ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

声の性別イメージを判定するプログラム

声のことって悩みますよね……

こんにちは。

トランス女子のみなさんは、やっぱり声に悩んでいらっしゃいますか? 意外と私が実際にお会いしたことのあるかたは、もう聞くからに自然な声で、そこまで気にする必要もなさそうなひとが多いのですが、私自身はすっっごく悩みました。というか、いまも悩んでいます。

何せ音域を測定するアプリで調べたら、もとの音域は福山雅治さんを歌うのにちょうどいいとか出たくらいで、私の声って本当に低いんです。軽いストーカー被害? みたいなものを受けて警察に相談したときも「女性と聞いていましたが、本当にご本人ですか?」と確認されてショックを受けたこともあったり……

で、そんな私なので、いまはいちおうつつがなく暮らせて電話でも困ることはほぼなくなったとはいえ、しゃべり方とかでどうにかやっていっているというだけで、フェミニンな声を出すコツの話とかはあんまりできません(教えてほしいくらいです!)。その代わりに、自分の声の聞こえかたをどんなふうに確かめたりしているのかというお話をしたいと思います。

友達や家族に聞いても……。ならロボットに聞いてみよう!

本当に声へのコンプレックスが強くて友達や家族にことあるごとに「私の声、どんなふうに聞こえる?」などと訊きまくる面倒くさいひとになったりも、私はけっこうしてしまいます。でもそんなふうに訊いたところで、それで「普通の女のひとに聞こえるから大丈夫」と言われても、たぶん向こうは心からそう言ってくれているのだろうとは思いつつも、それでも「もしかしたら気を遣ってくれているだけでは……」と疑ったりしてしまいますよね。私はいつもそんなふうに考えて、どうにも自分の声に自信がつきませんでした。

(余談ですが、「大丈夫だよ」と言われたときには納得しきれない私でも、友人の男性などから「セクシーで好き」とか言われたときには嬉しかったし、自信になったりもしたので、トランスの女のひとの声を褒めるときには「普通の女のひとに聞こえる」より、もっと積極的に褒めてあげたほうが喜ばれるかもしれません。)

もう、いっそ、情けも容赦もなく機械的に「あなたの声は女性的です」とか「あなたの声は男性的です」とか言ってくれるロボットがほしい! 家族や友達では優しすぎる! そんなふうに思ったときにたまたま知ったのがこれでした。
What is Your Voice Gender?

これはKory Beckerさんというかたがつくったプログラムで、いろんな男女の声のデータをもとにした機械学習によって男性的な声と女性的な声のパターンを見つけ、新しく与えられた声データをどちらっぽいか判定するというものです。パターン認識というやつですね。確か将棋のAIとかでも使われている技術です。

顔写真だと下のようなサービスがありますが、それともたぶん似た仕組み。(こちらは、私はそんなに使ったことがありませんが……)
https://www.how-old.net/
pictriev, 顔検索エンジン

…と言いつつ、詳しい仕組みは解説を読んでも私にはよくわからないのですけれど、でも使い方は簡単。自分の声をWAVファイルで録音し、このサイトの「Choose WAV File」という表記のすぐ下のボタンからアップロードするだけ。スマホからでもできます。しばらく待っていると下のほうに判定結果が出ます。

たぶん、たとえて言うなら、いくつかの判定人がそれぞれの基準でfemale(女性)かmale(男性)かを選び、そんな判定人たちが会議をして決めた最終結果が大きくfemaleかmaleかで表示されるという感じなんだと思います。そうした判定人や会議にあたるものが人工知能のなかで実現されている。実際に判定を受けると、全体的な印象として女性的か男性的かが大きく表示され、その下に細かな要素ごとの性別イメージが記載されます。

Beckerさんは、どうもご自身もトランスの女のかたらしくて、だからきっと遊びでもなんでもなく本気でつくってくれていると思います。

あくまで目安です

こんな便利なプログラムですが、ただあくまで目安、くらいに思っておいたほうがいいかもしれません。というのも、実際にどんなデータを使って学習させたのかわからないのですが、Beckerさんが英語圏のかたみたいなので、たぶん英語を話すひとのデータではないかと思うんですよね。

で、映画とかを見ていると思うのですが、英語を話すときと日本語を話すときって、どうも声の高さとか強さとか、だいぶん違いますよね。だから英語と日本語だと、声の質と性別イメージももしかしたらずれるかもしれません。

それにあくまでプログラムがパターンをもとに判定しているだけなので、人間の認識とずれる可能性もないとは言えないように思います。

ですので、もし「男性」と出てきてもあまり深刻に受け止める必要はないのではないかなと思います(私もわりとよく出ます)。ただそれでも、こういうふうにわかりやすく結果が出るものがあったら、「もっと練習しよう」とモチベーションが上がったり、「試しにこんな声の出しかたをしよう」といろいろ実験できたりということはあるかと思いますので、それぞれでうまい使いかたを見出していただけたらと思います。

あ、使ううえでの注意点がひとつあります。それは大きなデータは読み込めないということ。音質にもよると思うのですが、私はだいたい20秒くらいの録音データを使っていました。アップロードしてみてエラーが出たときには、ファイルサイズを小さくしてみてください。

あとこのプログラムはあくまでBeckerさんの好意で公開されているというだけのはずなので、企業のサービスなどとは違って、いつどんな事情でどんなふうに公開が取りやめになるかわかりません。その点もご了承ください。

最後に声について、スーパー低音な私からでもできるアドバイス、というほどたいそうなものではないですが、実生活上の経験から感じたことをちょこっと挙げておきます。

  • 裏声やがんばって出すような声は、違和感のほうが強くなりがち。
  • ぼそぼそしゃべると響きが余計に重たくなるので、はきはき堂々としゃべったほうがいい。
  • 無理して喉を締めたりするくらいなら、高さを目指しすぎないほうが自然な声に近づけそう。
  • 世の中の多くのひとは思いのほか他人の声なんて気にしていない。

ぜんぜんフェミニンな声ではない私でも普通にやっていけているので、意外とわりとどうとでもなる気がします。

漫画紹介 たかせうみ『カノジョになりたい君と僕』

女の子として生きたい子とそんな彼女に恋をする女の子

たかせうみさんの漫画『カノジョになりたい君と僕』は、GAMMA! というサイトで連載されているウェブ漫画。まだ連載中です。
https://ganma.jp/kanoboku

現在書籍版も二巻まで発売されています。

カノジョになりたい君と僕 1 (1) (アース・スターコミックス)

カノジョになりたい君と僕 1 (1) (アース・スターコミックス)

ネタバレも含みますので、気になるかたはまず読んでみてからご覧ください。

この漫画では、主にアキラちゃんとヒメちゃんという二人の人物を中心とした物語が展開されています。

アキラちゃんはずっと男の子として育てられ、暮らしてきましたが、本当はずっと女の子として生きたいと思っていました。その気持ちを最初に打ち明けた相手が幼馴染のヒメちゃん。これまではヒメちゃんの前でだけ女の子として暮らしていましたが、高校に入学するのを境に、女子用の学生服を着て、女子生徒として登校しようとします。その一方でヒメちゃんは昔からアキラちゃんに恋心を抱いていて、けれどその気持ちとアキラちゃんを女の子として認識するということとのあいだに矛盾を感じて葛藤しているのでした。

パスしない外見のトランスヒロイン

アキラちゃんは、漫画で見ているとほんわかした絵柄もあって、とっても可愛くて素敵な女の子なんです。ですが、背は高く、親に髪を伸ばすことを許されないために髪も短く、骨格もけっこうしっかりしたかたちで描かれている。作中でも、だいたい見るひとにトランスであることがバレていて、学校側は事情を聞いて配慮しているものの、生徒のあいだでは噂になっていたりするし、からかわれたりもします。

その様子がとても現実味があって、だからこそそんなアキラちゃんを支えようとする周りの友達たちと、そうした友達に向けるアキラちゃんの愛がとても優しく感じられます。

転校初日に心ない言葉をぶつけられて落ち込むアキラちゃんの力になろうと、学ラン姿で登校することを選ぶヒメちゃんの力強さもすごい。おどおどと大人しいアキラちゃんに代わっていろんなひとにぶつかっていくのですが、このアンバランスな友情もだんだんと重要なテーマになってきていて、きっとこれからそのあたりが語られていくことになるのだろうと思います。

体格がしっかりしているアキラちゃんがなかなか普通の女の子扱いをされず、ほかの女の子たちが体力のいらない仕事をするなかひとり力仕事を任されて、ひとの見ていないところで泣き出す場面とか、私も身に覚えがありすぎて一緒になって泣きそうになってしまいました。

ほかの女の子への妬み

この漫画でいま読んだ範囲(この記事執筆時には25話まで)でいちばん強烈だと感じたシーンは、ヒメちゃんが学ランを脱いで、女子用の制服で登校する場面でした。

アキラちゃんが憧れている先輩がヒメちゃんを「かわいい」と褒めるのを見て、アキラちゃんはショックを受け、学ランを脱ぐだけで褒められて羨ましいと嫌味を言ってしまいます。他方でヒメちゃんはそういう扱いを好んでいない子なんですよね。このもやもやは、私も日常的に感じています。

知識として、男性から可愛い女の子扱いをされるのが苦手だという女性がいるのはよくわかっているし、周りにも実際にそういうひとがたくさんいます。でもどうしても、ただただ「女の子扱い」を求めて手間もお金もかけてひたすら努力して、それでもなおなかなかそこに到達できない身としては、どうしようもなく羨望と妬みを抱いてしまうんです。普通にいるだけで女性扱いされるなんて羨ましい、ずるい、私はこんなにがんばっているのに…、と。

これはもちろん、相手にぶつけるには不当な八つ当たりなんですよね。そんなことはよくわかっている、でもこの気持ちから逃れられない。もしかしたら、私にとって自分のトランス性の根幹にはこうした気持ちがあるのではないかと思えるくらいに、これは本当に拭い去りがたい気持ちです。(いつかこんな気持ちもなくなればいいのですが…)

けれど男性にそんなこと言われたくもないし、そもそもほかの誰でもなくアキラちゃんに恋をするヒメちゃんからすると、当のアキラちゃんにそんな嫉妬を向けられるのって、何重にも苦しいことですよね。

そういうもやもやを、『カノジョになりたい君と僕』は、目をそらさずに描いている。それがすごいと思います。

爽やかな青春の物語

こんなふうに書くとどろどろと疲れるお話に響くかもしれませんが、『カノジョになりたい君と僕』を覆っているのは、むしろ優しくて爽やかな空気です。登場人物たちはみな可愛らしく、互いを思いやり、いろんなどうしようもない気持ちを抱え込みつつも、どうにかともにやっていこうとがんばる。その様子が本当に微笑ましく、すごく青春の物語なんですよね。

