ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

千田有紀「「女」の境界線を引きなおす:「ターフ」をめぐる対立を超えて」(『現代思想3月臨時増刊号 総特集フェミニズムの現在』)を読んで

(査読のない商業誌である『現代思想』に掲載されるのは「論文」ではなく「論考」だろうというご意見をいただきました。こういう文章をどう呼ぶべきかわからず「論文」と書いてしまいましたが、そのために誤った印象を与えてしまったかもしれません。申し訳ありません。)


この記事では、『現代思想3月臨時増刊号』に掲載された千田有紀氏の「「女」の境界線を引きなおす:「ターフ」をめぐる対立を超えて」を取り上げ、ひとりのトランス女性としての視点から批判します。いろいろと語りたいことがあるのですが、以下ではまず第一節で、千田氏の基本的な議論を要約し、その範囲に焦点を絞って反論をします。千田氏の論文の概要を知りたいだけという方は、ここだけ見ていただければ結構です。第二節では、詳細に千田氏の議論を検討し、どこでどのような問題が生じているのかをかなり細かく見ていこうと思います。第三節はおまけ的な内容で、そこではこの論文が登場した文脈を、私から見た限りで説明します。

本題に入る前に一つ断っておきたいことがあります。以前と違い、今回は私は本も買い、数回にわたって論文を読んでいるので、「さっと目を通しただけ」ではありません。とはいえ、私はフェミニズムに関してもジェンダー論に関しても何ら専門家ではありません。それゆえ、現在の学術的な動向と結びつけて語ることはできず、ただトランスとしての自身の経験、及び私の知っているトランス当事者たちの言葉をもとに私が理解していることを手掛かりに語るしかできません。そしてそれは学術的な主張ではないがゆえに、ただ証言として述べるだけにとどまります。

とはいえ、このことはもちろん一面では私からの言い訳ですが、他方で現在のアカデミックなフェミニストたちに向けての訴えともなっていると理解しています。つまり、第一に、当事者として私は自分の証言はする、だからあなたたちにはこれをきちんと学術的な文脈に位置付け、現在のフェミニズム内でのトランス排除にあらがう義務があるのではないかということ、そして第二に、専門家でもない単なる一当事者がわざわざこのようなことをしなければならない状況を恥じてほしいということです。もちろん、誠意と熱意を込めてトランス排除にあらがってくださっているアカデミックなフェミニストたちは何人もいますし、その方たちの努力が足りないと言ったことを言いたいわけではありません。ただ、そうした一部の方々を除いて、あまりにもフェミニストのみなさんはぼんやりとしているのではないかと思うのです。今回取り上げるような論文がこれだけ大々的に発表されたということ自体が、その証左ではないでしょうか?

以下では、ページ番号は『現代思想3月臨時増刊号』でのページを表し、また引用中の[]は私による補いを表します。

「「女」の境界線を引きなおす」はいかなる論文か?

概要

「いま、日本のTwitterでは「ターフ戦争」とでもいうべき事態が起こっている」(246頁)という宣言で始まるこの論文は、「[トランス女性のトイレやお風呂からの排除をめぐる]混乱や対立がどこから生じているのか、ときほぐして考えることが必要である」(247頁)という観点から「ターフをめぐる争いについて考察」(同左)するものとされています。

第1節「「生物学的女性」vs「セルフID」?」では、マヤ・フォーステーターの意見を挙げながら、「従来プライベートな場所と考えられた場所の性別分離のありかたが、問題の俎上にあげられている」(248頁)ことが確認され、「「強姦罪」は、女性器に男性器を挿入することによって成立し」(249頁)、「「処女性」をはかるメルクマールが、男性器による女性器への挿入と考えられている社会で、女性が男性器を恐れるのは故なきことではない」(同左)と論じられ、そのうえでジョン・マネーの事例を挙げながら「当時の社会、そして現在の社会でもいまなお、「男性」の定義として、男性器が大きな役割を果たしてきた」(同左)と確認されます。「ターフ」と呼ばれる人々はこうした「常識」をなぞっているから「男性器」を恐れているだけで、差別意識を持っているわけではないというのです。

第1節の内容を要約するなら、要するに従来の社会ではシス女性がペニスを恐れる十分な理由があり、またその常識に即して性別分離のスペースが作られており、である以上は、ペニスを持つトランス女性をシス女性が恐れるのは常識に従っているだけで差別ではないのだということでしょう。すでに数多くの問題がありますが、後に論じます。

第2節「ジェンダー論の第三段階」がこの論文の核となる内容でしょう。そこではジェンダー論が歴史的に三つの段階を経て発展してきたことが論じられます。第一段階では「「ジェンダー」という概念が出現し」(250頁)、生物学的・身体的差異とは異なる、社会的・文化的差異が着目されるようになったとされます。第二段階はバトラーが代表するものですが、「ジェンダーアイデンティティのみならず、「身体」がいかに言語によって構築され、揺らぐのか」(同左)ということに焦点が移り、「「身体」までもが社会的に構築されているのだ」(251頁)という発想がもたらされたとまとめられています。第一段階、第二段階が実際の論者に言及されつつまとめられているのに対し、第三段階は奇妙にも何の言及もなく紹介されるのですが、そこでは「第二期のジェンダーアイデンティティや身体の構築性を極限まで推し進めた際に、身体もアイデンティティも、すべては「フィクション」であるとされるのであったら、その再構築は自由におこなわれるべきでないかという主張」(同左)がなされているとされます。ここで驚くべきことに、いきなり「これはトランスに限らない」(同左)と言われ、美容整形やダイエットなどでの身体加工の感覚が第三期の発想としてまとめられます(トランスがこうした主張をしているという根拠は何一つ挙げられていませんが、そのように話が進みます)。

このあとこの節では、さまざまな観点からこの「身体もアイデンティティも自由に構築できる」という発想がいかに「女性」(=シス女性)の不利益に働くかが論じられていきます。例えばそれは女性が女性であることを選択と自己責任の問題にするとされています。そうした不利益を確認したうえで、続いてトイレのようなプライベートなスペースが「「男性を排除」することによって安全が担保されたことになっている」(252頁)だと語られます。そして本論文の実質的な結論は以下のように述べられます(長くなりますが重要な個所なので引用します)。

そもそも多様なセルフ・アイデンティティをみとめるとすれば、「トランス女性が女性トイレを使う権利」と「女性が安全にトイレを使う権利」が対立させられるかのように問題化されること自体が、そもそも奇妙ではないか。自分のアイデンティティがノンバイナリー、Xのひとも、移行中のトランスのひとも、すべてのひとが安全にトイレを使う権利がある。そもそも「女性」というカテゴリーが構築的に作られるのであるとしたら、なぜ旧態依然とした狭い二分法に依拠したカテゴリーである「女性」に、「トランス女性」を包摂するかどうかが問われなければならないのか。なぜ多様性を否定する二元論を持ち出し、その片方に「トランス女性」という存在を押し込めるかどうかが、「排除」の問題として執拗に問われるのか。問題は「二元論の片方にトランス女性を「女性」として認めて入れる」かどうかではなく、トイレの使用の際に、どのようなカテゴリーの線を引きなおすことで、皆が安全だと「感じられる」かどうか、という問題ではないのか。その基準は性別であるかもしれないし、ないかもしれない。そもそも「女性が安全にトイレを使う権利」とともに語られるべき事柄は、「トランス女性が安全にトイレを使う権利」であるべきだ。なぜそこが従来のトイレだとアプリオリに決められているのか。

つまり第2節ではジェンダー論の第三段階である身体とアイデンティティの自由な構築という発想がトランスに帰属させられたうえで、「自由というなら「女性」でなくてもいいではないか」と主張し、「女性」とは別に「トランス女性」という線を引けばいいではないかと論じているわけです。これが本論文のタイトルにある「境界線を引きなおす」なのでしょう。

第3節は「ターフ探しがもたらすもの」では、シス女性たちの恐怖が差別意識から出たものではないということが主張され、仮に差別意識を持っていたとしても、差別意識を問題化し啓蒙を望むならば、それがうまくいかなかったときにいらだちを覚えるだろうと述べられたのちに、トランス活動家による暴力的な活動の例が列挙されます。

まとめましょう。千田氏の論文のストーリーはこうです。

  1. そもそもシス女性には現在、ないし従来の常識に照らしてペニスを恐れる理由があるのであり、それは差別意識によるものではない。
  2. トランスはジェンダーの第三段階に当たる、「身体もジェンダーアイデンティティも自由に構築する」という発想のもとで自身のアイデンティティを自由に構築している。
  3. 自由に構築できるアイデンティティなのだから、従来からのシス女性の安全を脅かすような仕方で女性トイレ等の使用を求めるのではなく、トランス女性はトランス女性のスペースをつくり、それぞれの安全を求めればいい。
  4. それにもかかわらず、トランス活動家はシス女性たちの恐怖を差別意識だと誤認し、それを正そうとしては失敗していらだった挙句に、ときに破壊活動にまで及ぶ。

