ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

GIDの診断とそれ以後の流れ

GIDの診断も、それ以降の手続きもけっこう大変

こんにちは。

みなさんは、性同一性障害(Gender Identity Disorder, GID)の診断がどのように出されるかご存知でしょうか? 私も何せ5年ほど前の記憶で、いまだとプロセスも違うかもしれないし、診断基準も変わっているかもしれません。それに去年WHOで性同一性障害精神疾患から除外されて性別不合(Gender Incongruence)に置き換えられたそうなので、そのうち日本での扱いも変わるのだろうと思います。なので、あくまで私が受けたころの、という但し書き付きですが、どのような流れで診断が出されるのか、そのあとはどんなことがどんな順でできるようになるのかをざっくりとご紹介しようと思います。

診断が出るまで

GIDの診断を受けるのは基本的に精神科になります。とはいえ専門家がそれほど多くなく、そうした病院に行っても診断を受けられないこともあります。GIDを対象としているお医者さんはサイト上でその旨を記していることが多々あるので、あらかじめ確認しておいたほうがいいだろうと思います。電話で訊いても答えてもらえるはず。婦人科などではホルモン治療はおこなっていたりもしますが、GIDの診断自体はしてもらえないと思います。

診断は、カウンセリングを経て出されます。そのときに書くように指示されるのが自分史。自分のこれまでの生涯を文章にまとめて、担当医に提出します。そしてそれをもとに、担当医から「このとき、どんなふうに感じましたか?」などと訊かれたりして、それに答えていきます。で、それが一通り終わると、「では自分史を改めて短く要約してきてください」と指示され、そのようにしました。

私は初めて病院に行ったときには鬱もひどかったので、カウンセリングと並行して鬱の治療もしてもらいました。私だけでなく、性別違和を抱えているひとにはありがちみたいです。鬱のままだとホルモン治療などには危なくて移れないそうです。あと一度だけ子供のころの写真を見せるように言われたこともありました。できたら当時つくったもの(図工の時間に描いた絵とか)がわかるものがいいとのこと。

自分史に関して、私自身もいまいち何を目的としたものなのかわからなくて、いちど「これは何のための作業なのでしょう?」と訊いてみたことがあります。あくまで私の担当をした先生の解釈ということだろうと思いますが、そのときには「いま現在の視点から過去の自分を振り返り、改めてしっかりと言葉にして語り直すことで、自分自身のアイデンティティをきちんとつくり直す」というふうに説明されました。

要するに、正確な記憶を問うているわけではなく、「あなたはこれまでの人生をどのように見て、自分は何者だったのだと思っていますか?」と問われている感じなのかな。実際に診断を受ける際にはそこまで意識せずに、言われるままに書いたらいいのだろうと思いますが、いちおう理屈としてはそういうことだそうです。で、自分史の要約の確認が終わると、正式な診断が下されました。

この自分史、いまいち、どの程度の長さでどんなふうに書くのか調べてもわからず、訊いても「好きなように」としか言われなくて困ったりもしました。けっきょく私はA4にびっしり書いて25頁にわたる大作を書き上げてしまって、診断にやたらと時間がかかることになりました。このブログの記事も、いちばん最初の記事からしていろいろなかたから「長い」とコメントされていたのですが、普通に書くと長くなってしまう性格なんです……。

ホルモン治療と性別適合手術

私の場合は性別適合手術や戸籍の変更まで行ったので、その後の流れもざっくりまとめてみます。

診断が下りて、さらにセカンドオピニオンの先生からも診断を貰い、それに加えて泌尿器科で体の検査もしてもらうと、専門医たちによる判定会議というのにかけてもらうことができます。そこで許可が下りたなら、ホルモン治療を正式に開始してもらうことができます。「正式に」というのは、ガイドラインにきちんと従った形で、ということです。担当医にも打ち明けつつ、実は勝手にフライングして個人輸入をしたホルモン剤を飲んだりもしていましたが……。

体の検査が必要なのは、性分化疾患のような場合には、GIDとは見なされないので、そのあたりを確認するためです。正確な情報は下記のガイドラインをしっかり確認してみてください。ガイドラインも改定されたりするので、最新版を見るようにしてくださいね。
性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン|公益社団法人 日本精神神経学会

その後、1年以上にわたって実生活を希望する性別で送った経験がある場合には、改めてふたりの専門医(担当のお医者さんとセカンドオピニオンの先生)に診断書を作成してもらい、性別適合手術(Sex Reassignment Surgery, SRS)にむけての判定会議を改めて受けることができます。そこで許可が出たらSRSに向けての書類を発行してもらうことができ、希望する病院でSRSを受けることができます。

SRSを受ける際にはまた改めて精神科医による診断が必要になりますが、私がSRSを受けたガモン病院の場合は現地に専門医がいて、そのひとたちに簡単な問診をしてもらっただけでした。SRSを海外で受ける場合は、アテンド会社というものが存在していて、入院や宿泊の手続き、通訳、現地でのいろいろなサポートを請け負ってくれるので、いろいろ探してみたらいいと思います。

ちょっと知り合ったトランス女子さんが、SRSを受けるためには1年以上のホルモン治療歴が必要だという話をしたりもしていたのですが、私の記憶でも、いま改めてガイドラインを見た感じでも、必要なのはホルモン治療ではなく実生活経験(Real Life Experience, RLE)であるように思います。ただガイドラインには「ホルモン治療などを受けていない場合には、もっと長い期間の観察が望ましい」みたいなことは書かれています。このあたり、気になるかたはきちんと担当のお医者さんに確認してみてください。

SRSを受けたときのことについてもいろいろお話したいことがあるのですが、今回は割愛しますね。私はバンコクの病院に行って、1週間の入院(絶対安静で寝返りも打てません……)と、その後にさらに3週間だったかな、それくらいの滞在をしたので、ひと月近くバンコクにいました。このころからダイレーション(膣が塞がらないようにシリコン製の棒を定期的に挿入するメンテナンスで、造膣をした場合には必須)も始まりました。

戸籍変更まで

さて、SRSを受けたらいよいよ戸籍が変更できるようになります。戸籍変更の際に手術が必須というのは、批判も多いしいつか改訂されるかもしれませんが、現時点ではまだそうなっているはず。でも、具体的にどういう手順で戸籍の変更をするのかってよくわからなくないですか?