アキラちゃんだけでなく、ヒメちゃんやそれ以外の人々も、自分自身のアイデンティティを形成していこうとする。その様子もまた、青春の物語という雰囲気を強めます。

面白く、爽やかで、そして切ない。おすすめの漫画です。続きも楽しみにしています。

映画紹介『Girl』(2018)

バレエダンサーを目指すトランスの少女の物語

ルーカス・ドン監督作、オランダとベルギーの合作。

映画「Girl/ガール」公式サイト 2019年7/5公開

日本では2019年に公開され、この記事を書いている現在もわずかながら公開中の映画館があります。

第71回カンヌ映画祭にてカメラ・ドールとクィア・パルムを受賞したとのこと。カメラ・ドールはわかりますが、クィア・パルムというのはこの情報を調べていて初めて知りました。2010年からあるみたいで、『わたしはロランス』、『キャロル』、『BPM』などの有名な作品が取っているみたい。

バレエダンサーを目指して努力し、そして自分自身の体の形状に苦しみ続ける少女を描くこの作品は、実在のダンサーであるノラ・モンスクールさんをモデルにし、また監督とモンスクールさんのあいだでの密なコミュニケーションのもとで製作されたそうです。批評家からは概ね高評価である反面で、トランスやクィアの批評家からは批判的な意見もあるとのこと。

いろいろな意見があるのも承知のうえで、私はこの映画が大好きです。今年はいまのところ旧作も含めると50本弱の映画を見ていますが、そのなかでいちばん好きかもしれません。

この記事では、映画『Girl』の概要と、私が魅力を感じた点、あと最後に軽くこの映画が引き起こした議論について私なりに思ったことをお話しします。

 

あらすじ

バレエダンサーを目指す15歳のトランスの少女ララ(ヴィクトール・ポルスター)。お父さんと弟と三人で暮らしながら、有名なバレエ学校に進学することになります。バレエを始めた時期の遅さから先生からは不安の声が上がるものの、全体のレッスンのほかに体に鞭打つようにして個人レッスンも受け、努力するララは、次第に認められていくようになります。

その一方で、ララは自分の変わった体への苦悩を抱き続けます。第二次性徴を投薬で抑制しているものの、ペニスへの嫌悪感を拭い去ることができない。お父さんや病院の先生からは「その体のままでももうすでに素敵な女の子なんだよ」と諭されるものの、ホルモン治療や性別適合手術を望み、そうしないと自分が女の子だとは思えないと語り、普段はテーピング(と字幕にありましたが、いわゆる「タック」、ペニスや睾丸を無理やり押さえ込んで目立たなくする手法のことかなと思いました)で体つきを矯正しています。

自らを追い込むような練習、体つきを気にしての食事量の減少などが徐々にララを衰弱させ、よりいっそう追い詰めていく。衰弱すればするほど医者は性別適合手術に難色を示すようになり、悪循環に陥ってしまう。その果てにララは、ある重大な決断をすることになります。

 

理解のある社会にそれでも残る苦悩

この映画で印象的だったのは、ベルギー(が舞台だと思うのですが、勘違いだったらごめんなさい)におけるトランスへの理解や受容の度合いが日本とはぜんぜん違うように見えたこと。上でも書きましたが、どうしても自分の体が女性の体だとは思えないというララに、お医者さんやお父さんが「その体のままだも素敵な女の子じゃないか」と語りかける。それって少なくとも私自身は治療の過程では、特にシスのひとからは言ってもらったことがない言葉で、いろいろな経験の末にようやく自分から「どんな体であれ女性は女性なんだ」と考え、言えるようになったという感じで、だから「そんなふうに普通に語られる世の中ってすごいな」と感心しました。それにバレエ学校でも女子生徒として入学を認め、更衣室なども普通に使わせていて、「社会的な受容」というあたりでは日本よりすごく進んでいるという印象でした。

もちろん、眉をひそめたくなるような出来事やひどい行為もあるんです。バレエ学校の先生がララに目を閉じさせて、ほかの生徒に「ララを女子生徒として受け入れることに反対のひとはいますか?」といった趣旨の問いかけをする場面がある。あれって先生側からしたらトランスの子も受け入れ、シスの子にも配慮して、と当たり障りのない対応のつもりなのでしょうけれど、大勢のひとのなかでひとりだけ名指しで「この子を女の子として受け入れられる?」と問いかけられるのって、ちょっと胃が痛くなるような話ですよね。そもそも受け入れるも受け入れないもなく、ララはもともと女の子なのに、何の権利があってほかのひとがそんなことを決めるのかとも思いますし。

それにバレエ学校の子たちもなかなかひどくて、本人たちは悪気がないのかもしれないけれど、自分の体を嫌ってシャワーも浴びずにこっそり着替えるララに向かって「シャワー浴びなよ」と平気で言ったり、合宿では「私たちの裸を普段見てるんだから、あなたも見せてよ。女同士なら見せられるでしょ?」と迫ったりする。シスとトランスを同等に扱うことって、必ずしも体について同じように扱うことではないはずなんです。というか、シスのひと同士だって体にコンプレックスがあるひとに、ことさらにそれを見せるように言ったりするのって侮蔑的ですよね。それと同じで、自分の体に苦悩しているララに向かってそういうふうに言うのって、当人の意図はわかりませんがひどく侮蔑的で、そしてそうした言葉を向けられたときのララの表情も見ているだけで胃が締め付けられるようになりました。

そんなことはありつつも、でも日本と比べるとまだ社会的な障壁は少ないらしいベルギー。さらにララはいわゆるpassableな外見や声で、トランスのひとを見慣れていてたぶん多くのひとよりすぐに気づく私から見ても、街で見かけたらシスの女の子だと思いそうな雰囲気なんですよね。演じているのがシスの男性であるというのに驚いてしまったくらい。なのでこの映画では、社会は(差別的な目は残しつつも)概ねララが女性として生きる道が整っていて、しかもララ自身もまた周りから普通の女の子にしか見えないような姿をしている。でも、それでもララは苦しみ続けるんです。

あとで述べるように批判もあるポイントですが、この映画では繰り返し、強迫的なまでにララのペニスが注目されます。ララは周りに心配され、止められても、テープで隠すことをやめない。テープを貼ったり剥がしたりするシーンが何度も反復され、テープに覆われていないペニスからララが顔を背ける様子も繰り返される。ララにとって、性別違和はおそらく何よりも体への拒絶感なんです。だから、社会でそれなりにやっていく目処が立っていたとしても、その体がある限りララは自分自身を受け入れられない。社会がララを受け入れない以上に、はるかにララ自身がララを受け入れていないんです。トランス映画では性別移行そのものか、もしくは世間からの偏見といったものが焦点になりやすく思うのですが、この映画のララはすでに女性としての生活を確立していて、しかも世間の態度は比較的穏やかなものとなっていて、そうした語られがちな困難についてはずいぶん薄まっているはず。それでも、それだけではララは救われない、その痛みがすべての画面に溢れているような映画となっています。

この描き方が、私には強烈に響きました。トランスの当事者には、性別違和を主に社会の問題だと感じるひとからそれを主に体の問題と感じるひとまでのあいだで、グラデーション的にさまざまな感じかたのひとが存在しています。ひとによっては、「社会の偏見が問題なのであって、それが解消されれば治療や手術なんてしないで堂々と元の体のまま自分の性別で暮らせるのだ」と言うひともいます。ですが私自身はそうではなく、むしろ「戸籍変更の要件から手術が取り除かれたとしても、世の中のひとが『元の体でもちゃんと女性だ』と言ってくれたとしても、私は体を鏡で見るたびに嫌悪感を抱いていただろうし、結局は手術を受けただろうな」という側です。だから、ララの苦しみかたは、私にはどうしようもないほどにリアルに感じられました。

ララが自分の体を大事にしていないみたいに無茶なトレーニングをしたり、途中でピアスを開けたりしているのも、私にはなんとなくわかるように感じました。ピアスは私も性別移行前に開けていましたし、私の場合はダンスやスポーツに打ち込むといった方向ではないですが、昔から自分の体は粗末に扱っていたというか、「この体が私の最大の敵」という感覚が強かったから、痛めつけてやると少しだけ気が楽になれたような気がしたんですよね。無茶な飲み方をして気分が悪くなったりすると少しだけ気が晴れたり。私にとってはそれこそが性別違和の経験の核だったから、この映画を見たときに「ああ、私のあの苦痛を描いてくれている!」と感動できたし、あの痛みを知らないひとたちにぜひ見て、感じ取ってほしいとも思いました。

 

賛否の声

詳しく情報を追っているわけではないのでWikipediaで紹介されているようなものを軽く読んだだけなのですが、この映画にはいくつかの重大な批判も出たそうです。

ひとつはもちろん、主演がシスの俳優であること。『タンジェリン』や『ナチュラル・ウーマン』、さらには『サタデー・ナイト・チャーチ』やドラマ『Pose』と、トランスの人物はトランスの俳優が演じるという流れが強まっているなか、トランスの女の子をシスの男性が演じるというのには疑問の声があったようです。私はそこまでこだわらないほうですが、もしトランスの俳優が出ていたらさらに嬉しかったかなとは思いました。

もしかしたら役柄のために演じられる俳優も限定されていたというところがあるかもしれませんね。10代の女の子で、しかも激しく踊るシーンやバレエのレッスンのシーンがあり、第二次性徴前の体つきをしている。この設定をみんな叶えようとするとトランス/シスを問わずほとんど俳優さんが残らないのではないでしょうか。ただ、10代を演じられるようなトランスの俳優だとか、ダンスシーンを演じられるトランスの俳優だとかが見つからないのって、背後にはトランスのひとたちがシスのひとに比べて俳優やダンサーといった業界に進出しにくいという事情がきっとあると思うので、いつかそれが解消され、当たり前のようにトランス俳優が候補としてなを連ねるというふうになってくれたらいいですよね。

それ以外の批判としては、この映画がララのペニスに執拗に焦点を当てているということに関するものがあったようです。性別違和の問題を身体の問題に極限しているとか、そうした関心の持ち方がシス男性的だとか。

