ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

小説紹介 藤野千夜『夏の約束』(講談社文庫)

「軽さ」の重さを味わう

1999年下半期の芥川賞を受賞した藤野千夜さんの代表作。確か中学生くらいの頃に読んだことがあったはずですが、当時はあまりピンと来ておらず、すっかり忘れてしまっておりました。けれど少し前に同じ藤野さんの『少年と少女のポルカ』を読んだこともあって、久々に開いてみました。

夏の約束 (講談社文庫)

夏の約束 (講談社文庫)

藤野千夜さんというと、公言されているトランス女性の作家ということでも有名で、90年代にデビューしたというのを考えると、かなり貴重な作家さんなのではないかと思います。『少年と少女のポルカ』でも、本作『夏の約束』でも、軽妙というか、いっそ呑気な語り口で、同性愛者やトランスの姿が描かれています。そして私はその「軽さ」ゆえの重さが、この作品の素晴らしさであると思っています。

あらすじ

同性愛者のマルオとその恋人のヒカル、共通の友人であるトランス女性のたま代、売れない小説家の菊ちゃん、たま代と菊ちゃんの友人のぞみ、そしてマルオと同じ建物に住んでいる岡野さんと、多彩な登場人物が過ごす日々を、主にマルオの視点から描く短編。タイトルの「夏の約束」とは、たま代が「夏になったらキャンプに行こう」と友人達を誘っていたというエピソードに由来していて、一見すると大きな事件も展開もないままに、約束のキャンプの日に近づく数日が語られる。

選評で多く語られている「軽さ」

この小説は、極めて平易な文体で書かれていて、しかもやけに淡々と、ないし飄々と進んでいくので、読んだ印象としても「妙に軽い」というのが多くの人にとって大きいのではないかと思います。実際、芥川賞受賞時の選評を読んでいると、そういう趣旨の評が、ポジティブなもの、ネガティブなものを含めて多いです。

  • 池澤夏樹さん「マルオとヒカルが同性愛者であることはこの軽さにどう関わるか。女の前で肩を張って男を演じる必要がないからマルオは飄々としているのか。それともさんざ迫害された果ての達観なのか。」「もう少し歯ごたえがほしいとも思ったが、受賞に反対はしない。」
  • 黒井千次さん「決して閉鎖的な同性愛者の世界が描かれるわけではない。むしろその周辺に、世間の約束事とは少しずつずれた場で生きる二十代の人間達が寄り集り、不思議に自由で伸びやかな生活空間を生み出している様が面白い。」
  • 三浦哲郎さん「一見、無造作に楽々と書かれたような平明な文章が、よく読んでみると注意深く選んだ言葉でしっかり編まれていて味わい深いのは、前作「恋の休日」の場合と同様である。」「私は、この作品にごく普通に生きている人間の体温を感じて心が安らぐのをおぼえた。」
  • 田久保英夫さん「相当な力量だが、しかし、こんなに平明な世界で、口あたりがよくていいのか、とも思えてくる。あるいはホモの人たち同士の、あるいは私たち外側の人間への、一脈ぎくっとするような毒気も出ていいはずではないか。」

(「ホモ」という言葉にぎょっとしますが、原文がこうなっているようなのでそのまま引用しています。)

  • 石原慎太郎さん「平凡な出来事の中で描いてホモを定着させることが新しい文学の所産とも一向に思わない。私にはただただ退屈でしかなかった。」

(こちらも「原文ママ」です)

  • 宮本輝さん 「一読するとあまりにも軽すぎて、これではいささか……と首をかしげそうになるのだが、このように軽妙に書ける技量の背後には、したたかな文章技術というツボを刺す長い鍼が、本人が意識するしないにかかわらず隠されているものだ。」

一方で「軽さ」、「自由」、「普通に生きている」といった言葉が肯定的に語られ、他方で「こんなに……口あたりがよくていいのか」、「平凡な出来事」、「退屈」、「あまりに軽すぎて、これはいささか」などと否定的に見える言葉が見つかりますが、共通しているのは、「平凡なことを軽く書いている」という印象であるのが見て取れるかと思います。

とても重い、この「軽さ」

ただ、私にはこの「軽さ」が非常に重いものなのであり、そこにこの作品の文学的意義が賭けられていると感じました。

実際、マルオ達の日常は決して「平凡」で「自由」などではなく、語られている出来事には辛く思えるものが多いのです。

ヒカルと手を繋いで歩いていると子供達にからかわれ、大人からも「勘弁してよ」と声をあげられる。会社ではトイレに「ホモ」と落書きされる。子供時代の思い出として同性愛者であるというだけで鶏小屋に閉じ込められて話や、献血を拒否された話が登場する。トランス女性であるたま代もまた、当人のいる前ではないとはいえ、「本当に女の人なのか」と問われ「カマくさい」と侮辱され、そしてあろうことか終盤で事故に遭って入院する際には「男性美容師」として報道され、男性棟に入れられてしまう。それ以外にも、菊ちゃんが語る障碍のある兄をいじめられ、助けられなかった記憶、のぞみや岡野さんが突きつけられる侮辱。