これが千田氏の論文から私が読み取った内容であり、そして青土社という広く名の知れた出版社が出す著名な思想系雑誌『現代思想』にて「フェミニズムの現在」と題された特集のひとつとして語られた内容です。繰り返しますが、これが、フェミニズムの現在として述べられています。

問題点の指摘

ここでは以上の要約に沿う形で、簡単な問題点の指摘をしておきます。

何よりも大きな問題は、「トランスは身体とジェンダーアイデンティティを自由に構築できるという発想を採用している」ということが何の根拠もなしに前提とされていることでしょう。これはトランスフォビックなツイッターアカウントなどではおなじみの言説で、「セルフID」などと語られていますが、これを実際に採用しているトランス当事者は、仮にいたとしても多くはないはずです。むしろ私も含め、私の知る人々は「自分たちのアイデンティティはそんな自由に選んだものではない」と繰り返し語っています。そもそも自由に構築できるような代物であるなら、周りに侮られ、不利益を被るリスクをおかしてまで、こんなアイデンティティを選びはしませんでした。少なくとも私はそうです。それよりも単なるシス男性として暮らせたらどれほど楽だったでしょう。何度も何度も「がんばれば男性として生きられるのではないか」と挑戦した挙句に、絶望的な気持ちで「私は男性としては生きられない」と理解し、このように生きざるを得なかったというのが私の実感ですし、こうした割り当てられた性別で生きようと試みて挫折するという経験は多くの当事者が語るものです。千田氏はせめて、何らかの根拠を挙げてこの主張を正当化すべきだったはずです。

そしてここが正当化されていないがゆえに、その後の議論は意味をなしません。千田氏自身が「アイデンティティを自由に構築できるとトランスは考えている」という前提のもとで論じているのだから当然です。またこのことは、千田氏が反発する「トランス女性を女性という枠内に包摂しようとすること」を受け入れるべき理由を示してもいます。それは何よりも、私たちトランス女性は不自由にも、自分たちにもどうしようもできない仕方で女性であるからなのです。それは、私たち自身にもまったく自由にならないことなのです。もちろん、男女二分法におさまらないアイデンティティを持つひともいますが、そのひともまた、男女二分法の外部にいることを自ら自由に選んだわけではなく、おそらく当人にもどうしようもない仕方でいずれの性別にも属せないのだろうと想像します。

また、序論と結論で繰り返されるのが、トランスへの恐怖を語るシス女性が差別意識からでなくそれをしているということです。千田氏はさもトランス側の人々が「そうしたシス女性は本当は恐怖を感じておらず、差別意識からそれを言っているだけなのだ」と主張しているかのようにまとめていて、そうしたことを主張しているひともいるのかもしれませんが、私や私の知る人々の意見は違います。おそらく恐怖を語る人々の多くは心から恐怖しているのであり、排除のための単なる口実として言っているのではないのでしょう。そしてその恐怖が既存の社会の構造に従うものだというのもそうなのでしょう。私たちが繰り返し指摘しているのは、その社会構造がトランス排除的にできていて、それを無反省に受け入れたうえで、トランス当事者の生き方に目を向けようとしないままに恐怖を感じている人々の不合理さなのです。そして、その前提となっている社会構造や常識が、さらにはそうした恐怖を語り、その恐怖に従って振る舞うことで保存される社会構造や常識が差別的であるということなのです。

このことは男女間の話に置き換えたらわかりやすいかもしれません。もしかしたらある種の男性は(フィクションでよく見られると思いますが)女性が自分の心を惑わす悪しき存在であると思い、心の底から恐怖し、自分の周囲に女性が来てほしくないと願い、そのことを口にしているかもしれません。しかしここには非常に偏った女性観があると言えるのではないでしょうか? 女性は性的な誘惑をしてくる存在であり、しかもそれに応じるのは堕落であるというような(ここでは女性側の意志などは問題とされません)。そしてこの恐怖に従って行動したこの男性は、男性ばかりの空間を作り上げ、それを強化し、ますます女性を跳ねのけるようになるでしょう。それは結果的に、女性排除的な空間を作り上げ、女性差別に利することとなります。こうした事例に対し、普通は「しかし本心から恐怖しているのであって差別意識はない」などと擁護したりはしないのではないでしょうか? その恐怖の理由となっている思い込みから解消してもらい、性差別的な構造の保存に力を貸すのをやめてほしいと思うのではないでしょうか? 私たちが言っているのはこういうことです。

ほかにもたくさんの、本当にたくさんの問題がありますが、全体の概要とそれへの反論は以上で終わりとします。一言でまとめるなら、全体の核となる「トランスはアイデンティティを自由に選択している」が、いかなる専門家の引用も当事者の引用もなしに、それゆえ何の正当化もなしに前提とされ、しかも私が見る限りトランス当事者の発言と合致していないという事実のゆえに、千田氏の議論はそのほとんどが破綻している、というのが私の見立てです。よりによってそれだけ大事な個所を何の正当化もなしに済ませるというのは、私には理由がよくわからない振る舞いではあります。

以下の第2節では、この論文の問題となる個所を可能な限りすべて列挙しようと思います。長くなりますので、概要だけでよいという方はいかに目を通していただく必要はありません。

「「女」の境界線を引きなおす」検討

246頁

「いま、日本のTwitterでは「ターフ戦争」とでもいうべき事態が起こっている」

多くのトランス当事者やその権利を擁護する人々は、「トランス差別問題」というように問題化しているのですが、「これは差別ではないのだ」と論じるにしても、それを「ターフ」というラベルをめぐる争いのように語るのは誠実には思えません(実際、私は普段そもそも「ターフ」という呼称を基本的に使っておらず、単にトランス差別の話だけをしています)。


「いまや「ターフ」とは中傷の言葉であり、侮辱や暴力的なレトリックとともに使われている」

直前の個所ではWikipediaの「TERF」の項目を以下のように引用しています。

その意味はすでに、ラディカルフェミニズムに関係のないと思われる、トランス排除的な視点をもつひとを単に言及するためにまで広がってしまった。このターフと言う言葉で呼ばれるひとは、たいていこの言葉を拒否し、それを中傷だと考えている――ターフと呼ばれているひとのうちには、自分は「ジェンダークリティカル」だと考えているひともいる。このターフという言葉を批判するひとは、ターフという語は、侮辱や暴力的なレトリックとともに使われていると述べている

ここでの問題は、第一に、「ターフと言う言葉で呼ばれるひとは[……]それを中傷だと考えている」というターフと名指される人々の意見への言及から、するっと「いまや「ターフ」とは中傷の言葉であり」と事実言明へとシフトしていることです。普通は、誰かがしかじかと考えているということは、実際にしかじかであるということの正当化とはなりません。

第二の問題は、自身で引用した文章の「トランス排除的な視点をもつひとを単に言及するため」を無視している点です。Wikipediaの項目でも、単なる侮蔑の言葉ではなく、「トランス排除的な視点をもつひと」への言及で用いられるとされているのです。そこをなぜか切り捨てて、「中傷である」というほうだけを取り出すというのは、はじめからターフと名指される人々の意見こそが正しく、しかもこの人々は実際にはトランス排除をしていないと前提にしているだけではないでしょうか。

第三の問題は、さらっと引用個所に出てくる「ジェンダークリティカル」に何の注釈もしていないことです。ジェンダークリティカルフェミニズムというのは、イギリスなどで語られる立場ですが、私の理解する限りではジェンダーという概念を批判的に見て、セックスこそが女性性や男性性の本質をなすとする立場で、それ自体がトランスフォビアとの強い親和性や従来のフェミニズムへの反動性をしばしば指摘されている立場であったはずです(はっきりとした解説記事が見つけられなかったので、記憶を頼りに書いています。よろしければ各自でご確認ください)。要するに、「ターフ」という名を侮蔑的だと拒否しようが何だろうが、その主張内容からトランスへの差別性を指摘されているわけなのですが、それを何も解説しないままに流してしまい、ただただこの引用から「ターフ」という語が侮蔑的に使われだしたという内容だけを抜き出しているのです。それならその個所だけを引用したらまだ見栄えはよかったと思うのですが、前後まで引用したのは研究者としてのマナーなのでしょうか。


