ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

千田氏の応答に対して

「女」の境界線を引き直す意味-『現代思想』論文の誤読の要約が流通している件について|千田有紀|note

「虚偽」という言い方は「誤読」と変更してくださったみたいです。ありがとうございます。

迷ったのですが、「虚偽の要約」とまで言われて黙っているとまるで私が嘘をついているかのようなので、コメントいたします。

「『女』の境界線を引き直す」というタイトルに決めたのは私だ。かつて、「女とは子どもを産む存在」「女は生まれながらにしてに女であって、解剖学的な運命だ」といった生物学的な本質主義にまみれていた「女」というカテゴリーを、さまざまな存在--トランス女性も含む、現実に存在する多様な女たちを意味するカテゴリーとしてずらしていくことを主張するとてもいいタイトルだと思われたのだ。

以下は掲載論考からの引用です。

そもそも「女性」というカテゴリーが構築的に作られるのであるとしたら、なぜ旧態依然とした狭い二分法に依拠したカテゴリーである「女性」に、「トランス女性」を包摂するかどうかが問われなければならないのか。なぜ多様性を否定する二元論を持ち出し、その片方に「トランス女性」という存在を押し込めるかどうかが、「排除」の問題として執拗に問われるのか。(253頁)

ここから「女性」というカテゴリーにトランス女性を包摂しようという内容を読み取らず、それと逆の主張を読み取ると「虚偽の要約だ」と言われると途方に暮れます。

ゆなさんによる要約は、ほとんどすべて、私が主張していないものである。

第1節の内容を要約するなら、要するに従来の社会ではシス女性がペニスを恐れる十分な理由があり、またその常識に即して性別分離のスペースが作られており、である以上は、ペニスを持つトランス女性をシス女性が恐れるのは常識に従っているだけで差別ではないのだということでしょう。

この応答記事のすぐ直後にはこうあります。

性被害者などがペニスを恐れる理由を理解し、一方的に差別だと決めつけないで欲しいと言っている箇所、いわば議論の枝葉末節のところが、なぜ本筋に来ているのかはよくわからない。

枝葉末節かはともかく、応答記事のなかですでに私にはシス女性にはペニスを恐れる理由があり、差別だと決め付けるべきではないという主張がなされているように見えるのですが、違うのですか?

枝葉末節であるかどうかは実際に読まれた方に判断を委ねますが、ペニスの話がそもそもトランス差別をめぐる言説の中心で常に語られる事柄であること、それをこの話題に取り組む人は誰もが知っていて、知っているべきであることは言っておきます。

またゆなさんのまとめの、「またその常識に即して性別分離のスペースが作られており、である以上は」の該当箇所はない。

これは確かに私の側での要約で明示的な記載はありません。ローリングとフォーステーターの話のあとに以下の文面があります。

私はこのマヤ・フォーステーターの意見、「生物学的性別は2つしかない」、「性別は生まれつきでなく性の自認で決まるという考えの"セルフID"を中心に性別変更を可能にすると、女性の権利が守られなくなる」の双方を支持しない。ただ記事からは、従来プライベートな場所と考えられた場所の性別分離のありかたが、問題の俎上にあげられてきることが見てとれるだろう。(248頁)

その後、トイレや更衣室、お風呂のようなプライベートな場所に焦点を当てることへのおかしさを(正しく)指摘する三橋さんの言葉が引用されます。続く段落ではこうあります。

「今日明日にでもペニスをぶら下げた人が女湯に入ってくるかのようなイメージを喚起するのはあきらかにトランスジェンダー の排除を意図したでっち上げ、デマです」という箇所は、三橋さんに賛同する(「トランスジェンダー の排除を意図した」の部分は判断を保留する)。しかし将来的に手術要件が廃止されたら、議論をしなければならない懸案事項であることが、逆に確認されてしまっている気もしないでもない。すでに「トランス女性が女子トイレを使うのは「権利」であり、手術要件がなくなったら、「女湯に入ることを認めなければならない」といったツイートも確かに見受けられる。こうした風呂をめぐる議論は、今現在と言うよりは、将来を見据えているからこそ不安が掻き立てられている側面があるのではないか。(249頁)

「手術」とはここでは性別適合手術を指します。その詳しい内容は当事者以外にはあまり知られていませんが、ともあれトランス女性がそれを受ければペニスがなくなるということは周知の事実で、ここでは手術要件が廃止されればトランス女性が手術なしに女性として認められ、女子トイレや女湯に入る権利を得るということが、将来を見据えているからこその不安の源であるとされています。女子トイレや女湯は性別分離のなされているプライベートな場所の例でしょう。これらを考えあわせて、ここでペニスの有無とプライベートな場所の話が繋げられていると判断しました。