ただこのあたりはモデルになったモンスクールさんも「でもこれこそが私の経験なのだ」という趣旨の反論をしているようなのですが、トランスの当事者のなかでもたぶん感覚がわかれるところなんですよね。私は、ララと同じように、まさに何よりもまず身体の問題、ペニスへの強烈な嫌悪感として性別違和を経験していて、手術を受ける前は本当に毎日毎日自分のペニスのことで頭がいっぱいだったりしました。お風呂に入るとき、着替えるとき、どうしてもそれが目に入り、気になりだすと「こんな体でどうやって生きていったらいいんだろう」と落ち込んでしまい、どうにか目立たないようにしようとする。そんな私にとっては、実際の経験がまさにあんな感じだったという感覚が強くて、どうしても「性別違和って確かにこんな感じだよね」と思ってしまうんです。ただこれは一部のひとの感じかたであって、トランスのひとがみなそういうふうに感じているわけではありません。体そのものに嫌悪感を持っているわけではなく、この体を認めない社会こそが困難の中心なのだと感じているひとにとっては、もしかするとほとんど偏見の塊のような作品に見えるかもしれません。

だから、私と同じような感じかたをしているトランスのひとにとっては、いわゆる「刺さる」映画だと思います。でも私みたいな感覚がピンとこないトランスのひとにとっては、むしろ不愉快かもしれません。このあたりは、たくさんの種類の映画が出てきて、どういうふうにトランスとしての経験を受け取っているひとにとっても、なんらかの「自分を描いた映画」が見つかるようになるといいですよね。

そんなわけで、シスのひとには、「私からすると『ララは私だ』と思えるくらいにリアルだったけど、でも『こんなのぜんぜん違う』と感じるトランスのひともいるので、あくまで『こう感じているひともいる』くらいに見てください」というところかなと思います。

 

とにかく美しい

いろんな意見はある映画ですが、それでも単にトランスを描いているというだけでなく、とにかく美しくて、単純に映画として魅力的なので、ぜひいろんなかたに見ていただきたいです。

わざと手ブレを残したカメラで青春らしい不安定なみずみずしさを醸し出すレッスンシーン、幼い弟を抱きしめ、優しく面倒を見るララの姿、そしてはじめての、見ていて微笑みたくなるような(でも、だからこそ苦しい)恋、お父さんの優しさ、多くを語らず苦しみを抱え込むララの表情。私みたいに自分の経験に照らして共感するというのは、シスのひとには特にですけど、なかなか難しいかもしれません。でもそういうものを抜きにしてもこの映画の美しさと、だからこそ際立つ痛みは、きっとスクリーンから伝わるはず。そして、もし可能なら、もしかしたら普段何気なくすれ違っている人々のなかにも、その痛みを抱えているひとがいるのかもしれないと思いを馳せてもらえたら、とても嬉しいです。

ご挨拶

北村先生のご著書に私が覚えた違和感について、多くのリアクションをいただきました。特に当事者の方からの共感の声や、非当事者の方からの「こんなふうに感じていたなんて初めて知った」といった声に、どう語ったらいいのか自分でもわからないままにがんばって文章にしてみたという努力が報われたように思います。

もともとこのブログは、北村先生のご本についてのお話だけをするつもりでつくったもので、過去の記事にもそのように書いておりました。

ですがだんだんと、私自身ももっとトランスの人々を描く素敵な作品の話をしたい、日常で起きた嬉しいことや悲しいことの話もしたいという気持ちが湧くようになりました。日常的にオープンにしていないためにそうした話をする相手が少ないという事情もあります。

ですので、今後はたまに当事者のひとりとして気に入っている作品の紹介をしたり、トランスとして生きていくうえで感じること(埋没派でそこそこパスしている身でもどうしても感じることがいろいろあります)のお話をしたりする場所にさせていただけたらと思います。もし興味がおありの方がいらしたら、今後もよろしくお願いいたします。

あ、それとツイッター上で「名前らしい名前がないから呼びづらい」といったご意見をお見かけしました。それもそうだと思いましたので、今後は「ゆな」と名乗ることにいたします。

北村先生の応答を受けて

今朝方に通知が来まして、北村先生が先日の記事に言及しながらブログ上で応答してくださったそうです。

https://saebou.hatenablog.com/entry/2019/07/16/075455


まず、私がほんの少し前に書いたたったひとつのブログ記事に気づき、それを読み、さらにはそれに応えてくださった北村先生の誠実さに、感謝と尊敬の念を捧げさせてください。ありがとうございます。

また私の誤読や誤解については、拝読した状況が状況なので、その通りなのだろうと思いますし、これらについては私の責任です。


ただ少しだけ気になるのが、幾人かのトランスのひとの評をあげて「トランスでもこのように批判している」という趣旨のことをおっしゃっておられますが、もちろんそういうことはあるだろうと思います。ただ私の記事のなかでもそのように書いているかと思いますが、トランスのなかでの多様性はかなり大きく(国内のSNSなどでもGID概念へのコミットメントが強い当事者とそうでない当事者で互いに互いの無理解を批判しあったりしていますし、そうした異なる陣営はフィクション作品に関する評価にも大きく食い違いがちです)、あるタイプのトランスがそのように批判的に見ているから、別のタイプのトランスの経験も掬い取れていないということは基本的には言えないかと思います(実のところ私には、それがこちらが女性としての経験を語ったときに、「でもこちらの言い分と同じことを言う女性だっているではないか」と別の女性の発言を引き合いに出す男性と、どれだけ違う身振りなのかわからないのです)。前の記事で紹介している『Girl』も、性別の問題を体の問題に極限していると批判する当事者に対し、モデルとなった別の当事者が「しかし、あれは私の経験そのものなのだ」と応答するという一幕があったと聞きます。「その映画は現に誰かの経験を掬い取っているのではないか、そしてそのひとはその言葉を必要としているのではないか、既存の批評的な観点から評価する前に、まずこれまで語られてこなかった経験を語るものとしてのその意義をきちんと示してほしい」それが、私の思いです。そうでもしないと、批判を受けるような映画でしか掬い取れないような経験を現にしているトランスには、声が失われてしまいます。

またステレオタイプに関して、あのようにしょうもない(と私も思いますが)ひとであれ、そしてそれが暴力的な仕方であれ、異性愛(あるいは少なくとも両性愛)の男性に求められるというのは、異性愛者でありトランスである私からすると、間違いなくその機会があれば実際に心から、喜んで求めるものである、と言って良いと思います。それは他のステレオタイプを切実に求める気持ちの延長線上に、現実的にある願望であり、また脅威です(この傾向は私自身もしばしば友人から気をつけるように注意されていますが)。映画で描かれている彼女たちがそうしたものに惹かれるというのも、単にステレオティピカルな表現であるというより、私たちが持つまさにそのような痛々しい傾向を描き出してくれているものだと私は感じました。そしてそのように映画製作者に目を向けてもらえることに、私のようなひとが生きていると知っている視点が存在することに、少なくとも私は勇気を得ます。その意味において、そうした映画もまたエンカレッジングたりえます。私たちのそうした弱く痛々しい姿でさえ。それを語る物語が少なすぎるいまの社会では。


これまで語ってきたような点で、少なくとも私のようなタイプのトランスは疑いもなく「保守的」です。長い髪やスカートを好むだけでなく、男性への好みなどもひっくるめて。ここには、もしかしたら私の側の、ひとつの混同があるのかもしれません。少なくとも私やそれに似たタイプのトランスの人々は、そのひと自身の傾向として「保守性」を持っており、それはしかも以前の記事で述べたような人生の経路からして、ほとんど不可避的とも思える仕方で「持たざるをえない」ものとなっています。それはそうしたタイプのトランスにとって、生きることそのものと、アイデンティティ形成それ自体と結びついているのです。もちろんそれを「保守性」と呼ばれることに抵抗はあります。むしろ私は、そうした「保守性」を私に認めない人々や社会の保守性に抗い続けて生きてきたのですから(こうした観点からすれば、保守的か進歩的かの二分法は、等しく「保守的」と呼ばれるひとのあいだの、具体的には保守的なマジョリティと「保守的」なマイノリティの背後にあるこうした違いを無視するものと感じられます)。ともあれ、そうした人物を描くなら、その表現はどうしたって「保守的」にはなるだろうと思います。問題はそれが、描かれている対象はそうではないはずなのに(そうではない面が重要な点で大きいのに)単に保守的な表現であるのか、あるいは描かれる側の人物の切実な生き方としての「保守性の希求」を描いたがゆえの結果なのかということです。

たぶん北村先生は、作品の表現としての保守性を批判しているのではないかと思います。他方で自身のそうしたどうしようもない「保守性」に自覚的であり、しかもそれをトランス性と切り離しがたい仕方で経験している私は、そのような作品を見てむしろ「私が描かれている、私は確かにこういうことをする、こういうふうに行動する、こういう男性に引っかかる可能性も生々しく想像できる」と感じます。そして、それがほかの作品にはないこうしたトランス映画の、少なくとも私から見た重要な価値なのだと。言い換えるなら、表現の問題なのか、現実の生の問題なのか。私は、なかなか描かれることのない生き方をしてきたトランスの一人として、トランス映画に対して後者を大きく見ています。(もちろんトランスの描き方が何の知識も踏まえていなくてだめだろうという作品もたくさんあり、そうした場合は「不適切な表現」だと判断しますが)


もしかしたら私は、(身勝手な話ですが)現在の社会においてトランス映画を社会的な望ましさみたいな観点から批評されることそのものに違和感を覚えているのかもしれません。私にとって重要なのは、そこに現実に生きるなんらかのトランスのひとの経験とリンクするものがあるかどうか、言い換えると、その映画のなかに確かにトランスの人物が生きているかどうかです。私は映画批評というものをわかっていないので、もしかしたらそもそも批評というのはそうしたものに関わるものではないのかもしれませんが(だとしたら端的に言って映画批評はそもそも私の人生とは大して関係がないのでしょう)、いまようやく広まりつつあるトランス映画について語るなら、その観点から、どんなひとの、どんな経験がここに語られているのかという観点から見てほしいと思うのです。あるいは、さらによく経験を捉えるにはどうしたらいいのか。そうした経験の参照や経験への想像なしに与えられる批評は、私には私たちのなまの生き様を重要でないものとして脇に置いているように感じられるのです。そしてそれを私は、シスのひとがまたトランスとしての生き方を無視している、と認識せざるをえないのです。(いいことなのが悪いことなのかはともかく、トランスの批評家がトランス映画を評するときには、私はそうした感じ方をしません。その批評そのものに、私とは異なるそのひとにとってのトランスの経験が結びついているのをしばしば見出せるからです)


私が北村先生のトランス映画に関する評をざっと読んで(すでに述べたように、本当にざっと読んだのみです)、ショックを受けたあとにひとりの友人に最初に送ったLINEは、「こんな本を読んだのだけど、このかたはトランスの友達とか知り合いとかは周りにいないのかな…」でした。おそらく、(これは応答を受けたうえで思ったことなので先の記事と整合的な話になるのかはわかりませんが)私がもっともショックだったのは、トランスの経験、トランスのひとの生き方、人生というものへの視点の欠如だったのではないかと思います。最終的に「保守性」を批判するならそれはそれでいい、でも単に表現の問題ではなく、この世界の現実にそう生きざるを得ないトランスのひとの存在、そうなるに至る心理、なかなか語られることのないそうした生のありようがスクリーンに乗せられることへの感情、そうしたものへの視点がすっぽり抜けているように見えて、それがシス目線に感じられたのだと思います。実際いただいた応答でも、私の経験に関しては単に「語ってくれてありがとうございます」くらいに触れられているだけに見えたのですが、それこそがいちばん重要なのです。私たちの経験と、それとどうしようもなく結びついたものとしての「保守性」が。