「きっかけは、二〇一八年七月のお茶の水女子大学のトランス女性受け入れだ。そのニュースが報じられた際に、Twitter上では当初は好意的にとらえられていたと記憶しているが、その後はお手洗いや風呂の使用をめぐっての激しい応酬へと発展した。」

この個所は、誰が「好意的にとらえ」、誰が「お手洗いや風呂の使用」を話題にし出したのかといったことを明示化しておらず、不誠実に思います。当初好意的に捉えていたのは、トランス当事者や他のLGBT関連の活動家たちの多く、それに加えアカデミックなフェミニストの方々も好意的であったように思います。その一方でトイレやお風呂の話をし出したのは、少なくともトランス当事者やその支持者ではないはずです。こちらからそんな無関係な話を引っ張り出して不興を買いたがる理由もありませんから。トイレやお風呂の話が出てきたのは、主にトランスフォビックな、ノンアカデミックなTwitter上のフェミニスト(あるいは少なくとも「フェミニスト」を名乗る人々)であったというのが私の記憶です。このように明示化を避けることで、一部のトランス活動家の攻撃性は明示的に語られ、印象付けられるのに対し、一部のフェミニストの攻撃性は隠されているように思います。

247頁

「こうした一連の過程で、誰がトランス排除的なフェミニストであるのかをめぐって争いが起こっている」

トランス側である私から見ると、「誰がトランス排除的なフェミニストであるのか」は発言を見れば即座にわかるし、その判断は周りの当事者や支援者にもおおむね共有されているので、誰がそうなのかについて争ったことは特にありません。ただ、私たちが「それはトランス排除ではないか」と訴えると、そう言われた当人はたいてい「トランス女性を〇〇に入れないことには根拠がある」と返してくるというだけであるように思います。この際、両陣営のあいだである空間からトランスが排除されているということさえ共有されていて、私たちはそれを差別と呼び、相手はそれを合理的な線引きだと言っているというのが実情であるように、私には見えます(性差別に関しても語られる「差別ではなく区別」論法を想起します)。


「トランス女性の「生きづらさ」を考えるときに、話はおそらく、性別の違和感や身体に対する苦痛だったり、労働市場での女性の低賃金であったり、性別を変更する際の家族や周囲との軋轢であったり、身体や生活上の様々な不都合などに焦点化されることが通常だろう。」

とりあえず、勝手に決めないでくださいと言いたいところです。注釈5においてご自身の知っているケースは「圧倒的に男性へのトランスの方が多い」とまでわざわざ言っているのに、何をもって勝手に私たちの「通常」を決めているのでしょう。

この個所はそもそも議論上の役割がはっきりしないところなのですが、次の段落ではトイレがトランスにとってあまり問題となっていないのではないかと論じられているので、通常はトランス女性はそんなことよりここで挙げられているようなことを問題としていると言いたいのだろうと推測されます。確かに、性別の違和感や身体への苦痛も、家族や周囲との関係も私たちには切実な問題です。「労働市場への女性への低賃金」についてはどこから出てきたのかよくわかりません。確かに私たちが十分にパスすればシス女性と同様に経済上の不利益を被ることになりますが、むしろ私たちにとって重要な問題は、その段階にさえいけないことである場合がほとんどであるように思います。要するに、パスできないから就職自体が困難であるだとかといった話のほうがトランス女性の悩みとしてはリアルで、シス女性と同程度にでもいければ、それはそれで女性差別は被るし抗わねばなりませんが、とはいえそれだけで「相当に恵まれたほう」というのが、おそらく私たちの標準的な認識ではないでしょうか。それはともかく、これらに加えて、トイレが不安で使えないなども私たちのあいだでしばしば共有される悩みです。わざわざこれだけ切り捨てる理由はありません。私たちはたくさんの悩みに直面しています。

そのあとの、「GIDの学生の面倒を見たことがある」というエピソードは、「自分はトランスのこともわかっている」というポーズを見せるという以外の何の意味があるのか、私にはわかりませんでした。専門誌ではないからいいのかもしれませんが、普通は論文ではそういう無意味な文言は削るものではないかと思います。


「あくまで私が相談をうけた範囲ではあるが、お手洗いは、あまり問題となった記憶はない。尋ねてみたこともあるが、各々工夫を重ねているようだった。彼ら・彼女らは、あまりひとの来ないトイレの場所は熟知していたし、周囲の人間の理解もあり[……]、大学ではそれほどのトラブルは起ってはいなかった。」

もちろん、問題とならずに暮らすことはできるのです。私も別にトラブルを起こしたことはありません。ただ、ここでさらっと書かれている「各々工夫を重ねている」「あまりひとの来ないトイレの場所を熟知」という事態をこんなに呑気に捉えられるのは、不思議に思います。私たちは、トラブルを起こさないために工夫を重ねざるを得ず、そしてときにはあまりひとの来ないトイレの場所を熟知さえしなければならないのです。私も移行途中ではよく利用する場所の誰でもトイレの位置を把握する、コンビニやカフェなどの性別を問われずに使えるトイレを見つけると、できるだけ早めに利用しておくなどといった工夫を重ねてトラブルを起こさずに過ごしていました。ここは「トラブルは起ってはいなかった」などと呑気なことを言うのでなく、トラブルを避けるために絶えずそうした工夫をせざるを得ない境遇の困難を察してほしいところです。

それにしても不思議なのですが、このように各々の工夫のもとでトイレを利用して問題が起きていないという立場と、「トランス女性を女性に包摂せず、トランス女性の安全を考えるべき」という第1節で要約した立場とはどう整合性を保っているのでしょうか? 現在苦労しながらでもトラブルなくトイレを利用しているトランス女性(が大半のはずです。トラブルが起きると不利益をこうむるのはこちらなので)は、結局のところそのままでいいという話なのか、それとも「改めて女性専用スペースはシス女性のために空けて、トランス女性用スペースを作ってください」という話なのでしょうか。前者ならばそもそもこの論文自体の意義がわかりませんし(言われるまでもなく各自それぞれでやっていっています)、後者ならばこの個所はいったい何のために述べられているのでしょう。


「男性器をつけたままの手術をしていないトランス女性」

直前の段落では「ペニスのある女性」という言い方をしているのですが、こちらは「女性である」と明示し、それがたまたまペニスを持っているだけという語り方でいいのですが、一転してこの個所では「男性器をつけたままの手術をしていないトランス女性」という言い方になっています。「ペニス」に比べて「男性器」は、「男性」という呼称が含まれている時点で、すでに男性という性別と紐づけられた言葉になっています。そして「ペニスのある女性」のときと違い、ことさらに「トランス女性」という言い方をする(「ペニスのある女性」と言えば一部のトランス女性のことだと十分にわかるにもかかわらず)ことによって、やんわりとトランス女性を「女性」の外側の存在と見なし、その身体に男性であるという意味付けを帰属し始めているように思えます。実際、直前で「ペニス」と言われているにもかかわらず、この論文では多くの個所で「男性器」、「女性器」という、性器の形状と性別を対応させる表現が用いられ、さらにしばしば「女性」をシス女性のみを指して用いています。これは議論とは別の言葉のニュアンスのようなレベルにおいて、間接的にトランス女性を「女性」の外に置く準備を読者にさせる効果をもたらしているように思えて、不誠実だと感じます。議論の内容が変わらないならば、そうした効果を持ちかねない言葉遣いは避けるべきではないでしょうか?


「日本では「ターフ」の「排除」に関しては、すでに話題は女子トイレや女子風呂からのトランス女性の排除に集約されているという感すらある。」

トランス側はしばしば、「私たちは各々の状況に照らしてどうにかこうにかトラブルを起こさずやっているのだから、そんなことを問題にする必要はない」と言っているかと思います。それをその問題に集約しているのは、トランス排除の疑いがかけられているひとたちの側です。


「二〇一九年の八月、バンクーバーのレイプ救援・女性シェルターというレイプやDVに対応するシェルターが、破壊されるという騒ぎがあった。このシェルターは、バンクーバーでも「(非トランス)女性だけ」を受け入れている稀有なセンターだったため、「トランス女性は女性である」というスローガンが書き込まれ、破壊されたのだ。」

ここも議論にどう関連しているのかわからないのですが、いきなりトランス女性の暴力性を印象付けようとしているかのようです。この際、トランス女性のレイプやDV被害の話はありません。私はトランス排除的であれこうしたセンターを破壊するような活動を擁護できるとは思いませんが、とはいえトランス女性の被害やトランス女性にとってのシェルターのシス女性に比しての少なさを語らずにこの事件だけを挙げるのは、一部の暴力性を過剰一般化している点も含め、トランス女性の悪魔化ではないかと思います。

