ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

社会的に構成された名をそれでも名乗ること

私が自分の女性という性別にこだわり、さらにトランスでもあるということを語るとき、ときにリベラルな人々、とりわけ多いのはシスヘテロ男性に、「性差などは社会的に構成されたもので、実在物ではないのだから、それをあえて語る必要はないのではないか」と言われることがあります。

人種に関しても似た話があるのかもしれません。人種という概念に生物学的な根拠はないとよく語られますが、でもBlack Lives Matterのような運動は、blacknessをはっきりと語っていて、そのことを怪訝に思うリベラルな方がいるかもしれない。

他方で性別やシス/トランス区別、人種といったものを打ち出すのであれば、当人たちもそれらが生物学的な根拠を持つ実在物だと認めているのだ、と考える生物学的決定論者もいるかもしれません。

ほかのマイノリティグループに関して私が代弁することはできないし、トランスグループでさえ異なる考えの当事者はいくらでもいるだろうから、私が代表することはできないのですが、あくまで私個人の考えとして言うならば、あるカテゴリーが生物学的な根拠を持たず、単なる社会的構成物で、その意味では実在していなくても、それでも私たちの経験する現実を形作り、私たちのアイデンティティとなり、そして自身の権利を求める運動の旗印となるという意味では実在しているということは、矛盾なく言えることであるように思っています。

トランスに関して言うならば、少なくとも私の考えにおいては、シス/トランスの区別はこの社会の枠組みのなかで押し付けられたものに過ぎません。シス/トランス関係なしに、性別に関するアイデンティティはある。そして、シス/トランス関係なしに、体の形状や機能に関する偏見のもとで、出生時に医学的その他の権威によって勝手に性別を割り当てられる。そのなかでたまたまそこに齟齬が生じないため、すんなりと社会に溶け込んで、不都合なく暮らしていけているのがシスであり、本来のアイデンティティと偏見に基づく割り当てのあいだに齟齬をきたしているせいで、自身のアイデンティティに従って暮らせずに神経をすりつぶしてしまったり、自身のアイデンティティに従って暮らそうとしたら身体の形状や機能に関する偏見のゆえに不利益を被ってしまったりするのがトランスである、私の見たところ、これがシス/トランスをそれなりに統一的に記述するような見方ではないかと思います。

この見方のもとでは、身体の形状に関する偏見に基づいて性別が割り当てられるという社会実践があるがゆえにシスとトランスというカテゴリーが生じているわけですから、そうした実践がない社会ではそもそもシスもトランスもなくなるはずです。実際、「体がどんな形をしていて、声や外見がどうであろうが、性別が何であるかはわからない」ということが常識化している社会があったとしたら、そこではシスもトランスもないのではないでしょうか? この意味では、シス/トランス区別は生物学的基礎を持たない社会的構成物に過ぎず、実在はしていない、と言えます。

けれど、最近だと『ハリー・ポッター』シリーズの著者であるJ. K. ローリングなどが話題になりましたが、トランス差別に加担する人々は、その区別が社会的構成物に過ぎないとは決して認めません。「トランスの権利も尊重する」とは口では言いつつも、「本当ならシス/トランスの区別なんてなかったはずなのだ、そんな区別が無意味になるような、等しい扱いを目指していくべきなのだ」とは決して言いません。むしろ、「それでも『トランス女性』は『女性』ではなく、あくまで『トランス女性』であるべきだ」という趣旨の発言をすることが多いです。「そうは言っても『シス女性』と『トランス女性』には本質的な違いがある」、と。こうした思想はいわゆるterfに限ったものではなく、例えばトランス女性が交際相手の男性にカムアウトをしたら暴力を受けただとかといったことの背後にも横たわっています。シス/トランス間に本質的な違いがあると思うからこそ、トランスだとわかると怒るのでしょうから。もちろん同様のことは似た仕方でトランス女性だけでなくトランス男性に関しても、ノンバイナリーに関しても言えるでしょう。

そして、ここには循環構造があります。トランスというカテゴリーを生み出した社会実践は、ある日急に「体の形状をもとに性別を決めよう!」と取り決めがあって起きたことではありません。これ自体が、身体と性別のシス的な結びつきを「自然」と見なし、そうでない結びつきを不自然と見なす、上にあげたのと同様の思想から生じているものに見えます。そしてそうした実践がシス/トランスの線引きを強めるほど、上記の思想の持ち主たちは「やっぱり線引きがあるのだ」との思いを強めるでしょう。こうして、それ自体は人為的なものだったはずのシス/トランス区別が、容易には解消できない強固な社会的現実として作り上げられていくことになります。それは単なるフィクションともまた違って、「サンタなんて本当はいなかったんだ」で済むような話ではないのです。

