ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

映画紹介『彼らが本気で編むときは、』

「母性」あふれる、「女らしい」トランス女性はステレオタイプ的?

彼らが本気で編むときは、 | J Storm OFFICIAL SITE

荻上直子監督作の『彼らが本気で編むときは、』は、公開前から話題になっていた映画でした。

かもめ食堂』などで評判となった荻上監督の手になる作品で、当時はまだそこまで多くない、トランス女性をシリアスに取り上げた作品でもあり、しかも主人公の女性をジャニーズ事務所に所属しながらも歌やダンスではなく俳優で身を立てている生田斗真さんが演じるというので、監督に関しても、テーマに関しても、出演者に関しても、話題になって当然といった作品でもありました。

この映画、私も公開してすぐに映画館に見に行き、かなり序盤から涙を流し、ハンカチを握り締めながら見たものです。これを機にすっかり生田斗真さんのファンにもなりました。『人間失格』なんかもいいですよね。「こんな声で語りかけてくれるひとにだったら、私も尽くしてしまう……」と思いました。

話を戻しますが、この記事では、生田さんがトランス女性を演じる素敵な映画『彼らが本気で編むときは、』のよさを、私の目線から語っていきたいと思います。

それに当たって、ひとつ参照点を加えておきたいと思います。と言いつつ、もはや検索しても見つからなくて実際に参照することはできなかったので、記憶頼りで語るしかないのですが、実はこの映画、公開直後にある批評が話題になったんです。とはいえどなたが書かれていたのか思い出せないので、具体的な批評というよりは、「仮想の批評」くらいに思っていただいても構いません。

それは、この映画がトランス女性を扱うという点で先進的でありながら、ステレオタイプ的な女性像を再生産するという点でむしろ保守的であると指摘し、不満を述べる批評でした。実際、生田さん演じるリンコは、相当な程度に「女性的」なんです。妙にゆるっとしたワンピースばかり着ていたり、料理上手だったり、子供好きだったり、編み物までできたり。とても優しく穏やかな人物としても描かれていて、それはまさに、「女性的」とされる要素のてんこ盛りみたいな人物描写になっている。それがステレオタイプ的な女性像であることには、私も異論はないのですが、そのことの、私から見た限りでの、トランスにとっての意義というのを語ることで、そうしたありうる(というか現にあった)批評に応答していきたいと思っています。

とはいえ、いきなりそんな話をしてもあれなので、まずはもう少し柔らかなところから。

あ、この記事にはたくさんのネタバレが含まれますので、気になる方は先に映画をご覧ください。

トランスの女性と、小学生の女の子の、擬似的な親子関係

この映画の筋は、かなりわかりやすいものです。

主人公は、ネグレクト気味な母親ヒロミと二人で暮らす小学生の女の子トモ。しばしばトモを放置して家を出てしまうヒロミなのですが、物語の始まりでもいつものように新しい恋人のもとへと出奔してしまい、トモは一人取り残されることになります。そんなとき、いつも頼る相手が叔父(母親の弟に当たります)のマキオ。今回もトモは慣れた様子でマキオの働く本屋さんに赴き、マキオの家に身を寄せようとします。ところが、久しぶりに会うマキオには実は恋人ができていて、すでに一緒に暮らしているというのです。それが、トランスの女性である、リンコなのでした。

トモはもともと、偏見から自由ではない女の子です。幼馴染の男の子カイが「女みたい」などとからかわれるのを見て、それに自然と与するかのように、カイを粗雑に扱ったりします。そして、ここがこの映画のポイントのひとつだと思うのですが、生田さん演じるリンコは、はっきり言ってそんなにパスしていません。要するにトランスだとわかりやすい。作中でも一目でバレるシーンがあったりします。そんなリンコですから、初めて会ったときのトモはぎこちない。

けれどともに暮らすうちに、トモ、リンコ、マキオが互いに信頼しあうひとつの家族となっていく、その様子をこの映画は丁寧に描いています。

リンコの絶妙な描写と演技

リンコに関して、当時からさまざまな感想が見られました。なかには「ふつうの女のひとにしか見えない」(その意味するところは「シス女性にしか見えない」だと思います)というのもありましたが、作中でリードされる(バレる)描写がある以上は、少なくとも制作サイドはそのように意図していなかったかと思います。トランスであることはわりとすぐ見て取れるタイプです。