248頁

「またイギリスでは『ハリー・ポッター』の作者であるJ. K. ローリングが、マヤ・フォーステーターを擁護するツイートをしたことから、「ターフ」だと非難されている。」

これ自体は単なる事実の記述なのでいいのですが、その後のFromt Rowからの引用では、フォーステーターによる「生物学的性別は2つしかない」、「性別は生まれつきでなく性の自認で決まるという考えの"セルフID"を中心に性別変更を可能にすると、女性の権利が守られなくなる」という主張が、フォーステーターの解雇の理由となっているとされています。英語になりますが、以下のBBCの報道を見てください。
Maya Forstater: Woman loses tribunal over transgender tweets - BBC News
まず、フォーステーターはそもそも解雇されたのではなく、「契約を更新されなかった」なので、単純に事実の誤認が含まれているあまり良質でない引用元であるように思います(なぜ報道関係のサイトでなく、トレンド情報などの発信サイトを参照したのでしょう?)。

また判決で述べられているのは、フォーステーターに「トランスジェンダーの権利や、ミスジェンダリングによって引き起こされ得る多大なる苦痛を無視する権利はない」ということのようです。これは千田氏が引用している主張ないし信念のゆえに「解雇」(契約無更新)がなされたということよりも、もっと具体的な実害の話です。そしてとりわけ問題視されているのはやはり千田氏が引用している信念ではなく、「仮に相手の尊厳を損ない、威圧的、攻撃的、侮蔑的、屈辱的、ないし不愉快な環境を作り出すことになるとしても、あくまで自分(フォーステーター)自身が適当だと考えた性別(セックス)によってひとを名指そう」という信念であり、これが民主的な社会において敬意を払うに値しない信念だと裁判官から述べられているのです。

要するに、フォーステーターはミスジェンダリングを繰り返してハラスメントを行なっていたという判断のもとで、契約の更新をしないことが不当ではないという判決が下ったというのが真相であるように私には見えます。これを「単なる信念のせいで解雇された」とまとめるのは、あまりに不公平ではないでしょうか? そしてこうした事情であったからこそ、このような擁護しようがないおこないを擁護したローリングには失望の声が上がったのです。

249頁

「こうした風呂をめぐる議論は、今現在と言うよりは、将来を見据えているからこそ不安が掻き立てられている側面があるのではないか。全裸で同性の他人と風呂につかるという日本的な入浴方式は確かにまれなものであるようで、合宿の前などには欧米からきた留学生はかなり露骨に驚きと嫌悪の情を示す。」

そもそもこのふたつの文の繋がりがまるでわからないのですが、何のために留学生の日本的入浴方式への嫌悪の話を挙げたのでしょう? 論理的な筋道はまったくわかりませんが、無批判にここを読むと、「確かに考えてみれば同性同士でも裸を見せ合うのに嫌悪を抱くのは自然だ」という感情を読者に起こさせ、それがするっと「それならトランスにはなおさらだ」という感情面での「納得感」を生み出しかねず、危険なレトリックであるように思います。とりあえず無関係な話は削除していただきたいです。

この個所には丁寧に注釈まであり、なぜかアメリカのひとたちの反応が語られているのですが、ここも理由がまったくわかりません。この論文は実はトランス当事者の言葉はこの近辺でいくつか三橋順子さんの言葉が挙げられているだけで、それ以外まるで引用も言及もなく進み、トランスサポーティブなフェミニストへの言及等も極めて少ないのですが、このお風呂エピソードを入れるよりもそちらのほうがこの話題にとって本質的に大事だったのではないかと思います。

こう書くと笑い話のように見えるかもしれませんが、私はこのあたりを読んで、「私たちをトピックにするときにさえ私たちの生の言葉より、議論に何の関係もない留学生お風呂話のほうが大事なのか。どれだけ私たちの声を聴くに値しないものだと思っているのだろう」と脱力まじりの怒りを覚えました。


「「将来的に女湯で、ペニスのついたトランス女性とともに入浴することを、「誰とでも」、「どんな場合でも」認めると明言しろ」といわれて、即答できるひとはいないだろう。」

典型的な藁人形論法です。そんなこと、私だって即答しませんし、シス女性に対してだってひとによっては恐怖を覚える可能性があるので、そんなことは明言できません。問題は、いったいだれがそんな過大な要求をしているのかということです。トランス側がこんなことを求めていると読者に思われてしまっては困ります。


Twitter上では性暴力の後遺症のPTSDで男性器が怖いなら、「病院に行け」というような乱暴な言葉も飛び交っていた。」

Twitter上ですから、乱暴な言葉はもちろん飛び交っていたのでしょう(それはそれとして、PTSDについては実際のところ放置するより専門的な治療を受けたほうがいいのではないかと私は思いますが)。

ただここでも、千田氏はトランスフォーブ側からのミスジェンダリングを含む苛烈な言葉には言及せず、トランス側の穏やかな言葉での訴えにも言及せず、トランスを、そしてもっぱらトランスだけを攻撃的なものと印象付けています。


「つい数年前に刑法改正が行われるまで「強姦罪」は、女性器に男性器を挿入することによって成立し、それ以外は「強姦」という「犯罪」として認められなかったからだ。」

これはシス女性のペニスへの恐怖が理解可能であることの理由として挙げられているのですが、不思議な議論であると思います。むろん、従来の強姦罪はペニスのヴァギナへの挿入だけを指していたのでしょう。ただ「それ以外は「強姦」という「犯罪」として認められなかった」という言い方はむしろ普通は、現在の基準のもとでは強姦と見なされるケースがそれ以外にもあったにもかかわらず認められていなかったということを意味するのではないでしょうか? これはむしろ、従来の常識に反して、実際にはペニスをヴァギナに挿入する以外のさまざまな強姦があるという話なのであり、性暴力を受けたシス女性がペニスを恐怖するのにも一定の理由はあるにせよ、ペニスを持つものだけが強姦者であるわけではないし、ヴァギナを持つものだけが強姦被害者であるわけでもないのであり、強姦性をペニスだけに託すのは不合理だという話が、この流れからは自然と引き出されるのではないでしょうか?

またいずれにせよ、「男性器」という言葉のレトリックに気を付ける必要があります。「男性器」が「男性」を含むがゆえに、これは自然と「男性による強姦」と結びつけられます。しかし同時に「男性器」=「ペニス」はトランス女性にもあるため、トランス女性と強姦が「男性器」というワードを通じて結びつけられてしまいます。もちろんこれ自体は「男性器」を「ペニス」に代えても言えることなのですが、ただ「男性器」という言い回しによってより一層トランス女性を「男性より」のものとする「雰囲気」が作り出されているように見受けます。(なお、ここでトランス女性の強姦被害の話は触れられておりませんし、果たして加害の例がどの程度あるのかといった話もまるで触れられていません)


「明治以降、女性には「貞操」を守る義務が課され、ときにそれは女性の命よりも重かった。」

この話やその不当性自体に異論はありません。ただ注意すべきは、ここで「女性」が「シス女性」の意味で使われていることです。これは上の個所の直後に述べられているので、ますますトランス女性を「男性より」とし、「シス女性こそが女性」というニュアンスを、はっきりそれと主張することなく、言葉のうえでの操作によって作り出しています。


「また男性の身体の定義をあげろといわれたら、多くのひとが「ペニスがあること」を挙げる社会で、「男性器はついているけれども女性だというジェンダーアイデンティティがあるから女性」という存在に混乱を覚えるのは、必ずしも「差別意識」からではない。」

そんなことは、こちらのほうがよくわかっています。だからこそそうした社会や女性/男性の定義に異を唱え、従来の常識が偏っていることを毎日のように訴えているのです。これはかつて「女性には知性がない」だとか「選挙権に相応しくない」だとかという常識があった時代に、そうした常識に抗ってきた女性たちと変わりありません。果たして千田氏は、そうしたかつての女性たちにも、「女性と言えば多くのひとが知的に劣ると考えていたその社会で、女性が選挙権を求めるということに混乱を覚えるのは、必ずしも「差別意識」からではない」などと擁護するのでしょうか? 差別に抗う運動は、いつだって特に意識することなく単に常識とされてきた不公正な社会の構造への異議申し立てだったのではないでしょうか。


「後述するが、ジェンダーの議論で有名なジョン・マネーの「一卵性双生児」の事例では、事故でペニスをなくした男児が、それ以降女児として育てられている。それは当時の社会、そして現在の社会でも今なお、「男性」の定義として、男性器が大きな役割を果たしてきたからである。」

ここは意味が通らず困惑する個所です。というのも、千田氏自身後述するように、マネーのこの実験は失敗に終わり、当該児童は結局のところ女性としては生きられなかったと知られているのです。これは、ジェンダーアイデンティティを教育などによって変えることはできないということを示すと普通は理解される話で、なぜこの文脈で出てきたのかわかりません。むしろこの事例が示しているのは、「ペニスがないなら女性だ」などという常識を採用していると、多大な苦痛を被る者がいるということなのではなかったでしょうか。こうした不幸をなくすためにも、性器の形状と性別を対応させないように社会を変えるべきなのではないでしょうか?