実は戸籍変更のためにはまたたくさんの診断書が必要になります。いちおう、裁判所の規定は下の通り。
裁判所|性別の取扱いの変更

これによると二人以上の医師による診断書と戸籍謄本(全事項証明書)とだけ書かれているので、また担当医とセカンドオピニオンの先生に診断書をもらえば済むように思うのですが、私のときにはこれに加えて、タイでもらった手術証明や、婦人科で検査を受けて出してもらった診断書も提出しました。現在の規則では、生殖腺が失われていることや希望する性別の典型的な性器に類似した形状の性器を備えていることが条件になっているので、そのあたりの証明ですね。

書類は住所地の家庭裁判所に出すことになっていたのだったと思います。私のときには、その裁判所ではまだ前例がなかったのか、職員さんも不慣れなようで、大きなファイルを片手にがんばって対応してくれました。書類を出す際にはもろもろのやり取りのための切手を買って一緒に出さないといけないらしく、けっこう細かくどの切手が何枚みたいなことを指定されて、裁判所内の郵便局で買ったりしました。裁判所に行ったあとにお金をおろそうとすかすかの財布で出かけてしまったせいで、切手を買ったあとの残金が120円くらいになっていた記憶があります。

その後は裁判です。前例の多い裁判所ならスムーズなのかもしれませんが、私はこの段階で数か月も待たされました。で、裁判所に呼ばれたら裁判を受けることになるのですが、残念ながら法廷でとんかちみたいなのを持った裁判長に向かって何かを宣言するなどといったことはなく、ただの会議室みたいなところで話を聞かれただけで、数分で終わりました。あとはまた数日待っていれば「変更しました」というお知らせが来ます。戸籍の性別が変わると、住民票の性別も自動的に切り替わります。

パスポート、保険証、年金手帳、運転免許証、マイナンバーカードなどの性別は変わりませんので、それぞれ個別に手続きをすることになります。パスポートは再発行。保険証と年金手帳も再発行ですが、これは勤務先に伝えたら手配してくれました。運転免許証は、見えるところには性別の記載がないので放置してもよさそうなものですが、いちおう中にあるICチップに情報があるようでしたので、免許センターに行って申し込みをしました。

マイナンバーカードは、ずっと発行せずにいたのでこの機会にカード自体をつくりました。本当はカードは別にいらなかったので通知書の性別記載だけを変えてほしかったのですが、「男性」という記載自体は消すことができなくて但し書きがつくだけと説明されたので、諦めました。でもたしか最近になってどこかのトランスさんがしっかりと申し出て、通知書の再発行に応じるよう働きかけたりしたはずで、いまならそういうこともできるのではないかと思います。

銀行やクレジットカード、あと住んでいるアパートなどにもそれぞれ事情を説明し、求められたら書類を送ったりしました。そのころには住民票の性別が切り替わっているので、たいていは住民票の写しを送るだけです。さすが公的証明書、強い! 診断書とかでどうにか証明するしかなかったころとは大違いです!

いや本当に、長いこと自分の性別の話をするにも高いお金を払って診断書をつくってもらうほかなかった身ですから、住民票を出すだけで済むようになったのはかなり楽でした。はっきりと「女性」と書いてありますしね。住民票をかざすときには水戸黄門気分でした。

ところで、もしかしたらここまで読まれたかたは「あれ?」と思ったかもしれません。そう、実は私は、名前は変更していないのです。というのも、もともと中性的というか、男のひとにも女のひとにも見られるような名前だったし、自分でも気に入っていたので、「まあ変えなくてもいいか」と思い、結局いまももとの名前のままなんですよね。なので、改名の手続きについては私はまったく知りません。改名の際に裁判を受けていれば性別変更もスムーズだという話も聞いたことがあります。

とにかくお金がかかる!

お金がひたすらかかる、これが本当にきついです。GID関係の費用というとホルモン治療とSRSの料金ばかりよく話題になりますが、ざっと見てもらうとわかるように、何度も何度も診断書を書いてもらう必要があるんですよね。そして自費診療なので病院によっても変わってくるのかもですが、私が通っていたところではけっこう1通の診断書に数万円かかるようなこともあったりしました(記憶がおぼろげですが、ホルモン治療前、SRS前、裁判前で値段が違ったような……)。しかも私はSRSを受ける準備をし出す直前に引っ越したりもして、でも診断書だけ新しいところで書いてもらうというのも面倒で、わざわざ飛行機で病院に行って診断書を発行してもらったりしていました。

幸いにして両親がかなりサポーティブだったので、いろいろと費用を出してもらったりもしたのですが、それでももちろん自分のお金もどんどん使うわけで、この時期は本当に経済的に苦しかったです。収入もいまより少なかったし……。

あとここには書いていませんが、もちろん脱毛にも通っていましたし(いまも通っています)、さらに私は診断を受けに行くときにもまだ男性服などを着ていて、メイクもしたりしていなかったので、診断を受けたりホルモン治療とかを始めたりし出してようやく服やメイクを買うようになったわけで、何せ先立つ服やメイク用品が何もなく、そちらでも出費がたいへんでした。

どのくらいからそういった移行を本格的に始めるのかはひとそれぞれだと思うのですが、私は本当に、胸が膨らみだし、男性服で男性用トイレに入っても清掃員さんに「お姉さん、こっちじゃないよ」などと注意されるようになるころまでは、女性服などをろくに買ってもいなかったんですよね。服装とかよりも体への嫌悪感が先立つタイプだったので、まず体をどうにかしてからでないとこんな体のままでは女性服なんて恥ずかしくて着れないというような気持ちもあって。

私が実際に性別移行しだしたときには、ネット上で探してもホルモン治療やSRSの話はいくらか見つかるものの、裁判の話などはほとんどありませんでした。なので、この記事がそうした情報を探しているかたの参考になったらいいなと思います。

私が書いた大作自分史に関しては、探してみたらきちんとファイルが保管されていたので、固有名などをぼかしつつ当たり障りない部分だけでも「こんな感じのものを書きました」と公開できたらいいかもと思ったりしています。なかなかそういうのも参考にできるものが見つかりませんからね。私のが参考になるかというと、長すぎてあんまり参考にならない気もしますが……。

ゲーム紹介『one night, hot springs』、『last day of spring』

トランス女性が日常的に突きつけられる選択の追体験

npckcさん(Twitterアカウント: kc 🍡 (@npckc) on Twitter)が制作したゲームです。下のリンク先からダウンロードをすることができて、無料で遊ぶこともできますが、npckcさんをサポートすることもできます。タイトルは英語ですが、日本語でも遊べます。
npckc - itch.io

このふたつのゲームは登場人物と舞台を共有していて、『last day of spring』が『one night, hot springs』の続編に当たります。どちらもハルちゃんという若いトランスの女の子が中心となっていて、ジャンルとしてはオーソドックスなノベルゲーム。プレイヤーは主人公に代わって、主人公が決断をすべき場面でいくつかの選択肢からひとつを選んでいくことになります。

ハルちゃんは温泉に入れるのか

『one night, one springs』の主人公はハルちゃん自身。ハルちゃんは仲のいい女友達の誕生日に、どうしても来てほしいと頼まれて一緒に温泉宿に来ています。そんなハルちゃんが過ごす一夜を、プレイヤーは体験することになります。