他方で、「服が似合っていない」「服がダサい」のような意見もたくさん見かけました。そして「生田斗真が男っぽすぎて男にしか見えない」などもありました。

私は、これが、「だからこそ」リアルだと感じました。

リンコはやけにワンピースやスカートにこだわり、そして、やたらとゆったりした服を着るし、しかもそれが生田さんの顔つきなどに比すると少女的すぎるきらいもあって、はっきり言って似合っていないし、ダサいんです。でも、特にジェンダークリニックに行った経験のある当事者のかたはピンとくるのではないかと思うのですが、そういうトランス女性って、実際のところ多いんですよね。思うに、これにはいくつかの理由があるんです。

ひとつには、女性的なものへの憧れがある。体つきや顔つきからすると、いっそボーイッシュな格好をしたほうが似合うには違いないんですよね。でも、女として生きると決意した以上は、できたら女性的な服を着たいというのが人情。もちろん慣れてきたらボーイッシュなアイテムを組み合わせつつフェミニンに見せるとかもできるのですが、トランスの女性は、特に移行からそこまで経っていないひとは、経験不足すぎてそもそも慣れていないんですよね。

さらに、経験不足というのと絡むことですが、ファッションの個人史みたいなものが欠けているひとも多い。何せ、移行するまで男性服を着ていたわけです。そうすると、シスの女性なら多くの場合に経験するのであろう、各年代でいろいろ着てみては周りの意見をフィードバックして、だんだんとファッションの感覚を蓄積・更新していくというプロセスが、ぽっこり抜けてしまいがちなんです。そうするとどうなるかというと、「女性服を着ようにも、どんなアイテムがあり、何が自分に似合っているのかなどの蓄積がまるでなくて、五里霧中」みたいな状態になってしまう。

私は男性として暮らしていたころから服は好きで、男性服で自分なりに可愛く着るというのをしていました。特別におしゃれとまでは言えなくても、興味や慣れはあったほうだと思います。それでも、女性服にシフトしたころはどうしたらいいかわかりませんでした。そもそも想定されている体格が違うから、男性服を買っていたブランドでは着れる女性服を買えなかったりするんですよね。あと、やっぱり女性服のほうがバリエーションが多くて、男性服時代には挑戦したこともないようなものが多すぎる。そんなこんなで、私もはじめのころはかなりもっさりした格好になっていて、母に笑われたりしていました。

また、男性として暮らしていたころの規範が心に残っていたりもします。例えば肌を出すことへの忌避感。男性が肩を出したり脚を出したりというのは、かなり頻繁に「気持ち悪い」と評価されます。いまもたぶんそうですよね?そうすると、肌を出すのは気持ち悪がられるというのが心に刻み込まれてしまって、妙に肌を覆う格好になりがちなんですよね。それってでも、男性に比べると女性には適用の程度が低い規範で、そんな意識でいるとどうしてももたついたような服装になりがちなんです。見ていると、リンコも妙に肌を覆う割合の大きい格好をしていて、このあたりでもリアルだと感じました。

もちろん、体格をごまかしたいというのもあります。肩幅の大きさ、くびれのなさ、脚の筋っぽさ……。ホルモン治療が進めばだんだんと気にならなくなる部分もありますが、若いうちからホルモンをするのならともかく、それなりの年齢になってからだと、骨格などはどうしても変えようがなくなってきます。すると、それをどうにか誤魔化したくて、ゆるっとした服を着たくなったりするんですよね。

これに関連して、あからさまに女性的な服のほうが少なくとも女性として見られたいという意志自体はあらわな分、トラブルが起きにくいというサバイバル上の理由ももちろんあるでしょう。

そんなこんなで、リンコの「ダサい」格好って、私から見るととてもリアルで、「わかってる」感じがするわけです。それに加えて、さして女性的な顔立ちでもない生田さんの起用。顔立ち、体つき、声、どれもまさに移行の途中段階などで経験するような、周りからすぐに奇異の目で見られるトランス女性の姿なんですよね。もちろんそういう経験をせずに済むひともいるとは思いますが。

だから、生田さんの演じるリンコに向けられる感想もまた、トランスの女性として生きる私には、聞き覚えのある言葉でもありました。それがすごいと思う。感想を書いているひとは思ってもいないだろうけれど、この作品はまさに、リードされてしまうトランス女性に出会ったときに非当事者から発せられがちな言葉を引き出すつくりになっているんです。その背後にあるのは、リンコのやたらとリアルな描写だと思うんです。

これに加えて、生田さんの演技もとてもいいのですよね。そこかしこで見られる怯えたような視線、手の大きさを指摘されたときの動揺など、トランスである私から見て納得のいく振る舞いを見事にしてみせています。

トランス女性が母に成る物語

さて、ステレオタイプの話に移りたいと思います。リンコは料理上手でフェミニンな服を好み、子供に優しい、このうえなくステレオティピカルな女性として描かれている。なぜそのように描かれているのでしょうか?

