ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

ボタン

洗濯物をたたみながら、ふとボタンのつけ外しに戸惑わなくなったことに気づく。服を着るときにも、脱いだそれを洗濯機に入れる前にも。

私は、女性のそれに見えない自分の体が、ずっと嫌いだった。そしてその体で女性服を着て「女装者」のような見かけになることを耐えがたく思っていた。ひとから気持ち悪く思われるのも怖かった。けれどそれ以上に、自分自身が嫌っていたのだ。自分自身が気持ち悪い存在になることを、自分で自分をそのように嫌悪することを恐れて、あらかじめその手前にとどまっていた。

性同一性障害の診断を受け、ホルモン治療を始めてもなお、男性服を着続けていた。なるだけフェミニンに見えるものを選び、ピアスやネックレスをつけ、「このくらいならメイクのうちに入らない」という言い訳でCCクリームで肌を整え眉毛を描いていた私は、実際には周りから性別不詳な存在として見られ、それが原因で不愉快な目に遭うことがあったにもかかわらず。

私はあくまで「たまたまフェミニンな姿をしている男性」というふうを装い続けた。それが自分を傷つけるとしても、それでも自分で自分の姿を嫌悪するよりはましだと思ったのだ。

女性服を初めて着たのは、七年ほど前だったか。そのあたりの、年末のことだ。もはや男性服で男性用トイレに行こうとしても清掃員に止められるような状況になり、そろそろ女性服を着ても大丈夫かもしれない、と思ったのだった。けれど服を店舗に買いに行く勇気はなかった。「私なんかが試着をしようとしたら店員に何と言われるだろう」という恐怖のために。自分で自分の体のサイズを測り、通販で服を注文した。何を買ったのだったか。たぶんワイドパンツとスカートを二着ほど、あとはゆったりとしたセーターだったか。

漫画などでは、初めてスカートを履いてほっとする、解放されるといった描写を見る気がするが、私が初めてそれを着たときの感情は、あえて言うなら恐怖だった。

「私は気持ち悪くないか?」

「私はこの世に存在していてよい外見か?」

「私は私を許せるだろうか?」

「それとも、私は私を見て『こんな見にくい人間は死んだほうがましだ』と思うだろうか?」

試着もせずに選んだ、しかもそうした恐怖心ゆえにどうしても地味なものばかりになってしまった服は、どうにもちぐはぐで、鏡に映る不安げな曇った顔のせいもあり、私の姿はどこか幽霊めいていた。

若いころから女性服を着る習慣があったのなら違ったのかもしれないが、二十代も終わり際になって初めて女性服を着た私の場合、体のすみずみにまで男性服を着るときの仕草が習慣として身についている。習慣は体の枠組みとなり、それがうまく機能しなくなったときのちぐはぐさのなかで、私たちは習慣を発見するというような話をしていた哲学者は誰だったか。あるいは作家か、それとも私の記憶が捏造した思想か。

ボタンを留めようとするとき、必ずといっていいほどに指先がもつれた。女性服のブラウスでは、服を着るときには左側についているボタンを右側の穴に通すことになる。その簡単な仕草を、私はスムーズにできなかった。指先が自然と、右側についたボタンを左側の穴に通すような動きをしようとし、本当に私がしたい動きに抗い、それを乗り越えようとする。

それは一個の慣性運動だった。

何度も苛立った。ボタンを留めるなどという簡単なことがスムーズにできなくなった自分に、男女で服のボタンの配置を変えるというばかげた文化に、そして何より指先に染みついた男性として暮らした日々の痕跡に。

性別移行は、あるとき男性として暮らしていたのが、翌朝女性として暮らし始めるというようなものではない。それは長いプロセスであって、もしかしたら厳密に言うと終わりのないプロセスなのかもしれない。体に染みついた男性としての生活の痕跡のうえに、意識的な動作を少しずつ書き加え、毎日それを続けるうちに、女性としての生活の歴史が習慣として体に蓄積される。それとともに、自分自身の体への見方が、自らのアイデンティティが少しずつ安定していく。私にとってはずっと続くそうした流れが、性別移行だ。

そうした日々の積み重ねとして、きょうふと気づく。私はもう、ボタンのつけ外しでもたつかない。指は意識することもなく自然に動く。おそらく逆にいま私が男性用のシャツを着たなら、指先はもたつくのだろう。私の体に刻み込まれた習慣が、少しずつ上書きされている。

いつからか、自分の体や外見を嫌わなくなったこととも、これは無関係ではないのだろう。ホルモン治療によって多少外見が変わったところもあるにせよ、整形手術のたぐいを性別適合手術を除いて何もしていない私の場合は、顔つきや体つきそのものが著しく変化したわけではないはずだ。それでも、私はもう自分が気持ち悪いとは思わない。生きていてはいけない存在だとも思わない。女の体や外見でないとも、もうまったく思わない。

変わったのはきっと、私の物の見方なのだ。私はたぶんこの年月のあいだに少しずつこわばりをほぐしていった。いろいろな体の、いろいろな外見の、いろいろな声の女がいていい。私は単にこういう体の、外見の女なのであって、別にほかのひとたちの体つきや外見に合わせなくたって、これですでに十分に女で、きっと美しいのだ。そしてほかのトランスジェンダーの女性たちも。たまたま変わった体を持っていたとしても、そのことは女であること、美しい存在であることを、損ないはしない。いまの私はそう感じることができる。

ボタンを留めながら、そのような境地にたどり着いた自分を、少し誇らしく思う。とともに、これからたどっていく道がどのようなものなのか、まだ見えてこないその先を、少し想像する。