いきなり宿泊名簿に記入を求められ、名前と性別の欄にペンが止まるハルちゃん(戸籍の名前や性別は変更していない)の姿を突きつけられるといよいよゲームが始まります。温泉に誘われてどうするか、貸切のお風呂が満室だったら諦めるのかそれとも勇気を出して女風呂に入るのか。ハルちゃんが突きつけられる選択は、まさにトランスの女のひと、特に手術を受けていないそうしたひととして日々経験するような選択そのもので、それがゲームの選択肢として提示されることで、プレイヤーはトランスとして生きるということをシミュレートできるようになっているみたい。

ほんとに、手術も受けて戸籍も変えたいまだって、お風呂やトイレは悩みと決断の連続なんですよね。家族で温泉に行くというときにどうするかだとか、あとお風呂以外でもトイレはどうしたらいいのかというのも。

私はホルモン治療がだいぶん進むまで服装も男性服を着て、トイレも男性用を利用していましたが、だんだんとそれでも清掃のひとに「お姉さん、こっちじゃないよ!」と注意されるようになって、それでも女性用トイレは怖くて使えなくて、仕方ないから誰でもトイレを使うようにしていたものの、古い劇場なんかだとそんなものなかったりもして。その都度、「どうしよう?」と頭のなかにいくつか選択肢が浮かぶのですが、まさにその通りのことがゲームで展開されます。

ちなみに古い劇場で誰でもトイレがなかったときには、「勇気を出して女子トイレに」という選択肢と「スカートとかを履いているけど男子トイレに」という選択肢と「劇場の外でトイレを探す」という選択肢が浮かんで、最初のは怖いしふたつ目のは耐えられないしトラブルも招きかねないから、結局10分ほど歩いて最寄りの駅のトイレに行きました。

それはともかく、『one night, hot springs』は、そうした経験をしてきた身からしたらリアルで「あるある」な選択が次々と迫ってきて、ぜひいちどシスのかたにもプレイしてみていただいて、どんな感覚なのか経験してみてほしいと思いました。絵も可愛らしくて、ほのぼのしますし。

ちなみに私はゲームとはいえどうしても温泉に行ってみるという選択肢が怖くて選べず、けっきょく入れませんでした。でも温泉にも選択肢次第でちゃんと入れるみたいです。

ハルちゃんにスパをプレゼントしよう

続編の『last day of spring』の主人公は、一作目でハルちゃんと出会い、友達になったエリカちゃん。おとなしいハルちゃんと対照的に、さばさばした印象の女の子です。

前作では初めは私からするとけっこうずけずけとした物言いで印象が悪かったのですが、でも前作でもけっきょくエリカちゃんと友達になるというエンディングを迎えたので、個人的に思い入れは強いキャラクター。

ハルちゃんの誕生日が近づいていると知り、エリカちゃんは何かハルちゃんの喜ぶものをプレゼントしようと考えます。そこで思いついたのがスパ。プレイヤーはエリカちゃんとなって、スパの施設にトランスのひとの利用の可否を尋ねたりしながら、ハルちゃんの誕生日のお祝いを準備することになります。果たしてハルちゃんに素敵な誕生日を用意することはできるのでしょうか?

この続編は主人公がシス女性で、しかもハルちゃんと友達になって間もないひとだというのが鍵となっています。スパなんて、トランスの当事者からしたら(特に手術を受けていない場合は)いわゆる「見えている地雷」なので、たぶんまずもって候補にならないと思うんですよね。問い合わせるまでもなく。エリカちゃんはそのあたりがピンと来ていなくて、しかも思い立ったらぐいぐい行くタイプだから、そのまま突き進んでしまう。そんなエリカちゃんが思いがけず出くわす社会からの拒絶を前に、プレイヤーは「いったいどんなプレゼントならハルちゃんに贈ることができるのか」という悩みをシミュレートしていくことになります。

これはシス女性が主人公ということで、私からすると逆に「え、こんなことも気にせずに突き進むの?」と戸惑ったりもしました。でもそこでぶつかる壁は、まさに日々味わっていたもの。スパに行こうとしたことは私自身はないのですが(いまなら行けそうだし、今度行ってみようかな…)、これに似た経験は脱毛してもらえるところを探すときにしましたね。

脱毛って、少なからぬトランス女性にとっては切実な問題なんですよね。私もホルモン治療が20代後半からという成人後に移行したタイプの人間なので、どうしてもヒゲなどが生えてしまっていました。「そのままでも女性なんだ」という考えかたのひともいるとは思うのですが、私自身はどうしてもそんな自分の外見への嫌悪感が先立って、脱毛は生きていくうえで必須のものに思えました。

でも、安価な脱毛サロンって女性限定のところが多いんですよね。そうなると戸籍が男性のままでは申し込みにくい。それに「女性限定」のスペースってたいていの場合「シス女性ばかり」になりがちなので、トラブルが起きないか怖かったりもするんです。

で、高価な医療施設での脱毛だと男女問わずに受けれたりするのですが、今度は男性だと値段が高かったりして、そして当然のようにそちら側に振り分けられるんです。

そういえば移行がだいぶん進んでからVIOもお願いしたのですが、そのときは「男性専用院に予約してください」と言われたりしました。あれは本当につらくって、受付はどこを見ても男性だらけで、そこかしこに貼られている宣伝用の掲示も、女性の美容系のものではなく薄毛治療とかなんですよ。待合ではいつも隅っこに、ほかのひとに背を向けるようにして座っていました。で、施術を受けたのちにお化粧をしたくてパウダールームを借りたりするのですが、案内されるのは「ルーム」とは名ばかりの、部屋の隅っこでカーテンで仕切られ、鏡と椅子が置かれているだけの場所だったりして、脱毛はしたいのだけれどいくたびに心をナイフで削られるみたいで、毎回終わると体調を崩していました。

そんなふうにして、本来は女性なら受けられるはずのサービスをシス女性と同じように受けるというのが、とんでもなく難しいんですよね。『last day of spring』は、そんな難しさをエリカちゃんとともに体験できるゲームとなっていました。

どんなふうに生きているのかを知ってほしい

何よりこういったゲームがつくられて、何人ものひとにプレイされるようになったというのが、心の底から嬉しかったです。

先日の北村先生とのやりとりや、それに対していただいたリアクションを見ていても感じたのですが、トランスのひとたちがどんなふうな人生を送り、普段なにを経験し、どんな感情で、どのような決断をしているのかみたいなことが、当事者のひとりである私から見たら意外なほどに、シスのひとたちにはあんまり伝わっていなさそうなんですよね。あのときの記事の内容も、私はけっこう当たり前の、素朴なことばかり書いていたつもりだったのですが、「こんなふうに感じていたなんて知らなかった」といったリアクションをいくつもいただきました。そういうふうに知ろうとしてくれたことに感謝しつつ、私は私で「こんなふうに感じていると知らなかったなんて知らなかった」と驚いていたんです。そんななか、このふたつのゲームはまさにそれをシミュレーション的に感じさせる仕組みになっていて、トランスのひととシスのひとを橋渡しする素晴らしい作品だと感じました。