まずトランス女性にとっての女性ステレオタイプとシス女性にとっての女性ステレオタイプの距離感の違いを指摘することができるでしょう。このことは以前に以下のエントリーでも述べましたので、ここでは細かくは繰り返しません。
あるトランス女性が見た北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』 - ゆなの視点


改めて言っておきたいのは、私たちにとって女性ステレオタイプは、基本的には押し付けられるどころか頑なに拒絶されてきたものであり、自力でそれを身につける権利を獲得したものだということです。他方で私たちには「トランスステレオタイプ」とでも言うべき表象、例えば青々とした髭の剃り跡がある筋肉質な「おかま」のような姿や、男女の枠を超越した視点からアドバイスをする「超越的トランス」とでも言うべき姿を押し付けられてきました。そうしたステレオティピカルなトランスとしては描かれず、女性らしさへの生々しい憧れと、ときに周りから奇異の目で見られるような体つきとを抱えて、そのあいだで悩むリンコは、トランス女性の描写としてはむしろステレオタイプに抗い、リアリティを目指したものだと評価できるかと思います。(もちろん、「苦しむトランス女性像」を強調しすぎで、その点ではステレオティピカルなのではないかという批判は成り立つと思いますが。)

こうした点で、まずはリンコの描き方を「ステレオティピカル」と断じるとき、そのひとはトランスの人々の個人、あるいは集団としての歴史を省みていないのではないかと私は感じます。それを省みたなら、むしろこの映画が少なくとも相対的には真摯な作品であると、あるいはそのように判断する当事者がいることは少なくとも理解できると思うことでしょう。

ただ、これは『彼らが本気で編むときは、』の真摯さの話であり、ラディカルさの話ではありません。実のところ私は、この映画が極めてラディカルで、その一見した雰囲気に反して、まるで保守的ではない側面を持っていると考えています。そしてそこにも、ステレオタイプが絡んでくるのです。

「社会的ステレオタイプ」と「身体的ステレオタイプ」という用語を導入してみることにします。ステレオタイプというのはそもそも社会的な事柄でしょうから、変に聞こえるかもしれませんが、ちょっとずつ説明していきます。

まず社会的ステレオタイプというのは、振る舞いや装いにおいて、「女性らしい」、「男性らしい」などとされるものを指すことにします。これに対し身体的ステレオタイプは、体の形状や機能において、「女性らしい」、「男性らしい」などとされるものを指すことにします。

この特徴づけは曖昧ですが、いまのところこれ以上にうまく語る方法を私は見つけられていません。これらは後天的/先天的とはいくらかずれる軸であるように思います。トランスのひとには経験があるかと思いますが、私は日常的な振る舞いを頑張って「男らしく」しようとしていた時期ですら、「女っぽい」「おかま」などと言われてきました。その経験に照らすなら、もしかしたら振る舞いのなかにはどう訓練しても身につかない、その意味で先天的なものがあるのかもしれません。他方で、膨らんだ乳房は身体的ステレオタイプにおいて「女性らしい」ものですが、生まれつきは乳房が膨らまないひとでもホルモン治療や外科手術で膨らませることができます。あるいはこれらは絶対的な区別ではないのかもしれません。ともかく、体そのもの以外に関するステレオタイプと、体そのものに関するステレオタイプくらいに考えてください。

身体的ステレオタイプは、ややもすると生物学的な特徴が性別の定義を与えるという思想を背景に「本質」と誤認されたりもしますが、あくまでステレオタイプであり、それゆえそれ自体は社会において作られるものであるということにも注意してください。膨らんだ乳房は「女性らしい」でしょうが、それは女性の本質ではなく、乳房の膨らんでいない女性もいれば、乳房の膨らんだ男性もいます。同様に、月経や妊孕力も「女性らしい」とされますが、それは女性の本質ではありません。