実のところ、その「保守性」が自身の経験やアイデンティティと固く結びついているがゆえに、そしてそれが言及されていた映画にうまくあらわされているがゆえに、表現の保守性に対する批判が結果的に私自身や似た人々の経験やアイデンティティの拒絶に感じられたのでしょう。この点は私の混同なのかもしれません。ですが、マイノリティを描く作品をマジョリティのかたが語るとき、マイノリティの生のありようを生身では知らずに批評することになる以上、その危険性は(トランスの場合に限らず)常にあるのではないでしょうか。それが、マジョリティがマイノリティ映画の「保守性」やその他の不十分な点を批判するときの、どうしようもなくつきまとう危険であり、常に意識しなければならない罠なのではないでしょうか。それに実際、私は応答をしていただいたいまなお(あるいはいっそう)、北村先生は言及されていた作品だけでなく、私やそれに似たひとのような生き方や価値観、アイデンティティ形成の仕方そのものにも結局のところ否定的なのではないか(少なくともそうしたニュアンスを残しているのではないか)という疑念を持っています。またあの本を読んだひとが現実に「保守的」なトランスに出会ったとき、それを否定的に評価することにいくらかの理由を与えるような書き方になってはいないでしょうか? もしそうした書き方になっているなら、それは少なくともある種のトランスに対して否定的な感情を煽るものと言ってもいいのではないでしょうか? 重要なのは映画そのものというより、現に「保守的」でありそうならざるをえないトランスが存在しているということ、そしてそうした人々に対してあの本が示唆する見方なのだと思います。

あるいはこう言ってもよいかもしれません、映画に対するその否定的評価が、その映画に自らの姿を見出すタイプのトランス女性の生き方への否定的評価までも含意する可能性を考え、その可能性をきちんと排除して語っていましたか? と。なされていたのかもしれません。でも私がざっと読んだとき、私はそこに私自身にまで波及する否定的評価を感じ取りました。問題は映画そのものというより、そのことなのです。

表現そのものと表現されるものをきれいに分けることはできないでしょうが、もし「保守的」なトランスの生き方を否定するような考えを示唆しているのでないのならば、そこは区別がつくように、しているのは純粋に表現の話であり、私や私に似たトランスたちがこのように、あるいは語られていた映画のなかで描かれるように生きることそのものは肯定されると示す、あるいは少なくともそこには価値評価が及ばないようにするという形を取っていただけていたら、と感じます。


ナチュラル」という言葉についてのお考えはわかるように思います。ただそれなら『ナチュラル・ウーマン』の主人公を語るうえで不適切(という語り方だったと思うのですが)ではなく、シスもトランスも関係なく誰に対しても女性に「ナチュラル」と形容することは不適切だから、ということを真っ先に上げてほしかったように思います。例えば同名の日本の小説や、同名の歌についても同様だと。それにそれが理由なのであればそれは一般的な話であって(女性にナチュラルもアンナチュラルもないから「ナチュラル・ウーマン」はよくない)、マリーナの作中での扱いなどについてはあの文脈で触れる必要はそもそもなかったのではないでしょうか? 

私自身はトランス女性を「自然な女性」だし、「生物学的女性」と呼びますが、これは結果的に自然な女性や生物学的な女性の条件にトランス女性も満たせるものしか入れないようにするということなので、結果的に出てくる認識は、おそらく北村先生と大差ないように思います。妊娠や出産に関する機能はもちろん、性器の形状もXX染色体を持つか否かも、私は自然な女性であるかどうかとは関係ないと考えています。要するに私にとって「自然な女性」は単に「女性」と同義で、そこに生物学的決定論の側面は入り込まないよう徹底されており、ただあえてそれを「自然な」と呼ぶことを許すことで、「『自然な』という形容詞自体を使わないようにすることで、胸のうちで、あるいは暗黙の仕方でそれを一部の女性用の特別な、語られざる形容詞として保存する」という可能性に明示的に抗っているというだけです。そのように「語らずして確保する」ことさえ許す気はない、と。私が『ナチュラル・ウーマン』に見出したのもその方向の思想です。

個人的な意見としては、これは北村先生の採用する立場よりももっとラディカルな考えなのではないかとも考えています。実際、北村先生が「自然」という言葉に抱いているであろう懸念は、私を、あるいはマリーナを「自然な女性」と呼ぶとき、おそらくすでに解消されているでしょう。性染色体がXYで、ヴァギナも少なくとも生まれたときには持たず、子宮もなく、生理も妊娠もない私たちに対して「自然」を使うとき、懸念されていた「自然な女性」の好ましくない含意の何が残っているでしょうか? むしろそれらはすべて晴らされることになり、残るとしたら「しかしそれを『自然』と呼ぶのに違和感がある」くらいの話ではないでしょうか? これはトランス女性を「自然な女性」と呼ぶことから即座に出てくる含意です。むしろ私としては、「自然性」が持つ好ましくない含意を徹底して打ち消すためにこそ、私たちをきっぱりと「自然な女性」と呼べばいいのに、とさえ思います(もちろんこれは、シスとトランスに本質的な身体的ないし生理学的な差が存在するという見解のひとであれば、取れない立場でしょうが)。トランス女性も「自然な女性」と呼ぶその用法ならば、体や機能や形状がどうあれ、シス女性もすべて「自然な女性」と呼ばれることになるでしょう。ですので、マリーナを「自然な女性」と呼ぶことへの拒絶の理由としては、一部の女性を特権視し、他を抑圧するような好ましくない含意というのは、本当ならまるで理由にはならないのではないかと思います。あの邦題に私が見出す思想は、どんな体をしていようと、シスだろうとトランスだろうと、あらゆる女性は「ナチュラル・ウーマン」であり、不自然な女性なんて存在し得ないというものなのです。実のところトランス女性を主人公とし、あれだけ差別され、暴力にさらされる物語の邦題をあえてこうすることの狙いとして、いったいほかに何が考えられるでしょうか? それが私の認識です。


北村先生が丁寧に応答してくださったおかげで、私自身にも私が気にしていたことの核が見えてきたように思います。それは取り上げられている映画の評価以上に、批判を受けているその映画で描かれているように(それゆえ批判されているような表現で確かに正しく捉えられる仕方で)現に生きているトランス女性の存在が、そうした人々のそこに至る経験や人生とともに無視されているのではないかということのようです。なので、映画の評価としては仮に批評家たちのあいだで一般的に受け入れられるものであったとしても、それを現にそうした作品を自分たちの物語だと思っているトランス女性たちと丁寧に切り離すことなく論じたならば、彼女たちを(私も含みます)不当に無視し、彼女たちの視線よりも自らの視線を優位に置くような側面を、その批評は持っているのではないかということなのです。実際の経験と丁寧に切り離し、純粋に、人々の実際の人生と無関係なものとして映画を論じる準備をするか(それならば「勝手なことを」と腹を立てることはあるかもしれませんが、差別的とまでは思わないで済むかと思います)、さもなくばまさにそのように生きるトランス女性と向き合い、その声を聞いてほしい、これが私の伝えたいことです。


『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』を読まれたかたには、女性の立場への意識が高いひとが多いだろうと想像します。ですので、このように考えてみてもらえないでしょうか? 北村先生ではなく、なんらかの男性が同じような本を書いたとし、それを読んだ一人の女性が私と同じような仕方で「女性の経験を踏まえていないではないか、これでは女性を無視していて差別的だ」と訴えたとする。そしてその男性は北村先生がしたのと同様の応答をし、いま女性は私が書いているのと同じような応答をする。「シス女性」を「男性」へと、「トランス女性」を「女性」へと書き換えた形で。わかりませんが、そのようにしたなら、もしかしたら私の感じていることがいくらか伝わるかもしれません。その女性は、男性側の批評に反論したのでもなく、男性側の批評を強化する論拠やほかの女性の意見を与えるように求めたのでもないのです。ただ、自分や自分に似た女性の経験や物の見方をあなたは気づいていないのではないか、気づかずにそれをないものとして扱っているのではないか、と言っただけなのです。(マジョリティ側のひとが納得のいく基準をもとに抽象的なレベルで議論をする前に、いまここにある個々人の具体的な生のありようを知ってほしい、それを知らないうちにそんな議論に入らないでほしいという私の気持ちも、女性である、同性愛者である、民族的マイノリティであるなどの立場のひとにとっては、私にはもちろんトランスであることと女性であることについてしかわかりませんが、おそらく似たようなことをしばしば感じているものではないでしょうか?)


追記: 

シスのかたから「保守性」を(トランス自身についてであれ、トランスの表現についてであれ)語られるときに私が感じていることは、おおむね哲学者の千葉雅也先生が以前に語っておられた、非カテゴリー的な者にとってのカテゴリー的なものの切実さ(そしてその「保守性」をマジョリティのひとこそが容易に非難すること)といった話と同じようなことではないかと思います。

それに関してはツイートもされておられましたが、『世界思想』46号に掲載されている千葉先生の論文にもまとめられていたかと思います。千葉先生はシス男性のかたですが、私はこの関連する千葉先生の言葉に「私が日々感じていることが表現を得た」という感動を覚えました。


追記2

書き落としていましたが、「古くさい」が特に否定的なニュアンスではなく「古典的」とのことだそうで、そうであるならばそれは納得しました。ただ普通はそれは否定的な言葉として使われているのではないでしょうか。その点は、「古くささ」より新しさのほうを強調して語ってくださればよかったのだろうと思います。「トランス俳優を使うのは新しいが、古くさい」、あるいは『クレイジー・リッチ』は「アジア人キャストばかりで作られているのは新しいが、古くさい」という形で語られていたように見えて、キャスティング以外のどこを高く評価していたのか少なくともざっと一読したところ見えやすい書き方ではなかったように思います(余談ですが、『クレイジー・リッチ』も私から見たら理想の男性と理想の関係を築き理想のプロポーズをされる、最高に素晴らしい映画でした)。もちろん、私が見落としていたのかもしれません。

そして取り上げられていたトランス映画に新しい点があるとしたら、それはまさにトランス女性の経験とのリンクではないか、そこは相変わらず見過ごされているではないか、とまだ感じます。そこを知らないで語れるのだろうか、と。ここでも問題は、トランス女性の経験に目を向けられているのかということなのではないかと思います。


追記3

もう少し簡潔に書けそうなので記させてください。

ある作品で描かれる限りでのある人物の振る舞いや装いが(つまりはそのような人物として描くことが)ステレオティピカルである、ないし保守的であると否定的に主張するとき、それはその人物と同じように振る舞い装う現実の人物もまたステレオティピカルで保守的であり、よくないという含意を伴うのでないでしょうか? 例えば作中での男女の関係性の描写が保守的であると主張するとき、もし現にその関係性を模したような関係を築く男女がいたとしたら、それは批判されるべきだということを、そうした評価は含意しないでしょうか?