もちろん何度か言っていることですが、トランスの人々も一枚岩からは程遠く、ひとによって経験や感じかたもかなり違います。ですので、すべてのトランスの女のひとがこのゲームにあるような感じかたをしているわけでは、きっとありません。でもそのことさえ注意していただけたら、ある種のトランスのひとの人生に触れるとてもいいきっかけを与えてくれるゲームだと思います。

声の性別イメージを判定するプログラム

声のことって悩みますよね……

こんにちは。

トランス女子のみなさんは、やっぱり声に悩んでいらっしゃいますか? 意外と私が実際にお会いしたことのあるかたは、もう聞くからに自然な声で、そこまで気にする必要もなさそうなひとが多いのですが、私自身はすっっごく悩みました。というか、いまも悩んでいます。

何せ音域を測定するアプリで調べたら、もとの音域は福山雅治さんを歌うのにちょうどいいとか出たくらいで、私の声って本当に低いんです。軽いストーカー被害? みたいなものを受けて警察に相談したときも「女性と聞いていましたが、本当にご本人ですか?」と確認されてショックを受けたこともあったり……

で、そんな私なので、いまはいちおうつつがなく暮らせて電話でも困ることはほぼなくなったとはいえ、しゃべり方とかでどうにかやっていっているというだけで、フェミニンな声を出すコツの話とかはあんまりできません(教えてほしいくらいです!)。その代わりに、自分の声の聞こえかたをどんなふうに確かめたりしているのかというお話をしたいと思います。

友達や家族に聞いても……。ならロボットに聞いてみよう!

本当に声へのコンプレックスが強くて友達や家族にことあるごとに「私の声、どんなふうに聞こえる?」などと訊きまくる面倒くさいひとになったりも、私はけっこうしてしまいます。でもそんなふうに訊いたところで、それで「普通の女のひとに聞こえるから大丈夫」と言われても、たぶん向こうは心からそう言ってくれているのだろうとは思いつつも、それでも「もしかしたら気を遣ってくれているだけでは……」と疑ったりしてしまいますよね。私はいつもそんなふうに考えて、どうにも自分の声に自信がつきませんでした。

(余談ですが、「大丈夫だよ」と言われたときには納得しきれない私でも、友人の男性などから「セクシーで好き」とか言われたときには嬉しかったし、自信になったりもしたので、トランスの女のひとの声を褒めるときには「普通の女のひとに聞こえる」より、もっと積極的に褒めてあげたほうが喜ばれるかもしれません。)

もう、いっそ、情けも容赦もなく機械的に「あなたの声は女性的です」とか「あなたの声は男性的です」とか言ってくれるロボットがほしい! 家族や友達では優しすぎる! そんなふうに思ったときにたまたま知ったのがこれでした。
What is Your Voice Gender?

これはKory Beckerさんというかたがつくったプログラムで、いろんな男女の声のデータをもとにした機械学習によって男性的な声と女性的な声のパターンを見つけ、新しく与えられた声データをどちらっぽいか判定するというものです。パターン認識というやつですね。確か将棋のAIとかでも使われている技術です。

顔写真だと下のようなサービスがありますが、それともたぶん似た仕組み。(こちらは、私はそんなに使ったことがありませんが……)
https://www.how-old.net/
pictriev, 顔検索エンジン

…と言いつつ、詳しい仕組みは解説を読んでも私にはよくわからないのですけれど、でも使い方は簡単。自分の声をWAVファイルで録音し、このサイトの「Choose WAV File」という表記のすぐ下のボタンからアップロードするだけ。スマホからでもできます。しばらく待っていると下のほうに判定結果が出ます。

たぶん、たとえて言うなら、いくつかの判定人がそれぞれの基準でfemale(女性)かmale(男性)かを選び、そんな判定人たちが会議をして決めた最終結果が大きくfemaleかmaleかで表示されるという感じなんだと思います。そうした判定人や会議にあたるものが人工知能のなかで実現されている。実際に判定を受けると、全体的な印象として女性的か男性的かが大きく表示され、その下に細かな要素ごとの性別イメージが記載されます。

Beckerさんは、どうもご自身もトランスの女のかたらしくて、だからきっと遊びでもなんでもなく本気でつくってくれていると思います。

あくまで目安です

こんな便利なプログラムですが、ただあくまで目安、くらいに思っておいたほうがいいかもしれません。というのも、実際にどんなデータを使って学習させたのかわからないのですが、Beckerさんが英語圏のかたみたいなので、たぶん英語を話すひとのデータではないかと思うんですよね。

で、映画とかを見ていると思うのですが、英語を話すときと日本語を話すときって、どうも声の高さとか強さとか、だいぶん違いますよね。だから英語と日本語だと、声の質と性別イメージももしかしたらずれるかもしれません。

それにあくまでプログラムがパターンをもとに判定しているだけなので、人間の認識とずれる可能性もないとは言えないように思います。

ですので、もし「男性」と出てきてもあまり深刻に受け止める必要はないのではないかなと思います(私もわりとよく出ます)。ただそれでも、こういうふうにわかりやすく結果が出るものがあったら、「もっと練習しよう」とモチベーションが上がったり、「試しにこんな声の出しかたをしよう」といろいろ実験できたりということはあるかと思いますので、それぞれでうまい使いかたを見出していただけたらと思います。

あ、使ううえでの注意点がひとつあります。それは大きなデータは読み込めないということ。音質にもよると思うのですが、私はだいたい20秒くらいの録音データを使っていました。アップロードしてみてエラーが出たときには、ファイルサイズを小さくしてみてください。

あとこのプログラムはあくまでBeckerさんの好意で公開されているというだけのはずなので、企業のサービスなどとは違って、いつどんな事情でどんなふうに公開が取りやめになるかわかりません。その点もご了承ください。

最後に声について、スーパー低音な私からでもできるアドバイス、というほどたいそうなものではないですが、実生活上の経験から感じたことをちょこっと挙げておきます。

  • 裏声やがんばって出すような声は、違和感のほうが強くなりがち。
  • ぼそぼそしゃべると響きが余計に重たくなるので、はきはき堂々としゃべったほうがいい。
  • 無理して喉を締めたりするくらいなら、高さを目指しすぎないほうが自然な声に近づけそう。
  • 世の中の多くのひとは思いのほか他人の声なんて気にしていない。