一般に、フィクションの表現がステレオタイプ的だと難じられるとき、問題となっているのは社会的ステレオタイプの側です。その理由はおそらく、この社会の大半のひとが健常なシスの人々によって占められているためであると私は考えています。シスであり、しかも身体的な障碍や疾患を持たないひとの場合、身体的ステレオタイプの多くは、それがステレオタイプであると意識することもなく、自然と身につくものとなっているでしょう。世の中の大半の女性には月経があるから、フィクション作品で女性キャラに月経があることのステレオタイプ性に気づかないわけです。それが、さまざまな理由で無月経の人々に与えるプレッシャーや拒絶感などには思いを馳せることもないままに。

これは単に、たまたま多くのひとが身につけているからステレオタイプに気づかないというだけで、そもそもステレオタイプではなく本質なのだということではありません。たまたまほとんどの女性が生まれつき料理好きになる村があったとして、その村では料理を愛する女性キャラはステレオティピカルとは見なされず自然な表現と受け入れられるでしょうが、しかしそのことはそれがステレオティピカルでないということを示しはしませんし、また少数ながらそのステレオタイプに合致せず、生きづらさを感じているひとが存在していないということも示しはしません。

一般的に言って、トランスの人々は多くの身体的ステレオタイプを欠いています。胸を膨らませるくらいはできますが、華奢な骨格だとか、広がった骨盤だとか、月経だとか、妊孕力だとか、ほしくても手に入れる術のないものが多くあります。その意味でトランスの人々は、そもそもいくらか非ステレオタイプ的なのです。だからこそ、社会的ステレオタイプを身につけることで、自分の性別を確立しようとするという面もあるでしょう。

これは、身体的ステレオタイプをもとから多く身につけているから社会的ステレオタイプを手放すことにそれほど抵抗のないシスの人々とは大きく違う点です。性別というのはそもそも社会的なネットワークのなかに巻き込まれているもので、社会的、身体的ステレオタイプの一切を欠いてなお自分の性別を宣言するというのは難しいものなのではないかと思います。だから、シスの人々が社会的ステレオタイプをしばしば困難なく拒絶できるのは、ステレオタイプ全般を跳ね除ける強さがあるからではなく、むしろ身体的ステレオタイプを安定して身につけているからこそでしょう。シスのひとでも、例えば女性が乳房を切除したときなど、身体的ステレオタイプが失われる危機に直面したなら、それを復元しようという「保守的」な行動を少なからぬ人々がすることでしょう。それは、社会的ステレオタイプを身につけていることを非難されたときのトランスの人々にときに見られる反応と同質なのだろうと思います。

シスもトランスも、多くのひとはラディカルにステレオタイプを捨てる気はない、捨てれば幸福に傷がつくという点では変わらず、ただ身体的ステレオタイプをはじめから豊富に備えているか否かだけが違うのだろうと私は考えています。

さて、以上の区別をもとにすると、『彼らが本気で編むときは、』は、社会的ステレオタイプでもって、身体的ステレオタイプの十全な代替となりうるという希望を描こうとした、その点でラディカルな作品だと評価できる、私はそう考えています。鍵となるのはリンコがトモの母親であるヒロミと対決するクライマックスです。

トモを引き取り、自分が母になる、物語の半ばからリンコはそうした夢を抱き始めます。マキオもそれを理解し、本格的にそうした可能性を模索し出そうというときに、ヒロミがトモを迎えに来る、というのが終盤の山場となっています。

リンコはヒロミに、自分がトモの母になりたいと告げます。それに対するヒロミの反応は、多くのひとにとって想像のつくものだろうと思います。まずトランスと同性愛を混同しておざなりに二人の「自由」は認めると言いつつ、鼻で笑いながら、リンコではトモの母にはなれないということを指摘していきます。子供時代に胸が膨らんだこともないリンコがトモにブラジャーを買ってやれるのか、生理のことは知っているのか、そんな人間が母親をやれるわけがないではないか。

先の区別で言うなら、ここで持ち出されているのは身体的ステレオタイプに当たります。それを盾に、ヒロミはリンコが女性ではない、ましてや母親になれるはずがないと言うわけです。これは、トランスとして生きていればいくらでも目に、耳にする類の言葉で、私たちは頻繁に身体的なステレオタイプの欠如を理由に性別を否定されます。