そのあとの展開はこうです。

「将来的に女湯で、ペニスのついたトランス女性とともに入浴することを「誰とでも」「どんな場合でも」認めると明言しろ」といわれて、即答できるひとはいないだろう。トランス女性の「権利」を擁護するひとは、ターフが「「ペニスが嫌いだ」といいながら、ずっとペニスについて語っていること」を「すごく異常な光景」「日本における特殊な「闇」」と断じる。「嫌い」というよりは、「怖い」という文言が多かったと思うが、Twitter上では性暴力の後遺症のPTPDで男性器が怖いなら、「病院へ行け」というような乱暴な言葉も飛び交っていた。

しかしこれは、彼女わ達の意味世界によりそったときに、じゅうぶん理解可能である。なぜならつい数年前に刑法改正が行われるまで「強姦罪」は、女性器に男性器を挿入することによって成立し、それ以外は「強姦」という「犯罪」として認められなかったからだ。明治以降、女性には「貞操」を守る義務が課され、ときにそれは女性の命より重かった。貞操は結婚と引き換えねばならぬものであり、貞操を失った女性は責められ、ときに社会のなかで居場所を失った。こうした「貞操」ーー「処女性」をはかるメルクマールが、男性器による女性器への挿入と考えられている社会で、女性が男性器を恐れるのは故なきことではない。また男性の身体の定義をあげろといわれたら、多くのひとが「ペニスがあること」を挙げる社会で、「男性器はついているけれども女性だというジェンダーアイデンティティがあるから女性」という存在に混乱を覚えるのは、必ずしも「差別意識」からではない。女性たちがトランス女性と風呂やトイレを共有するときに、不安の源として「性器」に目が行くのは、これまた理由のないことではないのだ、後述するが、ジェンダーの議論で有名なジョン・マネーの「一卵性双生児」の事例では、事故でペニスをなくした男児が、それ以降女児として育てられている。それは当時の社会、そして現在の社会でもいまなお、「男性」の定義として、男性器が大きな役割を果たしてきたからである。ペニスに関する一連の意味は、「ターフ」が作り出したものではない。彼女たちはその「常識」をなぞっているのだ。(249頁)

ペニスを男性の定義とする慣習に従って性別分離空間が作られているという主張(と、シス女性がペニスに恐怖を感じることにはもっともな理由があるという主張)をここから見出すのは、誤読でしょうか? 判断は読んだ方に委ねます。

そもそもその話を結合するつもりがないなら、同じ節で続く段落で、明示的な話題転換もなくしないでください。だいたいそれならこの節は何の話をしているんですか?

私の論文において、ジェンダーアイデンティティや身体の構築性の「発想がトランスに帰属させられた」ことはない。考えてこともなかった。これがネットでは流通しており、非常に困惑している。

私が論じているのは、アイデンティティや身体までもが「生物学的な所与」であることを離れ、その構築性があきらかなった「時代」であるということである。まさに1章で述べたC-16がその証拠である。新自由主義的な潮流を背景に、トランスのみならず、すべての人のジェンダーアイデンティティジェンダー表現が尊重されることが法律で定められるようにすらなってきているのだ。これは事実的な指摘である。

以下を読んでいただきたいです。

本来的にはグラデーションでしかない私たちの身体が、いかに言語によって「典型的な男性」や「典型的な女性」としてくさびを入れられ、カテゴリー化され、この社会に生存させられるようになるのか。「身体」までも社会的に構築されているのだという考え方は、人文・社会学系のジェンダー論研究者で否定する者は、もはやいないだろう。

そしていまや、それらの動向を踏まえてあきらかに第三期に入っている。こうした第二器のジェンダーアイデンティティや身体の構築性を極限まで押し進めた際に、身体もアイデンティティも、すべては「フィクション」であるとされるのであったら、その再構築は自由におこなわれるべきではないかという主張である。

これはトランスに限らない。美容整形やコスメ、ダイエット、タトゥーなどの身体変容にかんする言説を検討すれば、身体は自由につくりあげてよい、という身体加工の感覚は私たちの世界に充満している。[……]

身体は作られる。アイデンティティは構成される。こうした構築性が意識されるのは、あきらかに第一期の「解剖学が運命である」という意識を解体しようとする第二期の営みの成果ではある。いまや、身体もアイデンティティも、自由に選んでよいものとなった。「ジェンダーアイデンティティ」は生まれながらにして所与であり、変更不可能であるからこそ、手術によって身体を一致させたいというGIDをめぐる物語が典型的に第二期的なものであるとしたら、たまたま、「割り当てられた」身体やアイデンティティを変更して何の不都合があるだろうかという論理は第三期的ななにかである(どちらが優れているといっているのではない。これらは理念型であり、現実には両者の論理はもちろん混在し得る)。(251頁)