ある意味では、彼らの日常は「悲惨」なのだと、私は思います。だからこそ、田久保評、石原評、宮本評にあるような「妙に軽すぎる」というネガティブな反応が出るのではないでしょうか。田久保評に典型的ですが、「もっと何か溢れ出るものがあるのではないか」と感じるのは、ある面では自然なことに思います。

そしてだからこそ、こうした反応は、この作品の描き出したものを受け止め切れていないのではないか、とも思います。

というのも、「悲惨」かもしれないけれど、これは彼らにとって「日常」なのです。たとえ悲惨なものであっても、日常をずっと悲しんだり怒ったりし続けて暮らすというのは、私達には難しいことです。悲惨な日常でも、私達はそれに慣れるしかないし、その中で楽しさを見出したり、喜びを見出したりして暮らしています。

この独特の「軽さ」に似たものには、私にもいくらか覚えがあります。GD(ないしGID)当事者の集まりでは、もちろん悲しいムードで会話がなされることもあるのですが、性別移行のために故国に帰れなくなったという話が、移行途中で男性用トイレは入れば注意されるし女性用トイレは怖いしでなかなかトイレに行けず体を壊しそうになった話などが、意外と明るく楽しく語られたりします。「こんなこともあるよね」と。そんなとき、そういう話は、生活上の「あるある」話の一部としてあっけらかんと出てきたりします。

以前にきんきトランスミーティングというのに参加してみたときにも、明るく軽い雰囲気を感じました。話題になっているのはSNS上での激しい差別言説であったり、日常での困難であったり、であるにもかかわらず、です。(りぽたんさんがTwitterの有名なトランスヘイトアカウントのパロディをスライドに上げて、会場が大笑いしていたのも印象的でした。)

こういう「軽さ」は、当事者やそれに極めて近い人々特有のものではないかと思います。そこには、「重く受け止めすぎると潰れてしまう」という精神もあるでしょうし、「単に慣れている」というのもあるでしょうし、様々な心理や思惑があると思うのですが、大雑把にまとめるならその「軽さ」の理由は、そうした「悲惨さ」がすでに生活の一部として日常に溶け込んでいるからなのではないかと私は考えています。

私には、藤野さんの作品は、ゲイやトランス女性、シス女性といった、それぞれ何らかの点で構造的な不利益を日常的に被っている人々の視点を、そのままに示すものとなっているように見えます。評者達が「妙に軽すぎる」と感じるなら、それはその評者達の日常にはそうした「悲惨さ」が大してなく、それが「もっと何か重々しくなるべきなのでは」という違和感を生じさせているためではないでしょうか。

差別を被る人々にとって、それはたまに起こる大事件というよりも(むろん、殺される、殴られるなどの大事件も残念ながら起こるのですが)、常日頃から自分自身の日常を織り成している単なる風景なのであって、それをそのままに作品化して見せたことに、この作品の凄みがあるのだと、私は思います。

この点で、そうした文学的意義をまさに指摘していると思われている評が、当時唯一の女性の評者に見られるのは、興味深いことだと思います。以下は先程は挙げなかった、河野多恵子さんの評です。

「男性同性愛者たちのカップルや性転換者の交友をこだわりなく描いて、雰囲気に広がりがある。彼等は世間の差別的な視線とうまく折合いをつけている。」「しかし、差別的視線の弛みは、世間の寛大化や理解度の深まりの結果などではない。何事も相対化してしまう、今日の風潮の結果に外ならない。」

少し意味合いの取りにくいところもあるかもしれませんが、差別的な視線がこの作品の世界や雰囲気の要素となっていることが、適切に指摘されています。

「夏の約束」をどう読むか

もちろん読み方をお勧めするなどというのはあまりに思い上がったことで、私にそんな権限も権威も何もないのですが、けれどもし私がこの作品をうまく楽しむ方法が分からないという方に相談されたなら、こんな風に答えるだろうと思います。

ここに描かれている、あなたから見て悲惨に思える出来事を探してみて。その上で、これがこんな風に軽く語られるような世界で暮らすというのがどういう感じなのか想像してみて。もし想像もつかないとしたら、そんな想像もつかない日々を送っている人が世の中に沢山いるのだということに、思いを馳せてみて。

たま代はバーベキューに拘りますが、実はこの作品の登場人物達は誰一人バーベキューに関する良い思い出を語りません。世間から逸れてしまったこの人達には、たぶんこれまでバーベキューに馴染むということがなかったのでしょう。「だからバーベキューをしてみたい」という気持ちは、私には凄くよく分かるように感じます。それはたぶん、私が様々な学校行事などをやり直してみたい、普通に過ごして楽しい思い出にしてみたいと、ときにどうしようもなく感じてしまうのと同じ気持ちが、もう少し現実的に現れたものなのではないかと感じます。

そんな、あまりにもささやかなたま代の、そして(たま代に引き摺られる形とはいえ)その友人達の願いの顛末がどうなるのか、ぜひ、実際に読んでみていただきたいです。