厄介なことに、これに対して私たちは「でも私はこんなに女性的だ」と反論することを許されていません。そこで社会的ステレオタイプを持ち出せば、「そんなものを女性の核だと思うなんて、なんて男性的な」と言い返されるのがオチですし、「体のありようなんて本質ではない」と言ってもまともに聞いてはもらえません。マイノリティであるというのはこういうことです。私たちは対等な立場で女性とは何であるかを語れるとは見なされていないし、そして私たちは相手の言葉を聞くことを強いられるのに対し、私たちの言葉を相手は「戯言」扱いする権利があることになっている。私たちはそもそも、こうした場面において、まともに対話の相手と認められてさえいないのです。

それに加えて、ステレオティピカルな身体を持っていないというのは、しばしばトランスの人々のコンプレックスでもあるため、そこを強く攻められるとどうしても動揺してしまうという面もある。

実際、この場面でリンコは言い返すこともできず、黙って俯いてしまいます。マイノリティがいかに言葉を奪われているかを生々しく描く、胸が痛くなるような名シーンだと思います。

ですがこの映画の凄さは、この場面に、リンコとヒロミという二人の母のいずれとも暮らしたことのあるトモを置いていることにあります。トモは、二人の母親らしさを、それゆえ間接的には女性らしさを語れる立場にあるのです。

そして沈黙するリンコに代わってトモはヒロミに殴りかかり、リンコがいかに母親であったかを語ります。そこで挙げられるのは、美味しい食事や編み物など、社会的ステレオタイプに当たる諸属性です。

ここで何が賭けられているのでしょうか? 素朴に見るなら、これを単にステレオティピカルな母親像の肯定としか思わないかもしれません。けれど文脈を見る必要があります。トモの反論は、身体的ステレオタイプを盾にリンコの母親性を否定するヒロミの言葉を受けてのものなのです。つまり、この場面で、身体的ステレオタイプを備えている点で自分こそが母親にふさわしいと主張するヒロミに対して、リンコが十分な社会的ステレオタイプを備えていることが真っ当な反論になる、少なくともトモがそう捉えているということが描かれているのです。

ここに賭けられているのは、社会的ステレオタイプの獲得によって、身体的ステレオタイプの欠如を乗り越えて、真に母親になるという可能性なのです。果たしてそんなことを描く映画がほかにあるでしょうか? いえ、あるかもしれませんが、少なくとも珍しいには違いないでしょう。この映画がラディカルだというのはこの点です。この映画において、身体的な女性らしさは母親であるための必要条件を成しておらず、しかも社会的な女性らしさがその十分条件たりうると宣告されているのです。

トランスの女である私にとって、これほど希望のあるメッセージはありません。身体的なステレオタイプを欠いていることによって、私たちはいろんな悲しみを経験します。けれど、トモはきっと、それでも私たちは母にだってなりうるし、女であったっていいと言うでしょう。

社会的ステレオタイプと身体的ステレオタイプの対決、これはつまり、前者に頼らざるを得ないトランスと後者を生まれつき多く備えがちなシスの対比となるわけですが、これを念頭において見るときに、この映画の素晴らしさもラディカルさも、はじめて光が当てられるのではないかと私は思っています。

こうした対比は、たまたまではなく意図的に描かれたものだろうと私は考えています。というのも、この作品にはリンコの同僚の女性も出てくるのですが、このキャラクターはいっそコミカルなくらいに女性らしくなさを強調した話し方をするんですね。このキャラクターとリンコが一緒に現れるとき、どうしたって「リンコにこんなふうに振る舞う余地はあったのだろうか」と考えざるを得ず、そしてそれは「なぜこの同僚の子にはこのような振る舞いが容易なのだろう」という疑問を導きます。ここにはすでに、終盤の対決が予告されているのでしょう。

映画の結末は、ここでは語らないことにします。ただひとつだけ言っておくとすると、この映画で象徴的に出てくる毛糸の乳房は、毛糸という非身体的なものによって形づくられた女性性の印なのであり、リンコの女性性と母性の肯定なのでしょう。そのつもりでこの映画を見たなら、ラストシーンに優しいメッセージが見出せることだろうと思います。

* コミカルで繊細な名作

小難しいことも書きましたが、この映画自体はコミカルでとても見やすい、楽しいものとなっています。何せトモが可愛いんですよね。ぼそっと呟く一言が妙におかしかったりもしますし。

そんな作品なので、とりあえずはごちゃごちゃしたことを抜きに、いちどただエンターテイメントとして見てもらいたいです。そのうえでもし「トランスのひとならこの映画に何を見るのだろう」と思われたなら、この記事はその一例になるはずです。