ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

「みんな」になれない「私たち」、あるいは私

新型コロナウィルスの感染拡大から、いろいろなことが起こっている。少なからぬ人々が在宅勤務へと業務形態を変え(もちろんそうできない職種のひともいるが)、必要なものを買いに出るときにはマスクを欠かさず、そして新たな感染者の数の推移を見守ったり、政府からの発表を確認したり、そして声をあげたりしている。

みんなで、一丸となって。「いまこそみんなで手を取り合ってこの困難を乗り越えるときだ」というような声も聞こえる。

多くのひとにとっての、「みんな」になることへの、この容易さに、私は戸惑っている。


もううろ覚えなのだが、ベルナール・スティグレールという哲学者が、「私」と「私たち」と「みんな」について考察している本があった。『愛すること――「自分」を、そして、「われわれ」を』という邦題の本で、そこではグローバル資本主義の拡大のなかで失われていく「自分自身への愛」が語られていたように記憶している。(私の記憶が正しければ、だが)スティグレールの考えでは、「私」というものは「私たち」という集団抜きには成り立ち得ない。例えば「〇〇という会社の一員としての私たち」、「〇〇というバーの常連としての私たち」などなどのように、ひとは同時に複数の「私たち」に属しているのだが、そうした複数の「私たち」の重なり合いとそれらのあいだの差異において「私」は立ち現れるのであって、そうしたもの抜きに「私」というものが自律的に存立しているわけではない、というのだ。スティグレールの問題意識は、そうしたたくさんの「私たち」がかき消され、ただひとつの「みんな」に回収されていくという現状に向けられていた。

「私たち」という集まりは、地図とカレンダーの共有によって、その個別性を獲得する。「〇〇という会社の一員としての私たち」は、特定の時間にある所在地に集まり、特定のスケジュールに沿って行動することによって、別の地図とカレンダーを持つ集団とは区別された、固有の「私たち」になる。しかしグローバル化のなかで、国境さえまたいで多くの人々が地図やカレンダーを共有する事態が生じている。スティグレールはワールドカップのことを挙げていたように記憶しているが、従来のミニコミュニティ的な「私たち」と違い、世界規模で同じサッカーの試合を同じ時間に見ようとしたり、それに合わせて行動を形成したり、ということを人々はするようになっている。その結果、「みんな」という大規模な集団が生起し、複数の「私たち」のあいだの差異が消失して、それゆえ「私たち」の個別性は失われ(要するに「私たち」は立ち行かなくなり)、複数の「私たち」の重なりと差異のあいだに現れる「私」も失われていく。しかし「私」への愛は、それを成り立たせる「私たち」への愛からしか生まれ得ないのだから、「みんな」の時代において「私」を愛することは困難になり、それが一部の(大義を伴わないたぐいの)テロリズムなどを生み出すに至っているのではないか。おおよそ、そのような話をしていたように思う。


コロナの時代の人々は、あっという間に、はるかにもっとラディカルに、「みんな」を指向するようになった、と思う。スティグレールが問題意識を持とうとも、それでもミニコミュニティ的な「私たち」は生き延びていたように思うのだが、そうしたものも次々と場所を失い、予定を失い、共有すべき地図とカレンダーを喪失していっているように見える。グローバル資本主義がグローバルに共有される地図とカレンダーを効率的に提供することで様々な「私たち」の地図やカレンダーを委縮させていったのとは全く別の、偶然的で、ほとんど物理的ともいえる形で、暴力的な仕方で、「私たち」の地図やカレンダーはかき消されていく。いま残されているのはオンラインの場所と時間であり、そしてそこは新型コロナウィルスへの対策という観点から、画一的に統制され始めているように見える。もっとも、たまたまそういう面しか、私には見えていないというだけかもしれないが。

そうした状況を眺めていて感じるのは、多くのひとは「みんな」であることに、そこまで違和感も持っていなければ、それによって自分への愛が成り立たなくなるわけでもなさそうに見えるということだ。ごくごく自然に、「みんな」を名乗り、「みんな」へ呼びかけているように思える。……私には難しい仕方で。


「みんな」になるのも、それどころか「私たち」になるのも、私にはいつだって困難だった。

幼稚園のときに、すでにあまりに生きていくことが苦痛で、吐き気や腹痛を覚えるようになり、頻繁に登園拒否をするようになっていた人間だ。小学校も中学校も高校も大学もその調子で、まともに所属することは出来なかった。そのほかの「私たち」にもうまく馴染めなかった。多くのひとには自然と混じれるのであろう、同性たちの「私たち」にも、私は30歳ごろまで、いやもしかしたらいまだって、うまく入れずにいた。幼稚園のときに、男の子たちが「俺、生まれ変わっても絶対に男になる。女になんて生まれたくない」などと笑っていたことを覚えている。私がたぶん、人生で初めてはっきりとした絶望を感じたときだった。その後も、「なよなよしている」というので、男の子たちからはことあるごとにからかわれ、いじめられてきた。いや、少なからず女の子も、その調子だった。

性別移行によって「女になる」というような言い方もある。けれど私の感覚としては、女性として生きていて実感するのはむしろ、世の中の女性の多くが「女性と言えばシス女性」ということを暗黙の前提として(というより、それを疑ったことさえなく)暮らしているということだ。女性たちの空間の多くは、だから私には居心地が悪く、そして例えば性差別などに関連する文脈で、女性たちのことを指して「私たち」と、私も言うことがあるが、そのときには自然とそう言っているのではなく、何とも言えない怖さ、そのように言うことで誰かから「いや、あなたは『私たち』のひとりではない」と指さされるのではないかという感覚を覚えながら、あえて、頑張ってそのように言っているのだ。