そうした批判を、もっぱらマジョリティの特権性を解体するためだけに用いるのなら構わないのです。一見当たり障りのなさそうな作品に潜むそうした点を暴くことは、日常においてもそうした当たり障りなさそうなことをするひとの背後にある特権性を暴き立てるでしょう。実際、あのご著書の大半はそうした方向に向けられているものと想像します。

しかし、仮に方向性としてマジョリティ男性と似た「保守性」が見られるのだとしても、あの箇所で相手取られているのはシス女性である北村先生よりもむしろ弱い立場であるトランス女性なのです。問題は、作品の保守性を語るときに、仮に念頭にある目的がマジョリティ男性の特権性の解体だったとしても、その語りにおいて、まさに作品に描かれているように振る舞ってしまいざるを得ないタイプのトランス女性に対しても否定的な評価を同時に下してはいないか、ということなのです。言ってみれば、北村先生はご本人としてはマジョリティ男性だけを目標にその保守性を暴こうとしているのかもしれませんが、そのときに撃ち出す銃弾が私たちを貫通して進んでいるように思うのです。その銃弾が、私たちが甘んじて受けるべきものだというのならまだわかります。「こういうふうに生きてきたひとがいるのも知っている、こんなふうに言われたくないのも知っている、しかしあなたのためにこそ言うのだ」という形なら、パターナリスティックでシスプレイニング的ではあるかもしれませんが、存在に気づいているとは思ったでしょう。しかし、単に見えてないから気づかず撃ってしまっていたというのでは救いがありません。そしてあのご著書を読んだときに、私はそもそも自分たちの存在を気付かれてさえいないと感じたのです。

実のところ、あのご著書を書かれるに当たって、批評家や研究者など以外にはどの程度トランス女性やトランス男性の体験について調べ、どの程度実際のそうした人々と交流したのでしょうか? そうしたひとの経験や生き方についてどの程度のことを知り、言及されていた映画とそうしたひとの生き方との結びつきの可能性をどのくらい意識されたうえで語っていたのでしょうか? せめて当事者同士の交流会や、当事者が多くいる学会のようなものには顔を出し、意見交換くらいはされたのでしょうか? 私が気にし続けているのは、「その批評は妥当なのですか? 根拠があるのですか?」ではありません。「私たちがどう生き、何を感じてるのか知っていますか? 知ったうえで語っていますか?」なのです。こうした「そもそも私たちの生き方に関心を持ってはいないのではないか」という疑念は、数人のトランスの批評家の意見を自説の補強のために持ち出されてもなくなりはしません(そもそも私の素朴な感想も数え入れたとして、私自身も含めて複数ある当事者の声のうちで、これは拾い上げあれは拾い上げないというその選択は、いかなる権利のもとでなされているのでしょうか?)。そして、もし仮にトランスの人々の具体的で多様な生き方に無関心であったのならば(そうでないことを願いますが)、それにもかかわらずトランスを描く作品についてほんの数人のトランス批評家の言葉を持ち出すだけで自分はそのよしあしを断じる立場にいるのだというその前提は、この社会の差別的な構造に根ざしてはいないでしょうか? 私たちがシス女性に逆のことをすることは基本的にできないのです。そんなことをすれば、よくて無視されるか、悪ければ「けっきょく男だから女のことがわからないんだ」と言われるだけですから(もちろん北村先生はそんなことを決して言わないと思いますが、現在の風潮では世間的にはそうでしょう)。



*単純な書き間違いなどがいろいろ見つかるため、適宜修正しております。ご了承ください。

あるトランス女性が見た北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』

北村紗衣先生による映画評論『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』が、書肆侃侃房さんより出版され、小規模な出版社から出たアカデミックな身分の著者(北村先生は、私自身は拝読したことがないのですがすでにシェイクスピアに関する単著も出されている、シェイクスピア研究者です)による本としては珍しいような売れ行きを示しているそうです。

この本が注目を浴びているのは、おそらくそれがフェミニズムの視点からさまざまな映画作品を批評するというものだからでしょう。多くのひとがそうした視点を、あるいはそうした視点から見たことを語る術を求めていたということでしょう。

この記事ではそんな話題の本『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』に対し、否定的な話をしたいと思っています。


いくつか、先に断っておきたいことがあります。

まず、この記事を書いている私は何者なのか。これに関しては、多くを語ることはできません。ひとつだけ言えるのは、私はいわゆるトランス女性だということです。トランス女性にもさまざまなひとがいますが、私は性同一性障害の診断を受けたうえでホルモン治療を受け(20代後半のことです)、さらにガイドラインに沿った診断書などをもとに性別適合手術を受け、その後に裁判所にて戸籍の性別の変更の手続きも行い、服装などは完全に女性もの、現在は職場でもプライベートでも単に女性として過ごすという、比較的むかしから知られていたと思われるタイプにあたります。

身分を詳しく語れないのも、こうした事情のためです。親しい友人や家族はもちろん私が男性として暮らしていた時代を知っているので、性別移行のこともわかっているし、職場には事情を知っているひとも部分的にいるし、また見た目から推し量ってわかっているひともいるかとは思いますが、私は自分がトランスであることを積極的には語らず、できたらシス女性と同じ仕方で見てほしい、というよりトランスであることにそもそも思い至りさえしなければそれに越してことはないという形で暮らしています。要するにカムアウトしないで暮らしたいというタイプで、トランス界隈の用語でのいわゆる「埋没」志向のトランスです。なので、例えばここで名前などを書いてしまうと、それは実質的にカムアウトになってしまうため、どうしてもそういうわけにはいきませんでした。それでも、埋没志向の者であっても、トランスである身から何か言いたくなることはあり、どうしたらいいか迷った末に選んだのが、匿名のブログ記事という手段でした。(なので、このブログも、この記事を伝えるためのツイッターアカウントも、この記事だけのためのもので、ほかに何の内容もありません)

これが人の目にとまるかどうか、私にはわかりません。もしいくらかのひとに見られることがあったなら、もしかしたら私が誰であるかわかるというひとの目に入ることもあるかもしれません。そのときはどうか、これを書いているのが何者なのかということについては、知らないふりをしていただけたら、と思います。


もうひとつ断っておきたいのは、北村先生のご本を、私は手元に持ってはいないということです。買っても借りてもいません。これは、普通に考えると、ひとに批判を向けようとする者の態度としてはたいへん失礼で、不誠実なものです。なので、その点で謗りを受けるならば、甘んじて受け入れたいと思います。ただ、私なりの事情があるということだけご理解いただきたいと思います。

私はもともと映画が好きで、そして自分自身がトランス女性であるという事情のために、トランス女性が登場する作品を好んで見ています。とりわけ『タンジェリン』という映画を素晴らしいものだと感じていました。これは『フロリダ・プロジェクト』の監督がiPhoneで撮った、トランス女性が出演するトランス映画という、いろいろな点で斬新な作品で、同じトランス女性といっても私とはだいぶん違うタイプのひとが登場するのですが、それでも二人のヒロインの友情に胸を躍らせながら見ました。

その『タンジェリン』と、以前にアカデミー外国語映画賞を受賞して話題になった『ナチュラル・ウーマン』が『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』で取り上げられていると聞き、ぜひ読んでみたいと思いました。けれど品薄でなかなか見つからず、アマゾンで注文しようかとも思っていたところに、きょうたまたま書店で見つけて、「いちばん気になっている『タンジェリン』の評を見てみて、文体や内容が気に入ったら買って読んでほかの箇所も楽しもう」と、試し読みをしてみたのでした。ですが、(それこそがこの記事を書いた理由なのですが、)この本の『タンジェリン』や『ナチュラル・ウーマン』への視線は、ありがちなシス(トランスでないひと)がトランスに向ける、差別的と言ってもいいようなものでしかなく、わくわくしながら手に取ったはずなのにむしろショックで動揺してしまい、家に置いておきたいとは到底思えず、買うことを断念したのです。表紙も可愛らしく、タイトルも素敵で、それにほかの章は普通に面白そうだったから、私自身としても本当に残念に思います。

そうした事情から、この記事は、トランス女性に関する記述の箇所だけを本屋さんでさっと試し読みした、その記憶と印象だけで書かれた、その点で不誠実でおそらくはアンフェアなものになっています。ですが、私にはあれをもう一度読み返すことが心理的にできません。ですから、そのような不十分な用意のもとで、なぜ私がショックを受けたのか、どこが差別的だと判断したのかを語ることをお許しいただきたいと思います。


本題に入る前にもう一点、この記事の目的について述べさせてください。私は北村先生を「告発」したり「糾弾」したりしたいわけではありません。だから、もしこの記事を見たひとが、北村先生や、それ以外のフェミニスト、あるいはフェミニズム思想を攻撃するのに私の言葉を利用する、ということはよしていただきたいと思っています。むしろ、あのような本を出したかた、あるいはあのような本を読んだかた、読みたいと思うかたならば、きっとひとより柔軟で広い視野を持っているはずなので、どうにかその視野をもうほんの少しさらに広げて、トランス女性のことも見てほしい、そう思って書いています。



ここからが本題です。


北村先生がトランス映画を取り上げた章は長いものではなく、そこではまず、(正確な文言は記憶できていませんが)トランス映画をあえてただの女性映画として見て、それをフェミニズムの歴史のなかに位置付けるといった目標が提示され、そのうえで『タンジェリン』や『ナチュラル・ウーマン』がトランス女性の出演するトランス映画であることに一定の評価はしつつも、そのなかで出てくるステレオタイプ的な女性像などを論難し、全体としては「古くさい」ものと評価するという内容でした。その過程で『リリーのすべて』のようなもっと前の作品にも言及し、そのなかでも女性を幻想視しすぎる傾向があることを指摘し、否定的に評価していました。


まず、北村先生に同意する点を挙げたいと思います。トランスの俳優にとって活躍する場があまりに少ないこと、トランスの役柄もしばしばシスの俳優に取られるのに、シスの役柄をトランスの俳優が演じることはないという非対称性があることなどを北村先生は指摘していました。この点に問題があるというのは私も思います。とにかく、トランス、特に外見からそれとわかることの多いトランス女性には、俳優という仕事はかなり狭い門であるのではないかということが容易に想像されます。

