心の持ち方がシス男性的だとか。

ただこのあたりはモデルになったモンスクールさんも「でもこれこそが私の経験なのだ」という趣旨の反論をしているようなのですが、トランスの当事者のなかでもたぶん感覚がわかれるところなんですよね。私は、ララと同じように、まさに何よりもまず身体の問題、ペニスへの強烈な嫌悪感として性別違和を経験していて、手術を受ける前は本当に毎日毎日自分のペニスのことで頭がいっぱいだったりしました。お風呂に入るとき、着替えるとき、どうしてもそれが目に入り、気になりだすと「こんな体でどうやって生きていったらいいんだろう」と落ち込んでしまい、どうにか目立たないようにしようとする。そんな私にとっては、実際の経験がまさにあんな感じだったという感覚が強くて、どうしても「性別違和って確かにこんな感じだよね」と思ってしまうんです。ただこれは一部のひとの感じかたであって、トランスのひとがみなそういうふうに感じているわけではありません。体そのものに嫌悪感を持っているわけではなく、この体を認めない社会こそが困難の中心なのだと感じているひとにとっては、もしかするとほとんど偏見の塊のような作品に見えるかもしれません。

だから、私と同じような感じかたをしているトランスのひとにとっては、いわゆる「刺さる」映画だと思います。でも私みたいな感覚がピンとこないトランスのひとにとっては、むしろ不愉快かもしれません。このあたりは、たくさんの種類の映画が出てきて、どういうふうにトランスとしての経験を受け取っているひとにとっても、なんらかの「自分を描いた映画」が見つかるようになるといいですよね。

そんなわけで、シスのひとには、「私からすると『ララは私だ』と思えるくらいにリアルだったけど、でも『こんなのぜんぜん違う』と感じるトランスのひともいるので、あくまで『こう感じているひともいる』くらいに見てください」というところかなと思います。

 

とにかく美しい

いろんな意見はある映画ですが、それでも単にトランスを描いているというだけでなく、とにかく美しくて、単純に映画として魅力的なので、ぜひいろんなかたに見ていただきたいです。

わざと手ブレを残したカメラで青春らしい不安定なみずみずしさを醸し出すレッスンシーン、幼い弟を抱きしめ、優しく面倒を見るララの姿、そしてはじめての、見ていて微笑みたくなるような(でも、だからこそ苦しい)恋、お父さんの優しさ、多くを語らず苦しみを抱え込むララの表情。私みたいに自分の経験に照らして共感するというのは、シスのひとには特にですけど、なかなか難しいかもしれません。でもそういうものを抜きにしてもこの映画の美しさと、だからこそ際立つ痛みは、きっとスクリーンから伝わるはず。そして、もし可能なら、もしかしたら普段何気なくすれ違っている人々のなかにも、その痛みを抱えているひとがいるのかもしれないと思いを馳せてもらえたら、とても嬉しいです。