ぜんぜんフェミニンな声ではない私でも普通にやっていけているので、意外とわりとどうとでもなる気がします。

漫画紹介 たかせうみ『カノジョになりたい君と僕』

女の子として生きたい子とそんな彼女に恋をする女の子

たかせうみさんの漫画『カノジョになりたい君と僕』は、GAMMA! というサイトで連載されているウェブ漫画。まだ連載中です。
https://ganma.jp/kanoboku

現在書籍版も二巻まで発売されています。

カノジョになりたい君と僕 1 (1) (アース・スターコミックス)

カノジョになりたい君と僕 1 (1) (アース・スターコミックス)

ネタバレも含みますので、気になるかたはまず読んでみてからご覧ください。

この漫画では、主にアキラちゃんとヒメちゃんという二人の人物を中心とした物語が展開されています。

アキラちゃんはずっと男の子として育てられ、暮らしてきましたが、本当はずっと女の子として生きたいと思っていました。その気持ちを最初に打ち明けた相手が幼馴染のヒメちゃん。これまではヒメちゃんの前でだけ女の子として暮らしていましたが、高校に入学するのを境に、女子用の学生服を着て、女子生徒として登校しようとします。その一方でヒメちゃんは昔からアキラちゃんに恋心を抱いていて、けれどその気持ちとアキラちゃんを女の子として認識するということとのあいだに矛盾を感じて葛藤しているのでした。

パスしない外見のトランスヒロイン

アキラちゃんは、漫画で見ているとほんわかした絵柄もあって、とっても可愛くて素敵な女の子なんです。ですが、背は高く、親に髪を伸ばすことを許されないために髪も短く、骨格もけっこうしっかりしたかたちで描かれている。作中でも、だいたい見るひとにトランスであることがバレていて、学校側は事情を聞いて配慮しているものの、生徒のあいだでは噂になっていたりするし、からかわれたりもします。

その様子がとても現実味があって、だからこそそんなアキラちゃんを支えようとする周りの友達たちと、そうした友達に向けるアキラちゃんの愛がとても優しく感じられます。

転校初日に心ない言葉をぶつけられて落ち込むアキラちゃんの力になろうと、学ラン姿で登校することを選ぶヒメちゃんの力強さもすごい。おどおどと大人しいアキラちゃんに代わっていろんなひとにぶつかっていくのですが、このアンバランスな友情もだんだんと重要なテーマになってきていて、きっとこれからそのあたりが語られていくことになるのだろうと思います。

体格がしっかりしているアキラちゃんがなかなか普通の女の子扱いをされず、ほかの女の子たちが体力のいらない仕事をするなかひとり力仕事を任されて、ひとの見ていないところで泣き出す場面とか、私も身に覚えがありすぎて一緒になって泣きそうになってしまいました。

ほかの女の子への妬み

この漫画でいま読んだ範囲(この記事執筆時には25話まで)でいちばん強烈だと感じたシーンは、ヒメちゃんが学ランを脱いで、女子用の制服で登校する場面でした。

アキラちゃんが憧れている先輩がヒメちゃんを「かわいい」と褒めるのを見て、アキラちゃんはショックを受け、学ランを脱ぐだけで褒められて羨ましいと嫌味を言ってしまいます。他方でヒメちゃんはそういう扱いを好んでいない子なんですよね。このもやもやは、私も日常的に感じています。

知識として、男性から可愛い女の子扱いをされるのが苦手だという女性がいるのはよくわかっているし、周りにも実際にそういうひとがたくさんいます。でもどうしても、ただただ「女の子扱い」を求めて手間もお金もかけてひたすら努力して、それでもなおなかなかそこに到達できない身としては、どうしようもなく羨望と妬みを抱いてしまうんです。普通にいるだけで女性扱いされるなんて羨ましい、ずるい、私はこんなにがんばっているのに…、と。

これはもちろん、相手にぶつけるには不当な八つ当たりなんですよね。そんなことはよくわかっている、でもこの気持ちから逃れられない。もしかしたら、私にとって自分のトランス性の根幹にはこうした気持ちがあるのではないかと思えるくらいに、これは本当に拭い去りがたい気持ちです。(いつかこんな気持ちもなくなればいいのですが…)

けれど男性にそんなこと言われたくもないし、そもそもほかの誰でもなくアキラちゃんに恋をするヒメちゃんからすると、当のアキラちゃんにそんな嫉妬を向けられるのって、何重にも苦しいことですよね。

そういうもやもやを、『カノジョになりたい君と僕』は、目をそらさずに描いている。それがすごいと思います。

爽やかな青春の物語

こんなふうに書くとどろどろと疲れるお話に響くかもしれませんが、『カノジョになりたい君と僕』を覆っているのは、むしろ優しくて爽やかな空気です。登場人物たちはみな可愛らしく、互いを思いやり、いろんなどうしようもない気持ちを抱え込みつつも、どうにかともにやっていこうとがんばる。その様子が本当に微笑ましく、すごく青春の物語なんですよね。

アキラちゃんだけでなく、ヒメちゃんやそれ以外の人々も、自分自身のアイデンティティを形成していこうとする。その様子もまた、青春の物語という雰囲気を強めます。

面白く、爽やかで、そして切ない。おすすめの漫画です。続きも楽しみにしています。

映画紹介『Girl』(2018)

バレエダンサーを目指すトランスの少女の物語

ルーカス・ドン監督作、オランダとベルギーの合作。

映画「Girl/ガール」公式サイト 2019年7/5公開

日本では2019年に公開され、この記事を書いている現在もわずかながら公開中の映画館があります。

第71回カンヌ映画祭にてカメラ・ドールとクィア・パルムを受賞したとのこと。カメラ・ドールはわかりますが、クィア・パルムというのはこの情報を調べていて初めて知りました。2010年からあるみたいで、『わたしはロランス』、『キャロル』、『BPM』などの有名な作品が取っているみたい。

バレエダンサーを目指して努力し、そして自分自身の体の形状に苦しみ続ける少女を描くこの作品は、実在のダンサーであるノラ・モンスクールさんをモデルにし、また監督とモンスクールさんのあいだでの密なコミュニケーションのもとで製作されたそうです。批評家からは概ね高評価である反面で、トランスやクィアの批評家からは批判的な意見もあるとのこと。

いろいろな意見があるのも承知のうえで、私はこの映画が大好きです。今年はいまのところ旧作も含めると50本弱の映画を見ていますが、そのなかでいちばん好きかもしれません。

この記事では、映画『Girl』の概要と、私が魅力を感じた点、あと最後に軽くこの映画が引き起こした議論について私なりに思ったことをお話しします。

 

