ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

プライド

トランスジェンダー・プライド」と言われても、ずっといまひとつピンと来ていなかった。

「私は望んでこんなふうに生まれたわけではない」、「こんな体であることに誇りなんて持ってはいない」……、そんなふうに思っていた。

「プライド? 誇れるひとはいいよね。でもこんなふうに生まれてきたくなかった私には、トランスジェンダーであることは誇りでもなんでもないんだよ」と胸のうちで語り、そうした考え方からは距離を取るようにしていた。「私はトランスジェンダーであることを誇るのでなく、シスジェンダーになりたいんだ」、と。

そんな物の見方をしていたとき、私はきっとシスジェンダー的な身体こそが「本物」であって、私の体は「偽物」で、だから偽物であるこの体を捨てて本物の体を得たい、と考えていたのだと思う。いや、間違いなくそうだった。だから「偽物」で、それゆえ「格下」の自分のありようを、いつだって否定的に見ていたし、そこにはプライドも何もなかった。

でもいつからだろう。性別移行がゆっくりと、けれども着実に進み、普通に暮らすうえでは自分がトランスジェンダーだと意識することも減って、ただただ自分は単なる女だと感じられるようになった。自然と、「トランスジェンダーとシスジェンダーにそんな大層な差があるのだろうか。私も周りの女性も、ほんの少し体や過去が違うだけで、ただそれだけのことではないか」と感じるようになった。

この普通の女性として暮らしているという感覚を抱けるようになることは、けれど「それなのに……」という怒りや苛立ち、憤りを感じ始めるのと並行していた。私も周りの女性もちょっと体や過去が違うだけでそこまで大した違いはない、それなのに私は就職活動で出身高校の名前を挙げることができない、それなのに職場でまるで犯罪でもしたかのように戸籍の情報を問い詰められる、それなのにネット上ではきょうも私のような存在を恐ろしい怪物のように語る言葉が溢れている、それなのに映画を見ても小説を読んでも私のような存在はいないことになっている、それなのに性被害を受けても安心して逃げ込める場所や相談できる場所が見つからない(ストーカーの相談を警察にしたら声だけを聞いて男性扱いされだ挙句にまともに聞いてもらえなかったこともあった)。それなのに、それなのに……。大した違いはないはずなのに……。

いくつもの「それなのに」が溜まって、次第に私は怒りを炸裂させるようになった。と言っても、もとが小心者で声を荒げることさえできない人間で、ツイッターやブログで語るようになっただけ。それでもそれは確かに怒りの表明だった。

トランスジェンダーだからって舐めるな!」、「トランスジェンダーだからっていないもの扱いするな!」、「トランスジェンダーだからって格下に思うな!」、「トランスジェンダーだからって怪物扱いするな!」……、「トランスジェンダーだからって」から始まるいくつもの怒りの声が私のなかにあった。そしてふと気づいたのだ。

「私は、トランスジェンダーであることが軽んじられる理由にはならない、トランスジェンダーの人々も等しく人間として尊重されるべきだ、と思っているのだ」、と。

この気づきとともに、私は私なりの仕方で「トランスジェンダー・プライド」を理解した。確かにいまてこんな余計な苦労を背負いたくはなかったと思う。シスジェンダー女性に生まれていたらよほどスムーズだっとろうとも思うし、シスジェンダー男性として生きていられたならいまよりどれだけ楽に暮らせただろうとも思う。私にはどうしようもなかった。私には自分の性別を変えられなかった。そしてこの世の中が私の体を男性のそれと分類する常識のもとで動いていた以上、トランスジェンダー女性として生きる以外に、道はなかった。それでも、「もしそうならずに済んだなら」とは想像する。それでも、「だからと言ってこんな扱いを受ける謂れはない」と、多くのことにはっきりとした怒りを感じるようになった。

望んでなったわけではない、けれどそれはそれとして、軽んじられて黙っている道理はないのだ、と。

私にとって、この気持ちこそがトランスジェンダー・プライドだ。「舐めるな」の気持ちが。私のことも、私以外のすべてのトランスジェンダーのことも。

これは私が女性であるということに抱える気持ちでもある。道端で性的な言葉とともに「値段交渉」をされたとき、知らない年上の男性からいきなりため口で、こちらは物を知らないという想定で何かの講釈をされたりしたとき、「女だからって舐めるな」と思う。

「舐めるな」が私のプライドだ。トランスジェンダーであることにも、女であることにも、いまははっきりとプライドを抱いている。私のことを、私以外のトランスジェンダーのことを、私以外の女性のことを、馬鹿にするなと、私は繰り返し憤る。

そして、「舐めるな」と思えなかったかつての自分を、自分こそが誰よりも自分を格下扱いしていたかつての自分を想う。いや、たぶんそのころの自分は、まだいまの私のなかにも残っているのだ。弱々しく卑屈で、怒るよりも悲しむことを選び、傷つき、自分で自分を傷つける、そんな自分。いまも残っているからこそ、私は彼女を守り、助けないといけない。本当はずっと助けを求めていた。どこで、誰を求めればいいのかもわからないまま。だから、私自身が彼女を救うのだ。このプライドを掲げて。

実際には大したこともできない身だが、それでも私はこんなプライドを抱いて、きょうも生き抜いている。