ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

小説紹介 遍柳一『平浦ファミリズム』(ガガガ文庫)

今まで見たことのない「リアルじゃない」トランス女性

久しぶりに、小説の紹介をさせてください。

ご紹介したいのは、これ。

平浦ファミリズム (ガガガ文庫)

平浦ファミリズム (ガガガ文庫)

遍柳一さんの『平浦ファミリズム』です。

ガガガ文庫というライトノベルレーベルから出ている小説で、2016年の小学館ライトノベル大賞というので、ガガガ大賞という賞を受賞したそうです。あまり詳しく知らないのですが、どうもこのガガガ大賞というのは「受賞作なし」となる年が多いそうで、現在のところいちばん最近の受賞作とのこと。

この小説では、主人公のお姉ちゃんとしてトランス女性のキャラクターが出てくるのですが、これがすごくすごく新しかった! なぜいままで耳にしたことがなかったのか不思議です。

あらすじ

『平浦ファミリズム』は、その名の通り平浦家という家族の物語です。「ファミリズム」という言葉は、造語かと思っていたのですが、いま調べてみたら実際にある言葉だそうです。いずれにせよ、その意味するところは「家族中心主義」とでもいった思想ですね。

平浦家は、一家の支柱であった母を失い、それでも不器用ながらそれぞれが自分のできることをし、互いを支えながら、いわば不安定な安定性のもとで暮らしています。主人公一慶は、高校生でありながら母から教わったプログラミング技術を駆使して稼ぎを得ていて、高校には面白さを感じておらず、さぼりがち。それ以外に父、姉、妹がいるのですが、父は社会でやっていくのが苦手で、アルバイトでどうにか収入を得ている状態。妹は、家族以外の人間と話すと体調不良に陥るという状況で、学校には行かずに自宅で閉じこもって暮らしています。このふたりは、社会ではうまくやっていけないけれど家族にもそれ以外の周りのひとにもものすごく優しく、思いやりのある魅力的な人物として描かれています。

で、やはりトランス当事者として気になるのは、お姉ちゃんなのですが、このひとは高校を中退してキャバクラで働いているという設定になっています。

この小説では、そんな家族が、家族だけが大事だと考える主人公が、それでもお節介を焼く学校の人々と交流し、また家族同士で支え合いながら、さまざまな事件を通じて、少しずつ社会との関係を変化させていく姿が描かれています。詳しい内容はぜひ実際に読んでみてほしいのですが、家族を守ろうとする主人公の姿と、だからこそその姿に胸を痛める家族たちという構図が切なく、面白い作品です。

けんかっ早いトランス女性のお姉ちゃん

この作品のお姉ちゃんの描き方で驚いたのは、それが「リアル」でないことでした。お姉ちゃんは極めて美人で腕っぷしが強い人物として描かれていて、要するに、「漫画っぽい」んですよね。そして、それが私には革命的な素晴らしさに思えました。

トランス女性を描くというとき、むかしの漫画などでは、「オネエ」、「オカマ」的に偏見に満ちた描き方をされることが多かったように思います。というか、いまでもいくらでもありますよね、そういうの。そうした作品は、そもそもトランス女性を描いているとは感じられず、私は基本的に共感や投影をせずに読むことになります。ネガティブな偏見に限らず、少女漫画などでたまにある、冷静で俯瞰的な視点から主人公にアドバイスをしてくれる、妖精か仙人のようなトランス女性キャラも同様で、ああいうのは悪い意味でのファンタジーであり、そもそもトランス女性キャラになり切っていないように、私は感じます。

これに対し、最近ではトランスの人物をリアルに描こうという傾向が強まってきているように思います。以前に紹介した渡辺ペコさんの『ボーダー』は、不満はあるもののそうしたもののひとつかと思います。映画の例を挙げると、『Girl』や『タンジェリン』、国内では『彼らが本気で編むときは、』など、実際のトランス女性が感じているようなことを反映させたキャラクターづくりが少しずつ増えているように感じます。こうした作品には、共感も投影も大いにする。のですが、ただこうした作品の場合、「リアル」すぎて、そこで描かれている人物は「投影しつつあこがれる」だとか、「投影しつつ活躍に胸を躍らせる」といった手合いの楽しみ方がしやすいものではありませんでした。

でも、どうでしょう? 例えばシス女性を描く作品であれば、そういうのがいくらでもあると思いませんか? 投影できる程度にリアルでありながら、実際の読者自身にはできないような活躍をしたりする人物、そんなものは映画を見ても小説を読んでも漫画を読んでも、いくらでもいるのではないでしょうか? 私が見たり読んだりする範囲では、そういうトランス女性キャラは極端に少なく感じます。(ひょっとしたら、トランス男性はなおさらかもしれません)

投影できる程度のリアリティと、あこがれられる程度のアンリアリティを併せ持つ描写、これがトランス女性にはほとんど見つからないように、私は思っていました。

『平浦ファミリズム』が達成したのは、まさにこれでした。

まずこのお姉ちゃんは、「オカマ」や「オネエ」的には描かれていません。主人公から見てしっかりとした年上の女性として描かれている。けれど、あちこちの言動や思い出に、当事者のひとりである私にも共感できるような点がしっかりと詰め込まれています。性別移行をしたいのに言い出せない時期に言っていたこと、カムアウト後の父親の振る舞いへの反応、そうしたあたりで「私もきっとこのように感じ、このように言っただろう」としっかりと思える。こうした点で、『平浦ファミリズム』は、リアルなトランス女性の描写を成し遂げていました。

その一方で、美人で腕っぷしが強く頼りになるお姉さん、このきわめてフィクション的な人物像は、少なくとも私にはまるで当てはまりません。けれどこのアンリアリティは、先述のリアリティを梃にして私がこの人物に自己投影できるがゆえに、「こんなふうになれたら楽しそう」といった憧れにもなりますし、またそうした人物が私でも直面し得る/し得た困難を解決していく姿に熱さをも感じさせてくれるものとなっていました。

「気持ちよくあこがれられるフィクションの人物を知りたい!」と、もし思っているトランス女性がいたら、『平浦ファミリズム』はそのひとつの候補になるかもしれません。

これからのトランス女性描写は

繰り返しますが、そんなフィクションの人物は、いろいろな面でマジョリティである人々であれば子供のころから容易に見つかるのだろうと思うのですが、私には驚くほど新鮮なものでした。

でも、もしかしたらこういう作品は少しずつ増えていくのかもしれないですね。去年のニュースで、マーベルがトランス女性を主人公とした映画を撮る予定を公表したというのがありました。また、Altersというアメリカのコミックでは、ひとりの若いトランス女性が超能力に目覚め、自分のアイデンティティと超能力というふたつの秘密を抱えながら活躍するという物語が展開されています。まだ読めていないので描写の良しあしはわかりませんが、The House on Half Moon Streetという小説は、ヴィクトリア朝時代のトランス男性が主人公のミステリだそうです。

私たちはこれまで、フィクションの世界のなかにほとんどいなくて、ロマンティックな大恋愛をすることも、魔法の世界を冒険することも、難事件に巻き込まれることも、近未来の世界を生きることもありませんでした。でも、これからは少しずつ、そうした物語が生まれるのかもしれない、生まれてほしい、と思います。現実とは異なるたくさんの世界にも私たちに似た人物がいて、現実にはないような活躍をしている、そんな当たり前なフィクション経験が、いつか私たちにも当たり前になりますように。