「ペニスに関するこういった一連の意味は、「ターフ」が作り出したものではない。彼女たちはその「常識」をなぞっているのだ。」

ここも藁人形の気配があります。というのも、トランス側の多くのひとは、ペニスを男性性の象徴とする発想がターフと名指される人々の創作であるとまでは言っていないはずだからです。言われているのはむしろ、それはこの社会での偏見であるが、トランス排除的な人々はこの偏見を強調、強化して、この社会をますますトランス排除的にしてしまっているということであるはずです。


「ただ、急いで付け加えるが、ここでは男性器を持っているから「女性」というジェンダーアイデンティティを主張すべきではないと主張しているわけではない。」

この微妙なレトリックに注意を払う必要があります。さも、「あなたたちのアイデンティティは尊重します」という口ぶりですが、そうでしょうか? 実のところジェンダーアイデンティティという概念自体はシス/トランスをまたいで適用されるものなのですが、千田氏の論文ではシス女性には一度もジェンダーアイデンティティの話が持ち出されていません。シスが生まれながらにしてジェンダーアイデンティティを尊重されるのに対し、トランスはそうではないというのが、トランス差別をめぐる諸現象の根幹にあるにもかかわらず、です。さらに丁寧にも、ここではカッコつきで「「女性」」と語り、さらに「主張すべきでは」などという言葉まで加えています。

実際のところ私たちが言っているのは、「私たちは単に女性なのです」ということです。しかしそれを言うとすぐに体の話をされてしまうから、シスならばおおよそ常に尊重されるがゆえに問題化されず、しかしトランスの場合には意識化されるものとして「ジェンダーアイデンティティ」という概念を用いているのです。

なので、私の知る言葉づかいでは、千田氏のこの文言は「男性器を持っているから女性ではないと主張しているわけではない」と言い換えることができるのですが、ではなぜ千田氏は上記のようなややこしい言い方をしているのでしょうか? それは、「トランス女性はシス女性が女性であるようには女性ではなく、単にそれを主張しているだけ」という含意を持たせているからではないでしょうか? ここは一見すると譲歩しているようでいて、何一つ譲歩していないし、私たちのアイデンティティへの尊重など示してはいないのです。


「争いを深め、不要な対立をあおる風呂について語ることが、生産的だとは思えない。もうこの風呂の話は、終了したらいいのではないか。」

完全に同意します。というより、トランス側で女風呂の話題を続けたがっているひとは私の周りにはいませんので、それを問題視していた人々の側で「トランス側のこれまでと同様の判断に任せます」と言ってくれたら終わる話です。

250頁

「マネーの有名な「双子」の症例[……]は、のちに嘘であることが暴露された。その本のタイトルはAs Nature Made Him、自然が彼を作りたもうたように、である。人間は「自然」から、つまり生まれながらの身体からは逃れられないという主張だ。」

ここは私が単純に知らないのですが、コラピントのこの本の主張は最終的にこうなのですか? 現在この話が言及されるときには、「アイデンティティは外的に変えることはできない」という話として紹介されるのが普通であって、「生まれながらの身体からは逃れられない」などというトランスの存在を完全否定するような主張とともに言及されているのは初めて見たのですが。「自然」というのはコラピントにとって「身体」だったのでしょうか? その個所を引用してくだされば助かったのですが。

251頁

「そしていまや、それらの動向を踏まえてあきらかに第三期に入っている。こうした第二期のジェンダーアイデンティティや身体の構築性を極限まで推し進めた際に、身体もアイデンティティも、すべては「フィクション」であるとされるのであったら、その再構築は自由におこなわれるべきではないかという主張である。」

ジェンダー概念を発見した第一期と、セックスもまた常にすでにジェンダーであるといった立場とされる第二期とについては、代表的な論者が挙げられていて、文献への言及もあるのですが、この第三期は誰が提唱者で、どのような文献で語られているものなのでしょう? そういうことを示すまでもないほど明らかなことには私には見えませんが……。


「これはトランスに限らない。」

先の個所の直後にこう来ます。つまり、千田氏はトランスに「身体もアイデンティティも自由に再構築できる」という立場を帰しています。そしてこれが千田氏の議論の中核になるのですが、驚くべきことに、このたったの12文字で語られるのみで、しかも「トランスの立場である」という明示的な主張でさえなく、「トランスに限らない」とさも読者も知っている自明の前提のように語られています。ここにはいかなる注釈もなく、ただのひとりの当事者への言及も、たった一本の論文への言及さえありません。

そして、これが重要なことだと思うのですが、私の知る限りトランス当事者のあいだで、自分のアイデンティティの構築が自由であると思っているひとなどいない、いたとしてもごくごく少数であって、このようにトランス全般の話にできるようなものでは到底ないように思います。後に千田氏は、この誰が提唱しているのかわからない第三期ジェンダー論からは、女性が女性であることが自分の選択したことであるという不都合な帰結が生じると述べていますが、その不都合さをトランスにだけ勝手に押し付けるつもりでしょうか? 千田氏は、私たちは自分でアイデンティティを選択したのだから自己責任だとでも言いたいのでしょうか? 少なくとも私の人生においては、私の性別は私が選んだものではありませんでした。男性として生きてみようと頑張っては鬱状態になり、自殺衝動やアルコールへの依存を抱え、結局のところ「どう頑張っても自分には男性としては生きられないのだ」とあきらめたというのが実情です。そして自分が生きられるアイデンティティを探った結果、女性として生きているのです。私のアイデンティティは「構築した」ものではあるかもしれませんが、「自由」に選んだものではまったくありませんでした。自由に選べるなら、周りに合わせて普通の男の子の振りをしようとした中学時代に、私は鬱状態になって不登校に追いやられるのでなく、ただ普通の男の子として生きることが出来たことでしょう。


「美容整形やコスメ、ダイエット、タトゥーなどの身体変容にかんする言説を検討すれば、身体は自由につくりあげてよい、という身体加工の感覚は私たちの世界に充満している。」

千田氏がトランスに帰する立場のうち、身体の選択の自由よりも、アイデンティティに選択の自由のほうこそが後の議論のかなめに見えます。にもかかわらず、なぜかここでは身体の加工の話ばかりがトランスと並列されています。これは身体の選択の自由が私たちにとって自然であるという事実を、「身体とアイデンティティの自由な構築」という並列を通じて、「同じようにトランスはアイデンティティも、コスメやダイエットのように作れると思っている」という、不当なアナロジーを読者に抱かせるために利用しているように見えます。アイデンティティの構築の話をするなら、それだけに議論を絞るべきです。


「「ジェンダーアイデンティティ」は生まれながらにして所与であり、変更不可能であるからこそ、手術によって身体を一致させたいというGIDをめぐる物語が典型的に第二期的なものであるとしたら、たまたま、「割り当てられた」身体やアイデンティティを変更して何の不都合があるだろうかという論理は第三期的な何かである。」

無数の問題を抱えた一文です。

第一に、GIDとトランスをこのようにまったく別のアイデンティティ観に根差すものとするのは、トランスのなかにはいまでもGIDの診断を受ける者がいる、それもしぶしぶでなく肯定的な仕方で診断を受け取る者がいる(私がそうです)という事実をまったく無視しています。

第二に「割り当てられた」の使い方が単純に間違っています。トランスについて語るときに「割り当てられた」とはassigned sex、つまり「割り当てられた性別」を指します。これは私の理解する限り、出生時に身体の形状をもとにして、それに関する社会的意味付けのなかで、医師や両親といった者たちが赤ん坊の性別を「割り当てる」、つまり「女である」、「男である」などと決めてしまうことを問題化する概念です。しばしばトランスは「心の性別と体の性別の不一致」などと語られますが、ここでは「体の性別」というのが実は純粋に身体的に決まるのではなく、そもそも医師や両親の権威、あるいは関連する法制度という社会的な意味付けの網の目のなかで他者から付与されるものだということを表しています。もちろんこれも、トランス限定の概念ではなく、シスにも適用されます。

つまり「「割り当てられた」身体やアイデンティティ」(それが何を意味するのか私には皆目わかりませんが)ではなく、「社会が私たちに押し付けた性別」にアイデンティティが合致していないというのがトランスであるはずです(GIDもこの意味でのトランスの一部となります)。ここではつまり、アイデンティティを所与としたうえで社会からの勝手な割り当てによって不利益を被っていることが問題とされているのです。