ここからジェンダーアイデンティティを自由に構築する存在としてトランスが描かれている(GIDと対比されつつ)と読み取るのは誤読でしょうか? もし誤読なら、はっきりと「とはいえトランスのジェンダーアイデンティティは自由に構築されるものではなく、実際には当人たちにも選択の余地のないものなのだ」と書いてください(応答からすると、そう思っているのでしょう?)。

「「女性」とは別に「トランス女性」という線を引けばいいではないかと論じているわけです」と言うに至っては、非常な悲しみを禁じ得ない。そのようなことをしてはならないというのがこの論文の趣旨である。

トイレがどのように暴力と不安に満ちた場所として描かれ、ときにその不安はいかに差別に向かって動員もされる言説だったかということを指摘したうえで、様々なトイレの可能性を論じ(論文をぜひ読んで欲しい)、トイレの線引きの基準は性別ですらないかもしれないとまで思考しながら、「トランス女性が安全にトイレを使う権利」について考えようと述べている。

すべてのひとに安心・安全がもたらされるのかを問い、多様性のためには、相応の社会的なコストを支払い、変革していくことを合意することではないのだろうか。

このまとめの部分がなぜ、「女性」とは別に「トランス女性」という線を引けばいいではないかと論じているわけです、となるのか。そうしないための変革を提言しているのであるのにである。

以下を見てください。

そもそも「女性」というカテゴリーが構築的に作られるのであるとしたら、なぜ旧態依然とした狭い二分法に依拠したカテゴリーである「女性」に、「トランス女性」を包摂するかどうかが問われなければならないのか。なぜ多様性を否定する二元論を持ち出し、その片方に「トランス女性」という存在を押し込めるかどうかが、「排除」の問題として執拗に問われるのか。問題は「二元論の片方にトランス女性を「女性」として認め入れる」かどうかではなく、トイレの使用の際に、どのようなカテゴリーの線を引きなおすことで、皆が安全だと「感じられる」かどうか、という問題ではないのか。その基準は性別であるかもしれないし、ないかもしれない。そもそも「女性が安全にトイレを使う権利」とともに語られるべき事柄は、「トランス女性が安全にトイレを使う権利」でかるべきだ。なぜそこが従来の「女性」トイレだとアプリオリに決められているのか。私たちに必要なのは、どのような分割線を引くことで、すべてのひとに安心・安全がもたらされるのかを問い、多様性のためには、相応の社会的コストを支払い、変革していくことに合意することではないのだろうか。(253頁)

ここから「女性」とは別に「トランス女性」の安全を考え、それゆえ従来の女性トイレとは別の安全な場所を作れるようにすべきだという主張を読み取らない読解法が私にはまったくわかりません。おかしな言い方ですが、千田さんはこの論考の著者の文章をまるで理解されていないのではないでしょうか?

論文では相応のトランスに対する差別の歴史を認め、ただ仮に差別意識があったとしても、「差別意識」に問題を帰するのであれば、啓蒙と意識改革と帰結させられることを指摘している。シス女性たちの恐怖とは何であろうか。実体化して語られた恐怖はなかったはずである。私が取り上げたのは、畑野とまとさんによるトランスジェンダーについてもたれているだろう差別意識の例示である。ゆなさんは、「シス女性たちの恐怖が差別意識から出たものではないということが主張され」と書かれているが、まずシス女性たちの恐怖が何かは畑野さんの言説におけるレベルのものであり、シス女性の差別意識から出たものではない、などということは主張していない。

ところがこの論考の著者はこう言います。

私が知る限りのトランス排除的だといわれるひとたちに会った限りでは、トランスに対する差別意識をもっているひとは皆無に近かった。[……]

彼女たちが差別意識を持っているということはこのように事実誤認だと思うが、もしも仮に差別意識があったとしても、差別の問題を考える際に、その原因としてことさら「意識」を持ち出し、批判のターゲットとすることは大きな問題を呼び込む。(254頁)

ここからトランス排除的だとされるひとが差別意識からその言動をしているのではないという主張は読み取れませんか?