あらすじ

バレエダンサーを目指す15歳のトランスの少女ララ(ヴィクトール・ポルスター)。お父さんと弟と三人で暮らしながら、有名なバレエ学校に進学することになります。バレエを始めた時期の遅さから先生からは不安の声が上がるものの、全体のレッスンのほかに体に鞭打つようにして個人レッスンも受け、努力するララは、次第に認められていくようになります。

その一方で、ララは自分の変わった体への苦悩を抱き続けます。第二次性徴を投薬で抑制しているものの、ペニスへの嫌悪感を拭い去ることができない。お父さんや病院の先生からは「その体のままでももうすでに素敵な女の子なんだよ」と諭されるものの、ホルモン治療や性別適合手術を望み、そうしないと自分が女の子だとは思えないと語り、普段はテーピング(と字幕にありましたが、いわゆる「タック」、ペニスや睾丸を無理やり押さえ込んで目立たなくする手法のことかなと思いました)で体つきを矯正しています。

自らを追い込むような練習、体つきを気にしての食事量の減少などが徐々にララを衰弱させ、よりいっそう追い詰めていく。衰弱すればするほど医者は性別適合手術に難色を示すようになり、悪循環に陥ってしまう。その果てにララは、ある重大な決断をすることになります。

 

理解のある社会にそれでも残る苦悩

この映画で印象的だったのは、ベルギー(が舞台だと思うのですが、勘違いだったらごめんなさい)におけるトランスへの理解や受容の度合いが日本とはぜんぜん違うように見えたこと。上でも書きましたが、どうしても自分の体が女性の体だとは思えないというララに、お医者さんやお父さんが「その体のままだも素敵な女の子じゃないか」と語りかける。それって少なくとも私自身は治療の過程では、特にシスのひとからは言ってもらったことがない言葉で、いろいろな経験の末にようやく自分から「どんな体であれ女性は女性なんだ」と考え、言えるようになったという感じで、だから「そんなふうに普通に語られる世の中ってすごいな」と感心しました。それにバレエ学校でも女子生徒として入学を認め、更衣室なども普通に使わせていて、「社会的な受容」というあたりでは日本よりすごく進んでいるという印象でした。

もちろん、眉をひそめたくなるような出来事やひどい行為もあるんです。バレエ学校の先生がララに目を閉じさせて、ほかの生徒に「ララを女子生徒として受け入れることに反対のひとはいますか?」といった趣旨の問いかけをする場面がある。あれって先生側からしたらトランスの子も受け入れ、シスの子にも配慮して、と当たり障りのない対応のつもりなのでしょうけれど、大勢のひとのなかでひとりだけ名指しで「この子を女の子として受け入れられる?」と問いかけられるのって、ちょっと胃が痛くなるような話ですよね。そもそも受け入れるも受け入れないもなく、ララはもともと女の子なのに、何の権利があってほかのひとがそんなことを決めるのかとも思いますし。

それにバレエ学校の子たちもなかなかひどくて、本人たちは悪気がないのかもしれないけれど、自分の体を嫌ってシャワーも浴びずにこっそり着替えるララに向かって「シャワー浴びなよ」と平気で言ったり、合宿では「私たちの裸を普段見てるんだから、あなたも見せてよ。女同士なら見せられるでしょ?」と迫ったりする。シスとトランスを同等に扱うことって、必ずしも体について同じように扱うことではないはずなんです。というか、シスのひと同士だって体にコンプレックスがあるひとに、ことさらにそれを見せるように言ったりするのって侮蔑的ですよね。それと同じで、自分の体に苦悩しているララに向かってそういうふうに言うのって、当人の意図はわかりませんがひどく侮蔑的で、そしてそうした言葉を向けられたときのララの表情も見ているだけで胃が締め付けられるようになりました。

そんなことはありつつも、でも日本と比べるとまだ社会的な障壁は少ないらしいベルギー。さらにララはいわゆるpassableな外見や声で、トランスのひとを見慣れていてたぶん多くのひとよりすぐに気づく私から見ても、街で見かけたらシスの女の子だと思いそうな雰囲気なんですよね。演じているのがシスの男性であるというのに驚いてしまったくらい。なのでこの映画では、社会は(差別的な目は残しつつも)概ねララが女性として生きる道が整っていて、しかもララ自身もまた周りから普通の女の子にしか見えないような姿をしている。でも、それでもララは苦しみ続けるんです。

あとで述べるように批判もあるポイントですが、この映画では繰り返し、強迫的なまでにララのペニスが注目されます。ララは周りに心配され、止められても、テープで隠すことをやめない。テープを貼ったり剥がしたりするシーンが何度も反復され、テープに覆われていないペニスからララが顔を背ける様子も繰り返される。ララにとって、性別違和はおそらく何よりも体への拒絶感なんです。だから、社会でそれなりにやっていく目処が立っていたとしても、その体がある限りララは自分自身を受け入れられない。社会がララを受け入れない以上に、はるかにララ自身がララを受け入れていないんです。トランス映画では性別移行そのものか、もしくは世間からの偏見といったものが焦点になりやすく思うのですが、この映画のララはすでに女性としての生活を確立していて、しかも世間の態度は比較的穏やかなものとなっていて、そうした語られがちな困難についてはずいぶん薄まっているはず。それでも、それだけではララは救われない、その痛みがすべての画面に溢れているような映画となっています。

この描き方が、私には強烈に響きました。トランスの当事者には、性別違和を主に社会の問題だと感じるひとからそれを主に体の問題と感じるひとまでのあいだで、グラデーション的にさまざまな感じかたのひとが存在しています。ひとによっては、「社会の偏見が問題なのであって、それが解消されれば治療や手術なんてしないで堂々と元の体のまま自分の性別で暮らせるのだ」と言うひともいます。ですが私自身はそうではなく、むしろ「戸籍変更の要件から手術が取り除かれたとしても、世の中のひとが『元の体でもちゃんと女性だ』と言ってくれたとしても、私は体を鏡で見るたびに嫌悪感を抱いていただろうし、結局は手術を受けただろうな」という側です。だから、ララの苦しみかたは、私にはどうしようもないほどにリアルに感じられました。

ララが自分の体を大事にしていないみたいに無茶なトレーニングをしたり、途中でピアスを開けたりしているのも、私にはなんとなくわかるように感じました。ピアスは私も性別移行前に開けていましたし、私の場合はダンスやスポーツに打ち込むといった方向ではないですが、昔から自分の体は粗末に扱っていたというか、「この体が私の最大の敵」という感覚が強かったから、痛めつけてやると少しだけ気が楽になれたような気がしたんですよね。無茶な飲み方をして気分が悪くなったりすると少しだけ気が晴れたり。私にとってはそれこそが性別違和の経験の核だったから、この映画を見たときに「ああ、私のあの苦痛を描いてくれている!」と感動できたし、あの痛みを知らないひとたちにぜひ見て、感じ取ってほしいとも思いました。

 