「俳優は自分とは別の存在を演じるものなのだから、シスがトランスを演じてもいいように、本当はトランスがシスを演じたっていいはずだ」という趣旨のお話も、一点だけ留保をつけたうえで、その通りだと思いました。北村先生と同じく、私も(当事者ではありますが)トランスの役柄をシスのひとが演じるのが必ずしも問題だとは現時点では感じていません。もちろんトランスのあり方にとって、振る舞いだけでなくその身体そのものが大きな意味を持ちます。ですので演じるうえではその身体性も、性別適合手術やホルモン治療は受けているのかいないのか、ホルモン治療を受けているとしたら何歳ごろから受けているのかといった設定があるはずなので、それに適した身体を模倣しなければ不適切です。こうした点で私が特に優れていると感じたシス俳優は、現在公開中の『Girl』の主演のかたと、あと少しむかしの『トランスアメリカ』の主演のかたで、前者はシス男性らしく、後者はシス女性ですが、こうした演技をするかたならトランスの役を演じても違和感はないと思います(『トランスアメリカ』のかたは、なんとシス女性なのに、「声変わりをした男性がボイストレーニングで頑張りつつもまだ女性だと納得されるほどの声を出せずに不自然な声で話してしまう」という演技をしていて、見終わって調べるまで当事者による演技だとばかり思っていました)。

ただ、留保というのは、これはシスとトランスの体のあり方に外見上際立って大きな違いはない(連続的に見やすい)ことと、現時点ではトランスの側で自身のトランス的な身体をむしろプライドの礎とするという思想がそれほど大きくないこととを条件として言えることだという点です。後者はたぶん重要で、現時点ではトランスの当事者たちにも、自分自身の体のありようがプライドになるという感覚が希薄なので、シスのひとがそれを模倣するというのに無頓着になりやすいというところがあると思うのです。「ブラック・イズ・ビューティフル」みたなかたちで、むしろトランスの体のあり方が美しい、これは私たちの誇りだみたいな思想が盛り上がれば、シスのひとがトランスのひとの体を模倣するのは簒奪になるでしょう。そして、現時点でも、私がたまたまそうではないだけで、そう思っているひとはいると思います。


さて、ここから否定的な話に移りたいと思います。


まず、トランス女性の映画をあえて単なる女性映画として、フェミニズムの、あるいは女性の歴史のなかに位置付けるということについて、どう思われるでしょうか?

一見すると、偏見のない中立な視点だと思われるかもしれません。「トランス女性を単なる女性として見るなんて、いいことじゃないか」と感じるかもしれません。でも、ひとつの罠があります。それは、フェミニズムの歴史も、フェミニストが語る女性の歴史も、それはほとんどもっぱらシス女性の語るシス女性にとっての歴史だということです。もちろんフェミニストであるトランス女性はいますし、これまでにもいましたが、それは決して主流に食い込んではいないはずです。

そしてそうした初めからシス性が前提となった視点のもとで北村先生は断じます。『タンジェリン』も『ナチュラル・ウーマン』も、古い女性映画の焼き直しだったり、むかしながらのステレオタイプを維持していたりしていて、北村先生の依拠する「歴史」に照らすと古くさいと。

例えば、これを男性と女性の話で語り直したらどうでしょうか? 私はそれほどいろんな映画を知らないので、架空の例を考えてみます。女性の陪審員が集まり、ある事件への判決を巡って議論を戦わせる映画です。そのなかには、事件の内容にも、発言の端々にも、女性だからこそしてきた、せざるを得なかったさまざまな経験に関わる要素があり、少なからぬ女性の共感を呼びました。そこに男性の批評家が現れ、言います。「この映画をあえて女性映画としては見ず、人間の映画として見たうえで、これまでの歴史に位置付けてみよう。こんな内容は『12人の怒れる男』の焼き直しで、古くさいものにすぎない」

この批評家には二つの視点が抜けています。ひとつは、自分の依拠する歴史が本当は中立な歴史ではなく男性の歴史であり、そこにはそもそも女性がほとんど(現実にも映画にも)登場してこなかったという視点です。それが抜けると単に焼き直しにしか見えないかもしれませんが、この抜け落ちた視点から見たなら、むしろ過去の作品がもっぱら男性のものだったということが重要なのです。そこを忘れて安易に過去の作品と重ねるのはおかしなことではないでしょうか。その道は、男性たちには見慣れたお馴染みの古びた道かもしれませんが、女性たちはいまはじめてそこを歩いているのです。

もうひとつの抜け落ちている視点は、女性の経験から見る視点です。実はいま取り上げている架空の作品には『12人の怒れる男』にはなかった新しい要素、すなわち女性の経験とリンクする内容が含まれているにもかかわらず、男性である批評家には関連する経験が欠けており、それゆえそうした要素を見る目がなかったために、それはただ見過ごされ、作品は単に古くさいものと判断されてしまったのです。

思うのですが、こうした的外れな批評を、私たちは実際に日常でよく耳にしているのではないでしょうか? 繊細さに欠ける男性が女性たちに歓迎された作品を難ずる言葉などに。北村先生の採用しているのは、シスからトランスへのこの手の視点なのであり、これは差別的な見方の典型のひとつではないでしょうか。


そしてもっと具体的で切実な問題は、見過ごされているトランスの経験なのです。

北村先生も『タンジェリン』などのステレオタイプ性を批判的に見ていましたが、実はシスのひとからトランス映画にこうした批判が向けられるのは珍しいことではありません。生田斗真さんが女性役で主演した『彼らが本気で編むときは、』にも、生田さん演じるリンコがあまりにもステレオタイプ的な女性の役割を演じていることを非難する批評がネット上で公開され、ちょっとした話題になっていたことを記憶しています。

(余談ですが、生田さんの出演は、設定上リンコがパスをしていない、つまりトランスであることが容易にバレる外見であるとされていること、そして生田さんの表情や視線、ちょっとした場面での怯えなどの演技は優れていたことから、「外見が男っぽすぎる」みたいな意見もよく見かけるものの、私はとてもよかったと思っています。というよりも、素朴な見方のもとでは「男っぽすぎる」とされる人物を女性として、母として描き切る、肯定するところにこそ、しばしば外見のために男性扱いされがちな私たちへのエールがあるとさえ思います)

ただ、トランスのひとが知り合いにいないかたにはピンと来ないかもしれませんが、ステレオタイプ性はトランス特有の経験と強くリンクしています。トランスの交流会に行くと感じるのですが、例えばトランス女性はシス女性に比べて長い髪を好み、スカートを好む傾向がかなりはっきりと強いように感じます。もちろんそうでないかたもたくさんいますが、その比率がシス女性の場合のショートカット率やパンツ率に比して極端に少なく見えるのです。私自身も髪は長いし、ほとんどスカートだし、化粧をせずに出かけることもほとんどありません。


このことには複合的な要因があるように思います。ひとつは、サバイバル上の理由です。特に成人したあとに性別移行したトランス女性に切実なことなのですが、私たちはしばしばその身体に自分の性別と異なる性別と結びつけられがちな第二次性徴の痕跡を残しています。高い身長やがっしりした肩、眉骨の隆起などです。こうしたものは、ホルモン治療をしてもなくせはしません。そうした特徴を持ちながら、髪を短くし、パンツスタイルにしてみることを想像してください。要するに、「男扱い」される確率が上がってしまうのです。シス女性と同じように見られるのがいちばんいいのですが、そうでなくても少なくとも女性扱いを求める存在として見てもらわないと困る。場合によっては身分証さえ「男性」となっていることもあるのに、変に周りから男性扱いされてしまうと、どんなトラブルになるかわからないし、トラブルが起きたときに自分の性別を明かし立てることも難しい場合があります。なので、一種の意思表示として、シス女性よりも女性らしさにこだわる格好をするのが、うまく生きていくコツとなる。

このあたりは、『ヘイト・ユー・ギブ』で語られていた、白人の子たちはスラングを使ったりしても気にされないけれど黒人である自分がそうするとギャング扱いされかねないから白人の子よりも品行方正にするという、主人公のサバイバル術に似ているかもしれません。


もうひとつは、女性性への切実な憧れです。これは、北村先生の『リリーのすべて』への否定的な扱いとも関連します。

北村先生は、リリーが「画家ではなく、女性になりたい」と語っていたことを指して、女性を変に幻想的に見ていてよくないという趣旨の批判をされていました。ですが、私から見ると、全体的に「何か違う」感が強く、世間でのヒットに反していまいちしっくりこなかった『リリーのすべて』のなかで、このセリフこそが数少ない、リアルで本当にトランスの生き様に向き合った言葉だと感じていて、実際私はこの映画の話を(私がトランスだと知っているひとに)するときには必ずこのシーンの話をしています。仲のいいシス女性の友人も当初ここがピンとこなかったと話していたのですが、このセリフはまさにトランス的な経験があればこそ、その重みも痛々しさも即座に、苦しいほどにわかるものなのです。


いきなり話がずれるようですが、最近個人的にものすごく嬉しい、「これまでがんばって生きてきてよかった」とはしゃぎたくなる出来事がありました。なんだと思いますか? ひとつは、友達とアイリッシュ・パブに行って、「このフィッシンアンドチップスって、どのくらいの量ですか?」と店員さんに訊いたら、「女性二人でならSサイズでも十分かもしれません」と言われたことです。もうひとつは期日前投票に行き、出口調査を受けたときに、調査員のかたがタブレットを渡しつつ「あ、性別はもう押しちゃいますね」と「女性」のところを押していたことです。

何を私が喜んだのかはわかるかと思います。なんの疑問もなく女性と見なされ、そのまま話が進んだことです。ですが、これが、たったこれだけのことが人生で最大級に嬉しい出来事で、嬉しすぎて帰宅して泣きたくなるという人生を、(もしあなたがシスであるなら)想像できますか? 