また「実態化して語られた恐怖はなかったはずである」というのと、シス女性のペニスへの恐怖の話はどう整合性を保っているのでしょうか。

また「トランスはたんに、破壊行為の口実として使われている可能性すらあるほどに、ターフはある種のスティグマとして機能してしまっている」ことを指摘したのであって、トランス活動家による暴力的な活動とは断じていない。

論考著者の以下の議論を見てください。

彼女たちが差別意識を持っているということはこのように事実誤認だと思うが、もしも仮に差別意識があったとしても、差別の問題を考える際に、その原因としてことさら「意識」を持ち出し、批判のターゲットとすることは大きな問題を呼び込む。この論理は、差別の解消のためにすべきことは、「差別者」への啓蒙と意識改革と帰結させられる。「ターフ」が気持ちを入れ替えて、差別をやめさえしたら、問題が解決するかのように見えることだ。だからこそ、「ターフ」を探しだして、なんとか啓蒙しようとするのだが、当然、思うような反応がかえってこなければ、苛立ちは増幅する。

先に例を出したバンクーバーの女性センターが破壊された事件では「ターフを殺せ」「ファックターフ」「トランスパワー」という落書きが施設に対して行われた。その数週間前には、ネズミの死骸がドアに釘づけられていたという。これが誰によってなされたかはわからない。トランスはたんに、破壊行為の口実として使われている可能性すらある。しかし、ターフはある種のスティグマとして機能しており、ターフに対しては何をしてもいいのだという意識が醸成されていることもまた事実である。(254頁)

確かに、千田さんの指摘通り「トランスはたんに、破壊行為の口実として使われている可能性すらある」とは言われていて、この点は私の書き方に誤りがあったと認めます。ただ、直前の段落からの繋がりを見て欲しいです。直前の段落で差別社を啓蒙しようとしているのは、事実に照らしても明らかにトランス当事者やそのサポーター、とりわけ活動家として活動しているそうした人々のはずです。その人々が、「思うような反応がかえってこなければ、苛立ちは増幅する」と述べられたうえでの暴力的な事件の記述なのです。

前の段落で苛立っていると語られる主体がトランス活動家たちであると推定される以上は、「苛立ち」と「攻撃」とのあいだの常識的な結びつきに従って、その後の攻撃的な活動の容疑者は第一にトランス活動家と見なされている、たとえその気がなかったとしても多くの読者はそう誘導されるのではないでしょうか? そうなると「口実として使われている可能性」の指摘は単なる「真相はわかりませんけどね」というエクスキューズでしかないのではないでしょうか?

例えばですが、「最近このあたりでは外国人が増えていて、彼らは酔うと大騒ぎしている。ところでこのあいだ排外主義的なレストランの窓が破られる事件があった。排外主義というのがスディグマとして機能しているせいで外国人の存在が口実とされているだけという可能性もあるが」などと言われたときにどういう思考が誘導されるのかということです。

トランスのみならず、私たちの社会がジェンダー表現やジェンダーアイデンティティの構築性を尊重する社会へと変化してきたという事実命題であって、「トランス」がことさら自由にジェンダーアイデンティティや身体を構築していると述べたことはない。

ここでタトゥーやダイエットのことを挙げているのだと思いますが、それは身体構築の話で、そもそもアイデンティティの構築に関してはトランス以外の言及が何もないのです。それに加えて私が言っているのは、トランスが「ことさら」、つまりシス女性と違ってトランスだけはアイデンティティを構築していると千田さんが主張しているということではありません。私が言っているのは、多くのトランスはアイデンティティを構築なんてしておらず、そこに自由はないにもかかわらず、構築していると語られているということです。

これも誤読だというのなら、はっきりと「第三紀ジェンダー論においてアイデンティティさえ自由に構築されるものとなったが、とはいえトランスのアイデンティティは多くの場合には自由に構築されたものではなく、多くの当事者はそれを否応なしに押しつけられたものとして経験している。」と書いてください。これなら少なくとも後半は納得できます。

この原稿用紙20枚ほどの論文に、先行研究や多くの論文を参照していないという指摘をされるのだが、ぜひ、私の論理展開に必要であるのに欠けている研究があるか、ご教授願いたい。

既に専門の方からの指摘もあると思いますが、当事者の一人として、まず当事者の証言をしっかり引用してください。特にアイデンティティに関して。

紙数の少なさを繰り返し語っていますが、極めてどうでもいい注釈11のアメリカ人のお風呂エピソードなどを削ればいいではないですか。

以上が私からの再応答となります。


ところで、

タイトルは編集者と相談し、「『ターフ』をめぐる対立を超えて」というサブタイトルは提案していただいたものをいただくことにした。

というのはショックでした。というのも、私は自分の記事のために『現代思想』の全体が貶されているのを見て心を痛めていたからです。あくまで全体としては優れた試みなのに千田さんの論考が不注意から紛れ込んでしまったのだろうと認識していました。しかし、このサブタイトルは編集者が提案したものだったのですね。はっきり言って失望しました。