賛否の声

詳しく情報を追っているわけではないのでWikipediaで紹介されているようなものを軽く読んだだけなのですが、この映画にはいくつかの重大な批判も出たそうです。

ひとつはもちろん、主演がシスの俳優であること。『タンジェリン』や『ナチュラル・ウーマン』、さらには『サタデー・ナイト・チャーチ』やドラマ『Pose』と、トランスの人物はトランスの俳優が演じるという流れが強まっているなか、トランスの女の子をシスの男性が演じるというのには疑問の声があったようです。私はそこまでこだわらないほうですが、もしトランスの俳優が出ていたらさらに嬉しかったかなとは思いました。

もしかしたら役柄のために演じられる俳優も限定されていたというところがあるかもしれませんね。10代の女の子で、しかも激しく踊るシーンやバレエのレッスンのシーンがあり、第二次性徴前の体つきをしている。この設定をみんな叶えようとするとトランス/シスを問わずほとんど俳優さんが残らないのではないでしょうか。ただ、10代を演じられるようなトランスの俳優だとか、ダンスシーンを演じられるトランスの俳優だとかが見つからないのって、背後にはトランスのひとたちがシスのひとに比べて俳優やダンサーといった業界に進出しにくいという事情がきっとあると思うので、いつかそれが解消され、当たり前のようにトランス俳優が候補としてなを連ねるというふうになってくれたらいいですよね。

それ以外の批判としては、この映画がララのペニスに執拗に焦点を当てているということに関するものがあったようです。性別違和の問題を身体の問題に極限しているとか、そうした関心の持ち方がシス男性的だとか。

ただこのあたりはモデルになったモンスクールさんも「でもこれこそが私の経験なのだ」という趣旨の反論をしているようなのですが、トランスの当事者のなかでもたぶん感覚がわかれるところなんですよね。私は、ララと同じように、まさに何よりもまず身体の問題、ペニスへの強烈な嫌悪感として性別違和を経験していて、手術を受ける前は本当に毎日毎日自分のペニスのことで頭がいっぱいだったりしました。お風呂に入るとき、着替えるとき、どうしてもそれが目に入り、気になりだすと「こんな体でどうやって生きていったらいいんだろう」と落ち込んでしまい、どうにか目立たないようにしようとする。そんな私にとっては、実際の経験がまさにあんな感じだったという感覚が強くて、どうしても「性別違和って確かにこんな感じだよね」と思ってしまうんです。ただこれは一部のひとの感じかたであって、トランスのひとがみなそういうふうに感じているわけではありません。体そのものに嫌悪感を持っているわけではなく、この体を認めない社会こそが困難の中心なのだと感じているひとにとっては、もしかするとほとんど偏見の塊のような作品に見えるかもしれません。

だから、私と同じような感じかたをしているトランスのひとにとっては、いわゆる「刺さる」映画だと思います。でも私みたいな感覚がピンとこないトランスのひとにとっては、むしろ不愉快かもしれません。このあたりは、たくさんの種類の映画が出てきて、どういうふうにトランスとしての経験を受け取っているひとにとっても、なんらかの「自分を描いた映画」が見つかるようになるといいですよね。

そんなわけで、シスのひとには、「私からすると『ララは私だ』と思えるくらいにリアルだったけど、でも『こんなのぜんぜん違う』と感じるトランスのひともいるので、あくまで『こう感じているひともいる』くらいに見てください」というところかなと思います。

 

とにかく美しい

いろんな意見はある映画ですが、それでも単にトランスを描いているというだけでなく、とにかく美しくて、単純に映画として魅力的なので、ぜひいろんなかたに見ていただきたいです。

わざと手ブレを残したカメラで青春らしい不安定なみずみずしさを醸し出すレッスンシーン、幼い弟を抱きしめ、優しく面倒を見るララの姿、そしてはじめての、見ていて微笑みたくなるような(でも、だからこそ苦しい)恋、お父さんの優しさ、多くを語らず苦しみを抱え込むララの表情。私みたいに自分の経験に照らして共感するというのは、シスのひとには特にですけど、なかなか難しいかもしれません。でもそういうものを抜きにしてもこの映画の美しさと、だからこそ際立つ痛みは、きっとスクリーンから伝わるはず。そして、もし可能なら、もしかしたら普段何気なくすれ違っている人々のなかにも、その痛みを抱えているひとがいるのかもしれないと思いを馳せてもらえたら、とても嬉しいです。

ご挨拶

北村先生のご著書に私が覚えた違和感について、多くのリアクションをいただきました。特に当事者の方からの共感の声や、非当事者の方からの「こんなふうに感じていたなんて初めて知った」といった声に、どう語ったらいいのか自分でもわからないままにがんばって文章にしてみたという努力が報われたように思います。

もともとこのブログは、北村先生のご本についてのお話だけをするつもりでつくったもので、過去の記事にもそのように書いておりました。

ですがだんだんと、私自身ももっとトランスの人々を描く素敵な作品の話をしたい、日常で起きた嬉しいことや悲しいことの話もしたいという気持ちが湧くようになりました。日常的にオープンにしていないためにそうした話をする相手が少ないという事情もあります。

ですので、今後はたまに当事者のひとりとして気に入っている作品の紹介をしたり、トランスとして生きていくうえで感じること(埋没派でそこそこパスしている身でもどうしても感じることがいろいろあります)のお話をしたりする場所にさせていただけたらと思います。もし興味がおありの方がいらしたら、今後もよろしくお願いいたします。

あ、それとツイッター上で「名前らしい名前がないから呼びづらい」といったご意見をお見かけしました。それもそうだと思いましたので、今後は「ゆな」と名乗ることにいたします。

北村先生の応答を受けて

今朝方に通知が来まして、北村先生が先日の記事に言及しながらブログ上で応答してくださったそうです。

https://saebou.hatenablog.com/entry/2019/07/16/075455


まず、私がほんの少し前に書いたたったひとつのブログ記事に気づき、それを読み、さらにはそれに応えてくださった北村先生の誠実さに、感謝と尊敬の念を捧げさせてください。ありがとうございます。