生まれてすぐ、男の子として分類されました。泣くと「男の子なんだから」と言われ、髪を少しでも伸ばすと「不潔だから切りなさい」と言われました。「可愛い」だとかと言われたこともほとんどなく、スカートを買ってもらったことさえなく、ちょっと可愛らしい文房具を買って筆箱に入れていたらクラスメイトから「おかまだ」といじめられ、ムダ毛を処理したら先輩から服のなかを覗かれて「何剃ってんだよ、気持ち悪い」と笑われました。

可愛い服が好きで、ファッションに興味を持ってからは、メンズ服のなかでも可愛らしいものを好んできました(ツモリチサトがお気に入りでしたが、なくなるそうですね)。少しでもフェミニンに着たくてちょっと首回りを広く開けたりしていたら、「気持ち悪い」だとか「ゲイなんじゃないの?」だとかと言われました。化粧をしているわけではなく、単に化粧水などで整えていただけでからかわれたこともあります。

周りの誰も私を女だとは言ってくれませんでした。だから私もなかなか自分でそうと気づかず、とにかく辛く、理由はわからないけれど自分が自然だと思うように振舞っているだけで周りに気持ち悪がられ、そして自分の体を見るとなぜか絶望的な気持ちになって、何もかもが意味がわからないまま、どうしたらまともに生きられるかもわからないまま生きてきました。

私は、周りの誰一人として私を女だとは呼ばないなか、私一人の「本当は男のひととしては生きていけない人間なのではないか」という疑念だけを頼りに知識を身につけ、自分の足で医者を選び、そして寿命や健康に影響が出る可能性があると言われてなお「それでも、たとえ長生きできないとしても、私は女として生きるべきなんだ」という一個の決意だけを頼りにホルモン治療を選びました。

そうして体が変化していき、もう周りに語ってもいいとなって初めて「私は女性として暮らします」と宣言しました。そうしてようやくスカートを履いたり、お化粧をしたりするようになりました。


シスの女性とはかなり違うというのがわかるでしょうか? シスのひとは、自分が物心つく前から女性としてのアイデンティティを周りに語られるのだろうと思います。そして、自分の意思とは無関係に女性性の記号を過剰に割り振られるのでしょう。想像するしかないのですが、そうした人生を送ったなら、ひとによってはその過剰性にうんざりし、「女性らしさ」に反発することがあるのだろうと想像します。

対して、私の人生にそのような道筋はあったでしょうか? 私からしたら、私の女性としてのアイデンティティは、何よりもまず、誰もが否定するなか自らの意思ひとつで選び取ったものなのです。そして、スカートや長い髪のようなステレオティピカルな女性的記号は、私にとってはずっとむしろ遠ざけられ続けてきた、触れれば周りに蔑まれる、いわばタブーのようなものでした。私は自らの意思で自分の女性性を選び取り、そして かつてタブーとされていたものを身につける「権利」を、周りに自分の女性性を説得し、自分自身でも実践することによって「勝ち取った」のです。おおげさな、もしくは変な話だと感じるかもしれませんが、少なくとも私から見たらそうなります。

そのようにして記号を身につけても、本当に女性扱いされる、つまり知らないひとも含めた周りのひとが私のアイデンティティに納得するようになるまではさらに長い道のりでした。おかま扱いもありましたし、知らない子供たちに囃し立てられ、ベランダにまで侵入されて珍獣扱いされたこともあります。いきなり怒鳴られたこともあるし、下着を買いたいだけなのにまともに相手をされなかったこともあります。ようやく、ここ1-2年でようやく、先ほど語ったような嬉しい出来事が起きるくらいのところまで来たんです。私にとって、そしておそらくほかの多くのトランス女性にとって、女性であることや、女性らしさのステレオタイプが持つことの意味は、こうした経験のもとでしか語ることはできません。

リリーの気持ちがわかるというのもこの点でです。もちろん現代ではリリーほど困難な状況にはないので、仕事をがんばることと女性としての暮らしを目指すことは両立可能です。とはいえそれもたいへんで、通院もありますし、手術のときにはひと月ほどは安静にしないといけないし、手術後はダイレーションという手入れが必要で、それにかかる時間もあります。私も術後すぐは勤務先が遠かったことも相まって、仕事の日は朝四時に起きないとダイレーションと通勤の両立が不可能という時期もあったりしました。職場での無理解やハラスメントもあります。ただ、リリーに比べたら状況は良くなっているでしょう。

ですが、このくらいに、確固たる意志を持ち、長い時間をかけて目指し、それでもなおなかなか到達できないのが、トランス女性にとって「女性として暮らす」ということなのです。もちろん「女性として」でどの程度のことを想定するかは当事者間でも違うので、一概にはいえませんが。そして、私自身、もしも女性として生きることとほかの何かとを天秤にかけるよう迫られたりしたら、前者を絶対に選びます。ほかの何を犠牲にしてでも。ただ女性でありたいだけ、それだけのことがどれだけ困難でどれだけの決意や労力を要するのかを知っているからこそ、リリーの気持ちがわかるし、あのセリフこそがあの映画の優れた点だと思うのです。直後の、リリーの妻の戸惑ったようなセリフとともに(あの戸惑いはシス女性的であると思います。女性であることが何かを犠牲にしてでも目指すものだなんて考えたことがない視線)。


北村先生は、こうしたことを想像さえしていないように思います。ただ自分たちにとって女性であることや女性らしさのステレオタイプがどういう意味を持つのかだけを考えている。ああした場面に古くささや奇妙さを感じるとき、それを感じさせるのはシスとしての色眼鏡なのです。むしろその違和感を手掛かりに、「なぜこのひとたちはこうなるのか?」と考えて、私たちの生き方に思いを馳せてほしかったところです。でもそこで北村先生はトランス女性の立場には向かわず、自分自身の観点から否定的に評価してしまう。

だいたい、トランス女性とシス女性は歴史的にも個人の経験でもこんなに違っているのだから、それなのにシス女性の歴史と経験のもとで育まれた尺度から見たりしたなら、それと異質であるトランス女性の物語が高い評価になんてそうそうなりようがなくありませんか?  それをしてしまっているのです。同性カップルが結婚式を挙げて感動しているのを見て、異性愛者が「いまどき結婚式に感動するとか、古くさいな」と言うようなものです。


もう一点、北村先生に賛同し難い点があります。それは『ナチュラル・ウーマン』のタイトルは、トランス女性であり、周りからもまるで女性扱いされない主人公を指すのに「ナチュラル」を使う点で不適切だとする主張です。リリーのすべて』の評価と重なりますが、私からしたらこの邦題こそがこの映画のもっとも素晴らしいポイントでした。

上に述べたような決意と困難を経て、私たちはどうにかこうにか女性としての立ち位置を獲得します。そんな私たちに立ちはだかる最後の壁が「体は男」だとかといった思想です。ひとによってはホルモン治療をし、手術も受けてさえいるのに、それでもなお言われ続ける「体は男」、「生物学的には男性」。私たちはいつまでも「不自然な存在」として語られます。そして、それはまさに『ナチュラル・ウーマン』で主人公が受ける差別の根幹にある思想でもあります。

そんな主人公を、それでも「このひとは自然な、生まれつきの女性だ」と肯定するこのタイトルのなんと力強いことでしょう。私はこの邦題に強く勇気付けられました。私のこの体でも、自然な女性なのだと。

しかし北村先生は「自然」というのは不適切で、むしろ自然とか不自然とかを解体する方向に行くべきだと言う。なぜなのでしょう? なぜトランス女性が自然な女性であってはならず、トランス女性について語るにはそうした二分法を解体させるべきなのでしょう? そのとき、では、「自然」が許されるのは誰ですか? シス女性ですか? だとしたら、北村先生はシス女性は「自然な女性」と語りうる(好ましくない語り方だとはしても)が、トランス女性はそのように語り得ず、トランス女性を女性として見るなら自然云々の話自体を解体するしかないと考えている。この背後にあるのが、トランス女性とシス女性はその身体において同等に扱うべきでないという思想でなくてなんなのでしょうか?

枠組みの解体は、だいたいにおいて望ましいこととされがちですが、「自然」はシス女性用の言葉で、でもトランス女性も仲間に入れてあげるために「自然」は解体しましょうなんて発想は、私にはそこまで好ましいものに思えません。というより、それは自然さを語ることを封じて、暗黙のレベルでそれをシス用に確保することで、シス/トランスの非対称性を維持する企みであるようにさえ思えます。


『サタデー・ナイト・チャーチ』という、多くのトランス女性が出演した映画がありますが、そうした出演者の一人であるインディア・ムーアさんは、自分が生物学的に女性だとツイッター上で訴えました。自分は女性であり、それゆえこの体は女性の体であり、それゆえ生物学的にも女性だ、というのです。

おかしな話だと思いますか? しかし、もし私が何かの偏見や何かの古くさい枠の解体を望むとしたら、まさにこの点です。「私のこの体を、それでもなお自然な、生物学的な、女性の体だと認めよ」これが誰にでも納得のいく話だとは思っていません。言いたいのはただ、『ナチュラル・ウーマン』というタイトルははっきりと、その方向で私たちを肯定しているということです。多くのひとが受け入れられなそうなこの思想を。それは私にとっては最大級のエンカレッジメントなのです。

それを単に不適切だと退ける北村先生は、私にはとてもシス的で、それも古典的なシス目線の持ち主だと感じられます。「女性だって男性と同等に理性的な存在だ」と言ったら、「いや『理性』は女性にはふさわしくない。むしろ理性とか非理性とかといった二分法を解体したところでこそ女性について語るべきだ」と返すようなものです。そんな発言は、仮に当人は男性と女性を同等のものと見なすための解体なのだと言っていたとしても、差別的な思想に基づくと思いませんか?


長々と書きましたが、これらが、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』をトランス差別的だと私が感じ、それゆえに買うことができなかった理由です。


もちろん、私はこれらのことが、差別を意図して、あるいは意識して語られたとは思っておりません。たぶん北村先生は、単にトランスの人々の生き方や経験を知らず、うっかり不用意なことを言っただけなのでしょう。ですから、もしかしたら多少口調がきつくなったところもあるかもしれませんが、私はさして責めるつもりはありません。ただ、きちんと目を向けてほしい、映画、特に当事者が関わっているような映画を見るときには、いまのご自身の視点から作品が持つ違和感を批判するのではなく、むしろその違和感を手掛かりにいまのご自身の視点から外れた人間の存在を察してほしいと思っています。



最後に余談ですが、もしトランス女性として生きるということがどういうことなのかに少しでも関心を持たれた方がいらしたら、私自身の経験に照らしてリアルで、しかも作品として面白かったフィクションには次のようなものがあるのでご紹介します。


映画『Girl』

すでに移行済みで周りにも女の子と概ね見なされている、バレエダンサー志望のトランスの少女の物語です。周りにおおむね受け入れられてなお残り続ける、体の形に対するどうしようもない嫌悪感を痛々しいほどに描いた優れた作品でした。見ながら何度も「これは私の物語だ」と思いました。この記事を書く少し前にまさに公開されたばかりですので、いまなら劇場で見れます。(ショッキングなシーンを含みます)