もちろん、私に「私たち」が欠けていたわけではない。私も家族の一員であったりはしたし、ごくごく少人数ながら、友人グループというのもいたし、少なくともいまは仕事もしていて、その関連での「私たち」はある。ただ、性別で規定された「私たち」のいずれにも属せなかった私は、そのいずれかに属していることがほぼ自明視されているような多くの「私たち」からもあぶれてしまい、結果的に備えている「私たち」が極端に少なく、途切れ途切れになっているということは言えそうに思う。そして、明らかに、私は「私」を愛することなく生きてきた。というより、まさにスティグレールが言っていたように、そもそも愛すべき「私」を持っていなかった。それはグローバル資本主義のゆえに失われたのではなく、そもそもこの社会に「私」が形成される場所はなかったのだと思う。


私にとって、だから、「私」を愛することは、自分は女であるが、それだけでなくて、やはりあくまでトランス女性なのだという自覚と裏表になっていた。トランス女性のあいだにも多様性があるということは承知のうえで、それでも私が「私たち」とそれなりに自然に言えるのは、トランス女性たちのことを指す場合だ。そしてその「私たち」に属しているとはっきり感じるようになったことによって、ほかの「私たち」への所属も整理されだしたように思う。先に述べた恐怖はいまだに持ちながらも、そうはいっても私は女性たちの「私たち」の一部なのだ、ともいまでは思うし、様々なコミュニティにおいて求められる「女性」のスタンダードに合わずとも、「そういう女なんだから仕方がない。それでも私はこの『私たち』の一員だ」と思えるようになった。いまの私は、「私」を愛していると感じるし、たまに深く落ち込むことはあっても、「私」がそもそも存在しないという感覚は、もう克服しているように思う。少なくとも、小学校のころから30歳ごろまで常に付きまとっていた希死念慮は、最近は姿を消している(トランスには珍しくないことだと思うが、私は小学生のころに漫画などを通じて「自殺」という概念を理解して間もなく、「自分はいずれこれをするのだろう」と考えて遺書を書いてみたりしていた)。

私にとっては、「私たち」を獲得し、そして「私」を獲得するのは、長く困難な道のりだった。


そしていま、このコロナの時代において、私は「私たち」を解体できず、「みんな」になれない自分を感じている。多くのひとが、「それぞれいろいろな事情はあるだろうけれど、いまはみんなで一丸となって頑張らないと」という発想を、自然と受け入れているように、私には見える。そして「みんな」でどうすべきかを考えているようだ。人々の「みんな」化は強烈で、遠隔授業が可能になったり、さまざまな会議をオンラインで、場合によってはアバターで実際の姿を隠したりもして開催できるようになったりしているらしい。私が絶えない苦痛のゆえに学校に行けなくなったときに、遠隔授業で単位を認めてもらうことが出来たなら、膨大な補習を授業内容自体は理解しているのに受けなければならなくなるなんてことはなかっただろうに、会議や面接のオンライン化や、(そこまでフォーマルな場面ではないときには)アバターの使用が前から認められていたなら、面接に行った先でトイレの利用などについて苦慮したり、まだ移行し切れていなかったころの自分の姿を我慢して人前にさらすといったことをせずに、働くことが出来たはずなのに、といった気持ちがむくむくと湧き上がる。私はずっとこれまでの社会の仕組みが不便だと思っていたし、それを機会があれば言うようにしていて、それでもぜんぜん変わりそうになかったものが、こんなにあっさり変わるのか、と、はっきり言えばこれは社会が変わり得ることへの肯定的な気持ちというよりは、社会を動かしているのは自分ではない「誰かたち」だという否定的な気持ちだ。だからこそ、それゆえに、私はこの「みんな」に私は属せていないと感じる。みんなが「みんな」になって盛り上がっているのを、私は外からぽつんと見ている、というように。


思えば、スティグレールの「私」と「私たち」と「みんな」をめぐる話には、マジョリティとマイノリティの対比が欠けていたのかもしれない。いろいろな「私たち」のなかには、とりわけ「みんな」に接近しやすいものと、そうでないものがいるのではないか。「みんな」に包摂しやすい「私たち」ばかりに属しているひとは、気軽に、シームレスに、「私」と「私たち」と「みんな」を移行しているように見える。ひとによっては、スティグレールの懸念に反し、「みんな」を新たな「私たち」と見なして、「みんな」である「私」をますます愛しているようにさえ見える。けれど、私にはもともと自然と入り込める「私たち」が少なかったし、そしてトランス女性としての「私たち」に属することでいろいろな「私たち」に所属できるようになったとはいえ、今度はこのトランス女性としての「私たち」は「みんな」とのあいだに壁を持っているようなたぐいの「私たち」であるように、「みんな」が動き出したときに零れ落ちる「私たち」であるように感じている。

シームレスに「みんな」になれる人々のあいだにも、それを肯定できるひともいれば、それに「私」の喪失を感じて苦痛を覚えるひともいるのだろうが、そもそも「みんな」になれない私は、「私たち」はそのもっと手前で足踏みをしているようなものだ。これまでもずっとそうだった、といえば、そうだ。私は、たいていのひとの遥かに手前で、いつだって立ち止まり、進みあぐねている。