この第二の問題からわかることは、千田氏はトランスとは何なのかさえ知らないということではないでしょうか。

第三に、ここでGIDとトランスを区別する、しかもジェンダー観のかなり大きな違いによって区別するということは、千田氏の議論と齟齬をきたすように思います。というのも、千田氏が散々こだわっていた性器の形状は、ここで言うGIDにもトランスにも当てはまる事柄だからです。にもかかわらず、後に千田氏はトランスが第三期ジェンダー観を採用しているという(不当な)前提をもとに、シス女性の空間とトランス女性の空間を分けることを提案しています。この流れだと、GID女性はシス女性と同じトイレ等を使ってもよいが、トランス女性は別にしてほしいという話に思えます。しかし以前の個所では、シス女性のペニスへの恐怖が理由を持っているということを強調し、そのこととシス女性の空間の話をつなげていたのではなかったでしょうか? そしてGID女性でも性別適合手術を受けない限りはペニスは持っているのです。単純にここで挙がっている各主張は全体として整合的でないように思います。


「こうした感覚は、ポスト・フェミニズムの時代と親和的である。男女平等は、現実には達成されていない。[……]しかし、にもかかわらず、男女平等は達成されたという前提で、様々な問題を個人の「選択」や「責任」に帰する時代が、ポスト・フェミニズムである。」

そもそもこの話が議論全体のなかでどういう役割を果たしているのか定かではありませんが、一つ言えるのは、千田氏はトランスに、現実には達成されていない男女平等を達成されたと見なす反動的な立場と親和的なジェンダー観を帰属しているということです。この帰属が根拠を持たず、むしろ事実に反するように思えるということはすでに指摘しました。この不当な帰属の末に、「トランスが採用しているジェンダー観は男女の不平等を保存する」と言われれば、トランスの実際を知らない読者は「トランスとは性差別親和的な反動家だ」と誤認するのではないでしょうか。

もちろん、保守的なトランスはいます。それは保守的なシスが男女にわたって存在しているのと変わりません。けれどもここではそういう個別的な話ではなく、そもそもトランスという発想を可能にするジェンダー観自体が保守と結びつくとされているのです。どうあがいても不当な議論だと思いますが、とはいえそこに目をつぶるとしても、これだけの話をするには、やはりせめてトランスのジェンダー観の個所にきちんと論証が必要だったし、当事者の声を引用すべきだったのではないでしょうか?


「そこでは、男女平等を主張するフェミニストは、自ら「女」というジェンダーアイデンティティを「選択」したにもかかわらず、その結果が気に入らない、不平等だと、「性別」というカテゴリーを改めて持ち出して、自己正当化のためにひとびとを「性別」に押し込めてくるひとたちとすら表象される。俗な言葉でいえば、「男も女もないこの時代に、なぜまだ男だ女だなんてそんな古い言葉にしがみついていて、自分のせいでなく性別のせいだなんて、文句ばかりいっているの?」ということだ。」

この押し付けが不当なのは同意しますが、実のところ、これは千田氏がトランスに押し付けている立場そのものです。第1節の要約で引用した箇所でもありますが、252頁でトランスに対して向けられる千田氏の言葉は以下の通りです。

そもそも多様なセルフ・アイデンティティをみとめるとすれば、「トランス女性が女性トイレを使う権利」と「女性が安全にトイレを使う権利」が対立させられるかのように問題化されること自体が、そもそも奇妙ではないか。自分のアイデンティティがノンバイナリー、Xのひとも、移行中のトランスのひとも、すべてのひとが安全にトイレを使う権利がある。そもそも「女性」というカテゴリーが構築的に作られるのであるとしたら、なぜ旧態依然とした狭い二分法に依拠したカテゴリーである「女性」に、「トランス女性」を包摂するかどうかが問われなければならないのか。なぜ多様性を否定する二元論を持ち出し、その片方に「トランス女性」という存在を押し込めるかどうかが、「排除」の問題として執拗に問われるのか。問題は「二元論の片方にトランス女性を「女性」として認めて入れる」かどうかではなく、トイレの使用の際に、どのようなカテゴリーの線を引きなおすことで、皆が安全だと「感じられる」かどうか、という問題ではないのか。その基準は性別であるかもしれないし、ないかもしれない。そもそも「女性が安全にトイレを使う権利」とともに語られるべき事柄は、「トランス女性が安全にトイレを使う権利」であるべきだ。なぜそこが従来のトイレだとアプリオリに決められているのか。

ここではまさに、自ら選択したにもかかわらずなぜ旧態依然とした男女二分法にこだわり、「女性」にトランス女性を含めろなどと言うのかということが言われています。

繰り返しですが、ここでトランスに帰せられているジェンダー観が実際にトランスのものであることを千田氏はただの一言も正当化せず、何の根拠も挙げていません。そして私は実のところそれは事実に反すると思っています。そのうえで千田氏は、シス女性に向けられたら不当になると自らも判断していると思われる議論を、トランス女性に向けているのです。これが不当であることは、千田氏自身がよくわかっているはずです。

252頁

「トランス女性が「女性」として陸上競技に出るのは、この「テストステロン値」を性別の線引きとしてみなすという、「社会的合意」による。そもそもスポーツにおける線引きは、最初は外性器、それから染色体、そしてそれがさまざまなプライバシーの侵害などの問題を生んだために、今度はホルモン値へと変遷してきたのだ。身体が複雑に構築されているからこそ、私たちは何を「性別」とみなすのかに関する社会的な合意を必要としているのだ。」

話自体は同意しますが、流れはよくわかりません。フォーステーターが生物学的本質主義に接近しているという話から、千田氏はその道を取らないと宣言されたあと、いきなりセメンヤ選手の話が出てきます。しばらく陸上競技の話があったあと、特に接続する文言もないままに後に「トイレに話を戻そう」と述べられるので、何のための個所なのか、トランスでないセメンヤ選手とトランス女性の話にどういった関連性を千田氏が見出しているのかは定かではありません。もちろん、身体的な基準での性別の認定という問題を介してこれらの問題は重なるのですが、千田氏がそこからトランスに関してどういった帰結を引き出そうとしているのか見えないのです。

それはともかくとして、この個所について私が言いたいのは、「それがわかっていながら、なぜ?」です。何を「性別」と見なすのかは社会的合意のもとで決まるのであり、決して身体そのもので決まるのではありません。そして現状、その社会的合意が私たちトランスにそのアイデンティティと反する性別を割り当ててしまう。だから、その合意を修正しましょうと私たちは言っているわけです。けれども千田氏は決してそちらの方向へは足を踏み出しません。スポーツにおける性別の基準が状況に応じて変えられてきたように、トランスが他のひとと同様に暮らせる社会を実現するために性器の形状によって性別を判定するのはやめるようにしていきましょう、とは奇妙にもならないのです。


「もしも自由と多様性の旗印のもと、私たちが皆のセルフ・アイデンティティを尊重するとしたら(実はすべてのひとにとって、その自由の行使はそう容易でもなければ、均等に分配されているわけでもないことは別稿に譲るとして)、私たちが考えるべきことは「どのように皆の安全が守られるのか」という問いになろう。」

ここで唐突にこれまで一度も出てこなかった「セルフ・アイデンティティ」という言葉が登場します。それを略した「セルフID」はフォーステーターの言葉として出てきていますが。「セルフID」という言葉は、トランス当人にとってもまるで自由でないアイデンティティを、さも自由に自称しているかのように語る、トランス排除的な言説でたびたび目にする言葉であると、私としては理解しています。ここで「セルフ・アイデンティティ」は同様に用いられているように見えます。ここまではぎりぎりトランスフォビアの擁護にとどまり、積極的にフォビア的に加担していたわけではないと言えたかもしれませんが、自らこの言葉を使い出したあたりで(厳密にはトランスに不当なジェンダー観を押し付けたところからすでに、だと思いますが)、私は千田氏自身も積極的な加担の側に足を踏み出しているように思います。

また「実はすべてのひとにとって、その自由の行使はそう容易でもなければ、均等に分配されているわけでもないこと」については、はっきり言って、別稿に譲っていただくまでもなく、ほとんどのトランスは身をもって知っています。シス男女のアイデンティティは誰からも疑われることなく気ままに行使されるにも関わらず、私たちはアイデンティティを明示すれば疑われ、それをこのようにわざわざ雑誌上で「自由に選んだセルフ・アイデンティティ」などと事実に反する物言いをされ、自らのアイデンティティの行使に繰り返し否定的な言説が突き付けられます。私から見れば、千田氏のほうこそアイデンティティをめぐる自由がある種の人々にとって得難いこと、その行使が均等に分配されていないことをまったく理解していません。