小説『If I Was Your Girl』

Meredith Russoさんの若者向けの小説。自殺未遂の末にカムアウトし、性別適合手術を受け、家を出たお父さんのもとへ引っ越して、新しい高校に女の子として通い出すトランスの少女のお話です。主人公はパスにまったく問題のない超美少女という設定で、その点は私とはだいぶん違いますが、Russoさん自身もトランス女性だということもあり、描写に「あるある」が散りばめられています。写真を撮られることへの咄嗟の怯えなどのシリアスな「あるある」だけでなく、性別移行によって服のボタンが逆になったせいで服を着るのに時間がかかるようになったなど、くすっと笑える「あるある」もありました(こういうことに言及してくれるフィクションってほとんどないのです)。あと末尾に設定の意図や、シスの読者、トランスの読者へのメッセージがあります。


小説『Birthday』

同じくRussoさんの作品。前作と違って、こちらは性別移行を試みる以前のトランス女性の苦しい心境が痛々しく語られています。男の子として生きることへの苦しさを感じながらもそれを打ち明けられずに次第に荒んでいく主人公、主人公を大事に思いながらもどうしたら良いのかわからない幼馴染やお父さん、そんな人々の数年を切り取り、次第に自分自身として生きようとしていく主人公を痛々しくも、でも最後は爽やかに描き切る、つい最近出た作品です。吐露される苦しみ、自分の体を単なる機械だと思い込み、あえて痛みつけるような真似をし、お酒に溺れるという自罰的な振る舞い。私自身にも覚えのある傷が描かれています。


トランス当事者でも、自分の経験をどう感じているか、特にそれが体の問題だと感じるか、社会の問題だと感じるかといったことには大きなばらつきがあります。なので、私にとってはこれらの作品は私の経験に合致していましたが、必ずしもほかの当事者には同意されないかと思います。逆に「こんなのはまるで違う。ひどい偏見だ」と言うひともいるでしょう。実際、『Girl』には性別違和を体の問題に極言しすぎているとトランス当事者からの批判があり、それを受けて主人公のモデルになった、こちらも当事者の方が「しかしあれが私の経験したことだ」という趣旨の反論をされるなどしているようです。(当事者のあいだでも多様性が大きく、しかもことがさまざまなひとのアイデンティティの根幹そのものに関わるため、トランス映画を語るというのはトランス当事者にとってさえとても繊細なことなのです)

このあたりの多様性も、少しずつ社会に知られるようになってほしいところです。例えば気づかれたかもしれませんが、私はいちどもトランスジェンダー」という言葉を使っていません。広い意味で当事者に当たるひとでも、「トランスジェンダー」、「トランスセクシャル」、「性同一性障害」などの言葉にどんな意味を背負わせているのかには差があり、どの言葉を使うのかに強いこだわりがあるひともいるからです。(私自身も「トランスジェンダー」は好まず、「トランスセクシャル」の方がマシだったりします)「トランス」や「トランス女性」という言い方も、私は比較的背負っているものが少なくて使いやすいと思っていますが、嫌がるひともいるでしょう。北村先生のご著書はこのあたりも繊細でなかったように感じます。


それはともかく、この記事が北村先生や、そのご本を読んだひと、読もうと思っているひとが、トランス女性のあり方というものに目を向けるきっかけとなったら幸いです。



追記:

この記事を公開し、わざわざツイッターでもシェアをしたことの、すでに述べたのとは別の目的についてもきちんと明らかにしておきます。それは、もしどこかに私と同じように『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』にさまざまな偏見から解放された開かれた視野を期待していて、けれどトランス女性に関するその記述の差別性を見出しショックを受けたトランス女性がいたなら、きっとそのひとは、私もそうであるように、同じように傷ついているひとの言葉を求めているのではないか。「あなたの受けた衝撃はおかしなものではない」と頷く誰かを欲するのではないか。そう思い、そうしたひとがそれを求めて検索などをしたときに目に留まるように、開かれた場所に置くことにしました。

私がこの記事を投稿し、ツイッターにシェアするまで、私が簡単に検索したところでは、差別性の指摘どころか、トランスの話と絡めてこの本について語っているどんな言葉さえ見つかりませんでした。これは、私たちの置かれている孤独そのものだとも感じます。語り合う、共感し合う相手さえなかなか見つからない。私と同じようにショックを受けたひとがいたなら(いないに越したことはないのですが)、そのひとのショックを少しでも和らげる、あるいはショックを受ける権利がきちんとあるのだと安心してもらうのに、少しでも力になれたらと思っています。



追記2:

友達から、北村先生はAsk.fmというサービスを通じて匿名の質問も受け付けているから、直接読んでいただいて、この切実さを知ってもらってもいいのではないかとアドバイスを受けました。が、どうもAsk.fmというサイトに行くとフィッシングサイトへとリダイレクトされてしまって、まともに操作することもできなかったため、断念いたしました。(アプリを使ったら普通に見れるのでしょうか?)


追記3:

一日経って見てみたら想像を超えて多くのかたがご覧になっていたので、少しだけ自分の立場を明確化するためにさらに追記させてください。

私は例えば通常のステレオタイプ批判などを否定しているわけではありません。シス女性を描く映画でステレオティピカルな表現があるときなどに、それを指摘し、批判するような批評は有意義ですし、それに反対する気はまったくありません。

私が気にしているのはもっぱら、トランス女性を描く作品にシスの批評家が採用している既存の観点を、(たとえばトランスのひとのチェックなどなしに)そのまま適用することです。本文で述べた通り、少なくとも現在の社会では、トランス女性にはしばしばシス女性とはまるで異なる経験があり、それと結びついた物の見方や生き方がなされています。そして、現状ではトランス映画はそうしたトランス特有の生き方を掬い取ることにこそ目を向けているはずです。ですので、トランス映画やその登場人物、その製作者などについて語るうえでは、トランス特有の経験を踏まえた視点から見る、それが難しくともせめてシス視点では見えないものがあることに想いを馳せるというようにしてほしいだけなのです。

理想的には、トランス女性もシス女性も区別なく、それらが登場する作品も同じように批評されるようになるべきなのかもしれません。しかし、現在はそれが暴力的になりうる程度に、シス視点があまりに優勢であるとともに、シスとトランスの経験の差があまりに大きいと思うのです。これは、男性と女性、異性愛と同性愛といった、他のさまざまな非対称性と同様だと思っています。「理想的には」、それらが登場する作品は同じように扱われ、同じ規範に照らして批評されるべきかもしれない。しかし、それはすでに対称性が確立されたという意味での「理想」が達成された場合には、ということではないでしょうか? 現実の社会は理想の社会ではありません。少なくとも現時点では、まだ。だから非対称性が現にある「現時点では」、非対称的に下に置かれる側の経験を描こうとする作品を、たとえそれが上に置かれる側の規範に照らすと偏っているように見えたとしても、その規範に照らして評価すべきではないと思うのです。それに、その規範にはそもそもこれまで見過ごされていた私たちの声はほとんど含まれていないのですから、むしろそれをひとまず括弧に入れて私たちの声を響かせてもらうことにこそ、私たちの生き様を取り上げる作品の意義があるのではないでしょうか?

私が差別的だと言うのも、何も「ステレオタイプな女性像を認めてほしい」などといったことではありません。そうではなく、トランス女性を取り上げる作品を語るうえでその既存の価値基準を括弧に入れないならば、それはシスとトランスの経験の違いを無視して、一方的にシス視点でトランスを語ることになってしまうということなのです。私たちについて語るならば、私たちの視点を、それが存在することを知ってください。私たちはいまこのときにも、確かに存在し、生活し、私たちの視点から物を見ています。ただ、それに気づいてほしいのです。


追記4:

本文で、トランスはそもそもこれまで映画にまともに出てこなかったのだという趣旨のことを述べています。私はむかしから小説や漫画が好きで、物心ついたころからそういうものを読み、中学生くらいからは映画も見るようになり、大学生ころからは演劇にも足を運ぶようにしました。たくさんの物語に胸をときめかせましたが、ただ、私はどういうわけか、登場人物に共感して泣くといったことは、ほとんど経験せずに生きてきました。

私はずっと自分が冷たい人間で、だから感動できないのだと思っていました。ところが去年か一昨年だったかに、バイセクシャルの男性がトランスの女性に恋をするカナダの小説を読み(正確には自分をゲイだと認識していた男性がトランスの女性に出会い、自分の恋愛感情に戸惑いつつ、自らをバイセクシャルとして位置付け直す物語ですが)、そこに描かれているヒロインの心情、恋愛に求めること、好きなシチュエーションといったものに強く共感し、生まれて初めて小説のクライマックスで涙を流しながらページをめくるという経験をしました。小説を読んで涙を流すということが本当にありうることなのだと初めて知りました。物心ついたころには本が身近にあったからこれまでに何冊読んだのかなんてわからない。にもかかわらず、自分と同じようなことに悩み、同じようなものを好む人物を描く小説に生まれて初めて出会ったのです。このとき初めて、私は自分が冷たいせいで登場人物に共感できないのではない、そもそも自分に似た人物がほとんど描かれることがなかったからうまく共感できていなかっただけなのだと気付きました。

リリーのすべて』や『トランスアメリカ』などはすでに見ていたものの、トランスの人物を描く映画を漁るようにいろいろと見るようになったのもこのころからです。私はこれまで自分に似た境遇のひとを描く物語に触れたことがほとんどなかった、だから自分に似た人物の物語を見る・読むというのがどういうことなのかを知りもしなかった、でも世の中には少数ながら私みたいなひとを描こうとしている作品があるらしい、それを知りたい、みんな見てみたい。そのように思うようになったのです。ナチュラル・ウーマン』との前後関係は曖昧なのですが、『タンジェリン』はこうしたことがあったあとで、私でも共感できる作品を意識的に求めてレンタルし、そして楽しんだ映画でした。

知ってもらえたらというのは、物心ついたころからずっと本が好きな人間が、30年以上生きてやっと初めて「これだ」という小説に出会える程度に、トランスの経験に目を向けるフィクション作品はこの社会にはそもそも少ない、ということです(しかも日本語の小説ではしっくりくるものがあまり見つからず、未翻訳の英語小説を探してやっとでした)。これが本文で、シス女性の歴史からすると古くさく思えても私たちには初めてのことなのだという趣旨のお話をした背後の心情でもあります。

たぶん、これからもっとトランスのひとの姿を描く映画や小説は増えてくれるのでしょうし、トランス当事者の創作者もだんだん増えていってくれるのだろうという希望を持っています。私自身もそれが楽しみですし、もっと若い世代の、自分のアイデンティティに戸惑い、苦しむひとたちにとっても、きっとそれは大事な指針を与えてくれるものになるだろうと思います。



*北村先生が応答くださったので、それを見たうえでさらに感じたことも記しました。ただでさえ長い記事ですが、よかったらこちらもご覧ください。

https://snartasa.hatenablog.com/entry/2019/07/16/140020