さらにこうして生まれる構造ゆえに、ほかの事情が同じであれば、トランスはシスよりも恒常的に不利益を被るようになっています。よく言われるのはトイレや更衣室、プールなどの利用が困難になることですが、それ以外に重要なものとして、就職の困難もありますし、保険証に性別や戸籍名が記載されているために医療へのアクセスが困難になっている人もいるでしょう。また私の知人のトランス男性は、出身大学が女子大学であったがゆえに、きちんと卒業もしたし、在学中に留学もして多くのことを学んでいるにもかかわらず、就職活動では大学の名前を出せず、大学には行っていないふりをしていると語っていました。様々な不利益があります。

シス/トランスの区別はそれ自体としては社会的に構成されたものに過ぎませんが、社会的に構成されたものは単なるフィクションではなく、このように私たちの現実を形作る強固な構造として、ある種の実在性を持っています。ある意味では実在していないはずなのに、ある意味では実在している。それは例えば、ただの紙のはずなのに私たちの現実の一部となっている紙幣や、ただのインクのシミのはずなのに私たちの現実の一部となっている文字などと似たようなものです。違うのは、紙やインクのシミを分類したところでそうしたものたちは特に利益も不利益も被らず、紙幣となろうが雑紙となろうが本人(本紙)は気にしないでしょうが、シス/トランス区別は人間に関する区別であるがゆえに、その区別で被る不利益を当事者は意識せざるを得ないという点です。

このようにシス/トランス区別の構成によって構造的に不利益を被る立場に置かれた以上、この差別の問題を語り、構造の変革を求めるためには、シス/トランスの区別を語り、それによって形作られる私たちの現実を語らざるを得ません。そしてそうした現実を嫌というほど意識している以上は、トランスとしてのアイデンティティを好むと好まざるとにかかわらず自覚して行動せざるを得ません。その結果として、私たちは生物学的な基礎を持たないという意味では実在していないはずのトランスというカテゴリーを、現実を形作る強固な枠組みという意味では実在しているカテゴリーとして語り、自らそれを名乗ることになります。

同様のことは、男女の区別に関しても言えるでしょう。それらは社会的な実践によって作り上げられている枠組みであったとしても、それが現に強固な現実としてこの社会の構造を与えていて、しかも女性のほうが主に不利益を被っているとしたら、女はどうしても女としての自身を自覚せざるを得ないし、この構造のおかしさを語るためには女を名乗らざるを得ない。

そしてどちらでも同様に、差別者の側は、「ほら、自分でも区別を認めているではないか」と言ったり、「やっぱりそこに区別はあるのだから、同じ扱いなんてできるはずはない」と言ったりしてきます。

曖昧さをなくしていくのが大事かもしれないと感じます。はっきり言いましょう。社会における位置の差はある、社会から離れた本質的な違いはない。位置の差を訴え、その解消を求めるときには、位置の差に依拠した語り方をせざるを得ないけれど、そのことは本質的な差の存在を証立てるものではない。

言い換えるなら、差別をめぐる争いは、ある区別を本質的な区別と見做し、「だから扱いに差があるのは仕方ない」と言う者に対し、その区別を本質的ではないにもかかわらず社会において効力を持ってしまったものと見て「その区別を再生産する社会構造を改めよ」と言う者が抗っているというように、私には見えます。

ローリングはブログで長々と何かを書いたようです。ですが以上のことを考えると、彼女が本当に差別者でないなら言うべきことは、「シスとトランスに本質的な違いはなく、本来は同列であるはずだ。しかし、現時点の社会はシスとトランスの区別に重きを置き、後者に不利益を強いるものとなっている。この社会構造を改めて、いつかシス/トランスの区別が意味をなさず、シス女性もトランス女性も単に「女性」と呼ばれ、シス男性もトランス男性も単に「男性」と呼ばれ、ノンバイナリーがバイナリーな性別と同列になる世の中を目指そうではないか」であるはずです。そうでなく、「尊重するけれど、しかし……」とシスとトランスの本質的な区別を語るなら、それはトランスにとって不利になる社会構造を保存しようとする側、すなわち差別者側にならざるを得ません。

ほかの人々も同様である、と私は考えます。私がトランスを名乗らないとならないのは、トランスというカテゴリーが生物学的に妥当なものだからではありません。この社会がシス/トランス軸を現実の構成物としてしまい、それに根差す不利益を押し付けてくるから、私は名乗っている、名乗らされているのです。差別者の中にはときに「トランスジェンダーなんて意味がわからない」というようなことを言う人もいます。私もそんなカテゴリーが意味がわからなくなる社会になってくれればいいと思います。けれどそのように言う人たちがそれで意味しているのはきっと「シスだけが理解可能でトランスは理解不可能」ということであり、私が望む「シスもトランスも扱いが変わらない」ということではありません。シス/トランスの区別は前提とされたうえで、単に私たちが存在しないようなものと扱われているだけです。シスとトランスの強固な線引きを維持し、そもそもシス/トランス区別なんて意味をなさない社会にならない限り、私はトランスを名乗るし、名乗るしかないし、名乗らされ続けるのです。