最後に、

みなさんには、何かをSNSで拡散する際には、もう一度立ち止まって考えることをお願いしたい。

には同意します。Twitter上で語る言葉にも雑誌で語る言葉にも、「単なる言葉」では済まされない影響力、伝播力があります。私はこの千田さんの誠実な言葉を、ぜひこの「ターフ」論考の著者にも聞いていただきたく思います。

また私の要約が誤りに満ちていると主張される千田さんは、そのTwitterアカウントでぜひ私が訴えている通りに「トランス女性のペニスへの恐怖は(理由はあるにしても)不当な差別構造を保存するものであり、語るべきではない」「トランス女性のアイデンティティは自由に選択したものなどではなく否応なくあるものだ」「トランス女性は女性の一部なのであるから、女性の安全とは別にトランス女性の安全を考えようという主張はいかに一見すると当たり障りなく見えても、トランス排除的で不当である」とはっきり、いますぐ書いてください。これが私の訴えであるとともに、まさに私が論考から読み取った内容の真逆なのですから。


追記
下記のブログを拝見しました。
無題 - Dog ears

確かに「構築」の意味を私は誤解していたのかもしれないと思い直しました。とはいえ、問題は変わらなく思います。

 これ、多分「構築性」という部分の解釈で食い違ってるよね。千田氏の方は「"社会的に許される範囲"が言葉や体に縛られる事なく自由になり、これまでの"生まれながらに割り当てられていたあるべき形(フィクション)"に束縛される必要がなくなった」という「社会的な束縛からの自由」を主旨としているのに対し、ゆな氏の方は「個人の絶対的な自由」として読解している。

 おそらく「再構築」という表現をそのまま本人が主体的に取る行動だと認識したのだと思われるが、その前の段落で「身体までも社会的に構築される」と述べている様に、この場合は社会規範がジェンダーアイデンティティに及ぼす作用を「構築」と呼んでおり、「再構築は自由に行われるべき」というのは「今後の構築は社会規範に縛られるべきではない」という事を指していると考えるのが妥当だろう。GIDのくだりも、あくまで現在ではなく"ジェンダーアイデンティティの定義が自由ではなかった頃"におけるGIDの話を挙げて「第二期的だ」と示しているだけで、別に現在のトランスとの対比ではなく、美容のくだりを発端にして「身体を自由に作り上げてよい」という社会意識が確かに形成されている事を説いてるだけに過ぎない。

ここでも「「身体を自由に作り上げてよい」という社会意識」、「"ジェンダーアイデンティティの定義が自由ではなかった頃"におけるGIDの話」とされていますし、千田さんの主張が身体やアイデンティティについて「これまでの"生まれながらに割り当てられていたあるべき形(フィクション)"に束縛される必要がなくなった」というものであるとまとめられていらっしゃいますが、私が言っているのは「トランス女性のジェンダーアイデンティティはいまでもたいてい自由ではないし、多くの場合にあるべき形に束縛されているし、私たちの多くは身体を自由に作り上げられる(かどうかはともかくとして、仮にそうだとしても)ようにジェンダーアイデンティティを作り上げてなどいないということです。その意味で私たちは、私の知る限りではフィクションから自由などではまったくありません。シス女性が自由でないのであろうのと同じように。私たちは否応なしに女なんです。

直後に千田さんご自身がシス女性の女性性をこのように選択したものと見做した場合の不都合を指摘しているわけですが、私の経験する限り、私のジェンダーアイデンティティも一度として自分で選択したものではない以上、同じ話がトランス女性の女性性にも言えるように思うからです。

そして相変わらず気になるのは、身体を自由に作り上げてよいという社会意識の話はされているかもしれないですが、アイデンティティに関するその話はされていないため、結局のところ何の話をしているのかまるでわからない、話題になっているトランス女性であるはずの私にも皆目見当がつかないことなのです。

私の認識では、シス女性とトランス女性はジェンダーアイデンティティを単に共有していて、片方に言えることは他方にも言えます(ジェンダーアイデンティティというのはそうした概念ですから)。違いは過去の経験(性別移行の時期によって程度は変わりますが)や身体の形状、機能くらいのものであるはずです。そして現在のトランス差別に関して言われているのは、それらの違いをもとにトランス女性をシス女性から分離するのは不当であるということのはずです。

両者のジェンダーアイデンティティに、その構築性にも、何の違いもないという前提のもとで千田さんの議論を見返していただきたく思います。