ここでは「どのように皆の安全が守られるのか」という言葉にも注意すべきです。これは見たところ当たり障りない言葉ですが、ここから後に千田氏は、「女性」と「トランス女性」を区別し、それぞれの安全を守ればいいという話へと展開します。この際に、私たちの女性としてのアイデンティティを毀損して私たちが安心して暮らせないような言説環境を作り出すこと、私たちもまたシス女性も被る性差別や性被害の多くをしばしば被っており、「女性」と「トランス女性」の線引きによってそれが曖昧化され、私たちがさも被害の危険が実際より少ないかのように見なされかねないことなどを考えているようには思えません。ここではトランス女性は単に「女性に値しないもの」として見捨てられ、それによって安全が損なわれたとしても「あとは自分たちでどうにかして」と放置されているといったほうが適切であるように思います。実際、千田氏の議論立てでは、トランス女性はあくまで自分の選択したセルフ・アイデンティティを主張しているだけなのだから、それによる不利益は自己責任となるのでしょう。


「日本では女性の排泄に対して、性的な興味をむける視線があり、プライバシーを守るためのトイレの構造が、その性格上、暴力の温床となり得る。」

唐突に登場する、この一文のみのこの段落の役割は不明確です。しかしこれまでにも何度も「女性」でシス女性のみを指す用法があったために、この個所を読んで「トランス女性もシス女性も暴力を受け得る」という実情に照らして適当な読みではなく、「シス女性は暴力を受け得る」という誤った読みへと誘われる可能性は大いにあるように思います。それにしてもそのこととトランス女性の話が何の関係を持っているのかわかりません。無理やり関係をつけるならトランス女性と「性的な興味をむける視線」の重なりを暗示しているという可能性が思い至りますが、できたらそのような文章を書いていると解釈するよりは(それではあまりに悪質な語り口になってしまいますから)、単に意味のない文を挿入していると解釈したいところです。とはいえ、そのような誤読にいざなわれる読者は存在しうると判断します。

253頁

「そもそも多様なセルフ・アイデンティティをみとめるとすれば、「トランス女性が女性トイレを使う権利」と「女性が安全にトイレを使う権利」が対立させられるかのように問題化されること自体が、そもそも奇妙ではないか。」

それ以上に奇妙なことは、繰り返しですが、「多様なセルフ・アイデンティティをみとめる」という謎の立場です。ノンバイナリーな性別も認めるというのはトランスの多くが採用し、また少なからぬ当事者もいる立場で、多様性はその意味で認められていると思いますが、「セルフ・アイデンティティ」という言葉に込められた「自らの自由で選択するアイデンティティ」という発想は、一般的にはトランスの立場ではないと思います。

「トランス女性が女性トイレを使う権利」と「女性が安全にトイレを使う権利」が対立させられるのは奇妙だというのは同意します。なぜなら私たちが求めているのは後者の「女性が安全にトイレを使う権利」に過ぎないからです。これがおかしい話だと思われるとしたら、それは暗黙の裡に形容抜きの「女性」はシス女性を指すと想定しているためにすぎません。私たちも女性であり、安全を必要としていて、しかしシス女性と同様の性被害や暴力の可能性があるにもかかわらず、シス女性の一部からはときに「男性用トイレを使えばいいではないか」とまで言われているというのが私たちの実態です。もっとも、ここを誇張するつもりはありません。そういう発言を実際に見たことはありますが、それはごくごく一部の過激なトランスフォーブの発言であり、私が女性用トイレを使おうとしたときに追い出そうとしたシス女性というのはひとりもいませんし、私がトランスだと知っている友人たちにも、私が女性用トイレの使用に怯えていたときに「怖いならついていってあげるからちゃんとトイレに行きなさい」などと励ましてくれたひとこそいても、難色を示したひとはいませんでした。

話のついでに言っておきたいのですが、トランスフォーブはTwitter上でこそ目立ちますが、経験上実際に遭遇する機会はまずありません。シス女性の多くは、はるかにもっと柔軟です。それはフェミニストも含め、です。トランスフォビックであると判断される言説には反対しますが、シス女性全体を悪魔化して怖がるような罠に、私たちも陥るべきではありません。


「そもそも「女性」というカテゴリーが構築的に作られるのであるとしたら、なぜ旧態依然とした狭い二分法に依拠したカテゴリーである「女性」に、「トランス女性」を包摂するかどうかが問われなければならないのか。」

繰り返しですが、私たちが自分自身にもどうしようもない仕方で女性だからです。そして女性という区分が社会的同意で作られるからこそ、現にどうしようもなく女性である私たちがほかの女性と同様に安心して暮らせるために、「女性」にトランス女性を含めるようにカテゴリーを拡張してほしいのです。もしまだそのように拡張がなされていないのだとしたら、ですが。実情としては、千田氏の見解に反して実際の社会はそのように「女性」カテゴリーを拡張する方向にすでにだいぶん進んでいるように思えるし、実際私も手術後はもちろん、その前から職場などでは、完全に十分とは言わないまでも、女性として勤務し、トイレなども普通に使わせてもらっていました。二分法はともかくとして、旧態依然としているのは千田氏の女性概念なのではないかと思います(世の中の動きの方がもう少し先進的に思えます)。

ところで「そもそも「女性」というカテゴリーが構築的に作られるのであるとしたら」というのは不思議な言い回しです。というのも、トランスに帰属されていたのは「自分のアイデンティティを自由に構築する」という(誤って帰属された)見解で、「女性というカテゴリーを構築する」などといった話ではなかったからです。女性というカテゴリーがそもそも構築的だというのは、むしろフェミニズムの伝統的な主張、千田氏のジェンダー論の三段階分類でいうと、第一段階でジェンダー概念が提唱されたときからの基本的な主張ではないでしょうか? そのこととこの文の後半の話が私にはつながっているように見えず、困惑します。


「問題は「二元論の片方にトランス女性を「女性」として認めて入れる」かどうかではなく、トイレの使用の際に、どのようなカテゴリーの線を引きなおすことで、皆が安全だと「感じられる」かどうか、という問題ではないのか。その基準は性別であるかもしれないし、ないかもしれない。そもそも「女性が安全にトイレを使う権利」とともに語られるべき事柄は、「トランス女性が安全にトイレを使う権利」であるべきだ。なぜそこが従来の「女性」トイレだとアプリオリに決められているのか。」

ここではさも「皆の安全を考えている」という雰囲気のもとで、トランス女性を男性にも女性にも分類されない「その他」に置いています。私たちの安全は「女性の安全」とは別であると。いえ、千田氏はずっとその立場であり、だからこそ「女性」は多くの個所でもっぱらシス女性を指しているのですが、ここではそれが強く出ています。冒頭に「二元論の片方にトランス女性を「女性」として認めて入れる」かどうかは問題でないと書かれていますが、それは何も不思議ではありません。千田氏はずいぶん前より「女性」でシス女性だけを指していたのですから、その問題は論じるまでもなく千田氏のなかで決着がついているのです。

そしてまたここでは、アイデンティティを認められない空間の脅威というものが考えられていません。トランス女性をシス女性と別仕立てに、「女性」ではなく「トランス女性」として線を引いたうえでその安全を考えればいいと千田氏は考えているようですが、その線引き自体が私たちを毀損すること、またシスに比べてトランスを劣った位置に置くシス/トランス二分法の強化であり、私たちへの差別や暴力、軽侮が強まる可能性などを何一つ考えてはいません。そうした危険性は、問題を他のマイノリティ女性に置き換えて語ったなら明白であるだろうと思います。


「トランス排除について語る座談会では、トランスジェンダーは、「嫌われ」「怖い」と思われ、「存在を認めない」「わけのわからない性の人たち」「気持ち悪く感じてしまう」「存在がわいせつである」という「差別者」の「意識」の結果、トランス排除がおこるという論理が構築されている。」

それはそうだろうと思います。よくわからないのは、千田氏がこれを誤認だと考えているようであることです。この論文ですでに、トランス女性のペニスへシス女性が抱く恐怖には理由があり、それを語るシス女性がいるのは仕方がないといった議論をされている以上、少なくとも「怖い」とは実際に思われていると千田氏も認めていたのではなかったでしょうか? さらに千田氏はトランスを「セルフ・アイデンティティ」などという自己決定されるアイデンティティの持ち主と見なし、「なぜトランス女性を男女二分法の一方である女性に包摂しなければならないのか」という疑問を口にしている以上、既存の男女二分法には収まらず、しかもなぜか自己決定できる奇妙な性のひとだと、自分自身が論じていたのではないでしょうか? そのほかはともかく、この二点は千田氏自身が丁寧にこの論文によって実例となってくれていることです。そのうえで(シス)女性の安全とトランス女性の安全は別個に追及すべきであり、トランス女性の安全の場がなぜ女性用トイレだと決まっているのかという論調は、まさに通常トランス排除と呼ばれる主張そのものとなっています。

本当に奇妙に感じるのですが、千田氏のこの論文そのものがトランス女性のペニスへの「怖い」という気持ちや、トランス女性のアイデンティティを「セルフ・アイデンティティ」などという「わけのわからない性」と見なす立場を根拠にして、シス女性とは別の場所でトランス女性は安全を求めるべきだというトランス排除を主張していて、私にはここで千田氏が疑念を呈している論理の格好の適用例が千田氏自身の議論であるようにしか見えません。これにご自身で気づかないというのが、私には本当にわかりません。

254頁

「トランスに対して差別意識を持っていたら、そもそもトランスの排除という問題自体に関心がなく、この問題を避ける可能性のほうが高い。」

ここも単純に根拠のわからない箇所です。

つまりこの主張によると、排除というトピックを避けず排除の必要性を訴えるひとは、基本的に差別意識を持っていないということなのでしょうか? ここは、本当にわかりません。別の例を挙げると、民族的マイノリティに差別意識を持っていたら、民族的マイノリティを排除しようという問題をそもそも避けるはずということでしょうか? だとしたら、積極的にヘイトスピーチをおこなったりしているひとたちは、問題を避けていないから差別意識を持っていないのでしょうか? 何というか、この個所については、私はただ困惑しました。また結局、千田氏は、ターフと名指された人々は排除をしているという立場なのかそうでないのかどちらなのでしょう? この言い回しからすると、「排除はしていて、しかし差別意識を持っていたらそもそもそんな関心を持たないはずだから、差別意識ではない」という立場に取れますが……。


「なんとかトランス女性を排除しないで自分たちの「安心」の場を得られるか、試行錯誤しているひとの主張を、「差別意識」だけに還元することは弊害の方が多い。」

ここでも困惑します。というのも、千田氏の「排除」は何を意味しているのでしょう? 私の理解する限り、トランスフォビアの、とりわけトランス女性へのフォビアの問題として語られるトランス排除とは、「女性のスペースからのトランス女性の排除」のことです。千田氏が好んで論じるトイレはその典型例でしょう。従って、「トランス女性を排除しないで」はこの文脈では「トランス女性もいままで通り自身の状況に照らしつつうまく女性用トイレを使うものとして」を意味するということが私の、そして多くのトランス当事者やそのサポーターの想定する理解でしょう。けれど、千田氏が主張していたのは、「トランス女性の安全の場がなぜ女性トイレなのか」といったことでした。これを「トランス女性を排除しないで」と述べているとき、いったい千田氏はどこからの排除のことを語っているのでしょう。ここもまた、ただただ困惑する個所です。


「彼女たちが差別意識を持っているということはこのように事実誤認だと思うが、もしも仮に差別意識があったとしても、差別の問題を考える際に、その原因としてことさら「意識」を持ち出し、批判のターゲットとすることは大きな問題を呼び込む。この論理は、差別の解消のためにすべきことは、「差別者」への啓蒙と意識改革と帰結させられる。「ターフ」が気持ちを入れ替えて、差別をやめさえしたら、問題が解決するかのように見えることだ。だからこそ、「ターフ」を探しだして、なんとか啓蒙しようとするのだが、当然、思ったような反応がかえってこなければ、苛立ちは増幅する。」

この個所もひたすら困惑しました。「差別意識があったとしても」差別者への「啓蒙と意識改革」を目指すことは問題だと言っているように読めるのですが、それであっているのでしょうか? そしてその問題は、啓蒙がうまくいかなかったら苛立ちが増幅することだと。metooやkutooの運動もそうだと思いますが、しばしば差別への反対運動は無自覚にも差別を行なう人々の意識改革、啓蒙へと向かうものであるものと私は理解していました。しかし、それは啓蒙がうまくいかないときにいらだってしまうから問題だというのでしょうか? なら私たちは、トランスのみならず、シス女性も含めてこの社会で不利益を被るあらゆる人々は、どう差別に対抗したらいいのでしょうか? 私がフェミニズムに詳しくないために困惑しているだけかもしれませんが、「フェミニズムの現在」と題した特集のもとでこのようなことを言う以上、現在のフェミニズムはこうした思想のもとで営まれている、少なくとも千田氏はそう理解しているのでしょうか?

ここから先はわざわざ取り上げません。そこでは「いらだったトランスたちの攻撃的な活動」がリストアップされています。私がこのことから想起するのは、性差別的なシスヘテロ男性がときに「フェミニズムにつぶされたもの一覧」のようにリストアップするような事柄です。

文脈

私の知るかぎりでの、この論文が現れた文脈です。
社会学者の千田有紀氏によるトランス女性差別を巡る議論 - Togetter

このまとめからあるていどは見て取れるかと思いますが、発端は千田氏がトランスフォビックなTwitterアカウントとトランス当事者やそのサポーターたちの対立を、「マイノリティ同士の対立」とまとめたことに端を発します。後者からすれば「マイノリティ同士の対立」ではなく、マイノリティがそれよりも下位のさらなるマイノリティへと差別的な言動をしているという認識であったため、千田氏の認識の仕方が問題とされました。

ツイートの応酬がなされるなか、千田氏はトランスフォーブとして有名なアカウントの発言を引用したり、唐突に女風呂での男性からの性被害の話をしたりし、そのことがトランス側から問題視されました。アカデミックな側でも、小宮友根氏や清水晶子氏のようい、トランスの権利に積極的に関わっていた研究者たちから疑問の声が上がりましたが、千田氏はその話を打ち切り、「あとは論文で語る」と幕引きをしたのでした。そこで出てきたのが今回の論文だったため、千田氏自身がそのように述べているのかはわかりませんが、関連する多くのひとが、これこそがその論文であると判断し、その内容を心配していたのでした。

私はアカデミックなフェミニズムの研究者ではありません。しかし、せめてトランス当事者としての声を可能な限りあげようと思いました。これがアカデミックな領域でのフェミニストのみなさんのもとへ届き、少しでもトランスをめぐる状況が改善されることを望んでいます。



追記
千田氏の論文の差別性はもはや明らかだと思うのですが、私としては千田氏ご本人にこれを問いただしたいという気持ちは強くありません(悪質でないからではなく、悪質だと思うが千田氏の改心を少しも期待していないからです)。

それよりもこの論文を平然と掲載した青土社現代思想』編集部に、どういうつもりだったのか、トランス差別に対して、あるいはその他のさまざまな差別について会社としてはいったいどういったスタンスを取っているのか、この論文に関してどのような意見でいるのかといったことをきちんと説明してほしいと思っています。

千田氏はただ一人の差別者であるに過ぎませんが、その言葉をさも学術的に価値ある内容であるが如くに世間に放ったのは『現代思想』なのであり、その点ではっきり言って差別に大いに加担する振る舞いをしているというのが私の認識です。実際、『現代思想』に掲載さえされなければ、千田氏は研究者としての身分があるとはいえ、それ以外はせいぜいただのよくいるTwitter上のトランスフォーブでしかなかったはずです。『現代思想』が差別に加担することをよしとする方針でないならば、できるだけ早くこの事態に関して声明を出し、これから読む読者たちに問題点を示して、トランス差別が広まらないように対策をしていただきたいと思います。

これは過大なお願いでしょうか? そうではないと信じています。


追記
上に書いた、こうした差別加担的な文章が載ってしまったことについて『現代思想』側には責任があるのではないかという点はいまも同じ考えですが、ただこの本自体は悪いものではないはずということをお伝えさせてください。おそらく、単に不注意からうっかり載せてしまっただけなのだと、私は思います。

実際この本には鈴木みのりさんの「(トランス)女性の生活の中の音楽」という文章ものっていて、こちらはむしろこれまでまともに響くことも聞き取られることもなかった、日々この街で生活を送っている一人のトランス女性の感じるものを、その生活ごと語り、そのなかで音楽というものがどのように経験され、そして音楽によって感じるものがどう変容していくのかと言ったことを繊細に描いていて、素晴らしい文章となっています。

この記事をご覧になった方、とりわけ『現代思想』を購入したうえでご覧になった方は、ぜひ鈴木さんのそちらの文章もご覧ください。そこで語られているものこそが、リアルな一人のトランス女性の姿です。