また私の誤読や誤解については、拝読した状況が状況なので、その通りなのだろうと思いますし、これらについては私の責任です。


ただ少しだけ気になるのが、幾人かのトランスのひとの評をあげて「トランスでもこのように批判している」という趣旨のことをおっしゃっておられますが、もちろんそういうことはあるだろうと思います。ただ私の記事のなかでもそのように書いているかと思いますが、トランスのなかでの多様性はかなり大きく(国内のSNSなどでもGID概念へのコミットメントが強い当事者とそうでない当事者で互いに互いの無理解を批判しあったりしていますし、そうした異なる陣営はフィクション作品に関する評価にも大きく食い違いがちです)、あるタイプのトランスがそのように批判的に見ているから、別のタイプのトランスの経験も掬い取れていないということは基本的には言えないかと思います(実のところ私には、それがこちらが女性としての経験を語ったときに、「でもこちらの言い分と同じことを言う女性だっているではないか」と別の女性の発言を引き合いに出す男性と、どれだけ違う身振りなのかわからないのです)。前の記事で紹介している『Girl』も、性別の問題を体の問題に極限していると批判する当事者に対し、モデルとなった別の当事者が「しかし、あれは私の経験そのものなのだ」と応答するという一幕があったと聞きます。「その映画は現に誰かの経験を掬い取っているのではないか、そしてそのひとはその言葉を必要としているのではないか、既存の批評的な観点から評価する前に、まずこれまで語られてこなかった経験を語るものとしてのその意義をきちんと示してほしい」それが、私の思いです。そうでもしないと、批判を受けるような映画でしか掬い取れないような経験を現にしているトランスには、声が失われてしまいます。

またステレオタイプに関して、あのようにしょうもない(と私も思いますが)ひとであれ、そしてそれが暴力的な仕方であれ、異性愛(あるいは少なくとも両性愛)の男性に求められるというのは、異性愛者でありトランスである私からすると、間違いなくその機会があれば実際に心から、喜んで求めるものである、と言って良いと思います。それは他のステレオタイプを切実に求める気持ちの延長線上に、現実的にある願望であり、また脅威です(この傾向は私自身もしばしば友人から気をつけるように注意されていますが)。映画で描かれている彼女たちがそうしたものに惹かれるというのも、単にステレオティピカルな表現であるというより、私たちが持つまさにそのような痛々しい傾向を描き出してくれているものだと私は感じました。そしてそのように映画製作者に目を向けてもらえることに、私のようなひとが生きていると知っている視点が存在することに、少なくとも私は勇気を得ます。その意味において、そうした映画もまたエンカレッジングたりえます。私たちのそうした弱く痛々しい姿でさえ。それを語る物語が少なすぎるいまの社会では。


これまで語ってきたような点で、少なくとも私のようなタイプのトランスは疑いもなく「保守的」です。長い髪やスカートを好むだけでなく、男性への好みなどもひっくるめて。ここには、もしかしたら私の側の、ひとつの混同があるのかもしれません。少なくとも私やそれに似たタイプのトランスの人々は、そのひと自身の傾向として「保守性」を持っており、それはしかも以前の記事で述べたような人生の経路からして、ほとんど不可避的とも思える仕方で「持たざるをえない」ものとなっています。それはそうしたタイプのトランスにとって、生きることそのものと、アイデンティティ形成それ自体と結びついているのです。もちろんそれを「保守性」と呼ばれることに抵抗はあります。むしろ私は、そうした「保守性」を私に認めない人々や社会の保守性に抗い続けて生きてきたのですから(こうした観点からすれば、保守的か進歩的かの二分法は、等しく「保守的」と呼ばれるひとのあいだの、具体的には保守的なマジョリティと「保守的」なマイノリティの背後にあるこうした違いを無視するものと感じられます)。ともあれ、そうした人物を描くなら、その表現はどうしたって「保守的」にはなるだろうと思います。問題はそれが、描かれている対象はそうではないはずなのに(そうではない面が重要な点で大きいのに)単に保守的な表現であるのか、あるいは描かれる側の人物の切実な生き方としての「保守性の希求」を描いたがゆえの結果なのかということです。

たぶん北村先生は、作品の表現としての保守性を批判しているのではないかと思います。他方で自身のそうしたどうしようもない「保守性」に自覚的であり、しかもそれをトランス性と切り離しがたい仕方で経験している私は、そのような作品を見てむしろ「私が描かれている、私は確かにこういうことをする、こういうふうに行動する、こういう男性に引っかかる可能性も生々しく想像できる」と感じます。そして、それがほかの作品にはないこうしたトランス映画の、少なくとも私から見た重要な価値なのだと。言い換えるなら、表現の問題なのか、現実の生の問題なのか。私は、なかなか描かれることのない生き方をしてきたトランスの一人として、トランス映画に対して後者を大きく見ています。(もちろんトランスの描き方が何の知識も踏まえていなくてだめだろうという作品もたくさんあり、そうした場合は「不適切な表現」だと判断しますが)


もしかしたら私は、(身勝手な話ですが)現在の社会においてトランス映画を社会的な望ましさみたいな観点から批評されることそのものに違和感を覚えているのかもしれません。私にとって重要なのは、そこに現実に生きるなんらかのトランスのひとの経験とリンクするものがあるかどうか、言い換えると、その映画のなかに確かにトランスの人物が生きているかどうかです。私は映画批評というものをわかっていないので、もしかしたらそもそも批評というのはそうしたものに関わるものではないのかもしれませんが(だとしたら端的に言って映画批評はそもそも私の人生とは大して関係がないのでしょう)、いまようやく広まりつつあるトランス映画について語るなら、その観点から、どんなひとの、どんな経験がここに語られているのかという観点から見てほしいと思うのです。あるいは、さらによく経験を捉えるにはどうしたらいいのか。そうした経験の参照や経験への想像なしに与えられる批評は、私には私たちのなまの生き様を重要でないものとして脇に置いているように感じられるのです。そしてそれを私は、シスのひとがまたトランスとしての生き方を無視している、と認識せざるをえないのです。(いいことなのが悪いことなのかはともかく、トランスの批評家がトランス映画を評するときには、私はそうした感じ方をしません。その批評そのものに、私とは異なるそのひとにとってのトランスの経験が結びついているのをしばしば見出せるからです)


私が北村先生のトランス映画に関する評をざっと読んで(すでに述べたように、本当にざっと読んだのみです)、ショックを受けたあとにひとりの友人に最初に送ったLINEは、「こんな本を読んだのだけど、このかたはトランスの友達とか知り合いとかは周りにいないのかな…」でした。おそらく、(これは応答を受けたうえで思ったことなので先の記事と整合的な話になるのかはわかりませんが)私がもっともショックだったのは、トランスの経験、トランスのひとの生き方、人生というものへの視点の欠如だったのではないかと思います。最終的に「保守性」を批判するならそれはそれでいい、でも単に表現の問題ではなく、この世界の現実にそう生きざるを得ないトランスのひとの存在、そうなるに至る心理、なかなか語られることのないそうした生のありようがスクリーンに乗せられることへの感情、そうしたものへの視点がすっぽり抜けているように見えて、それがシス目線に感じられたのだと思います。実際いただいた応答でも、私の経験に関しては単に「語ってくれてありがとうございます」くらいに触れられているだけに見えたのですが、それこそがいちばん重要なのです。私たちの経験と、それとどうしようもなく結びついたものとしての「保守性」が。

実のところ、その「保守性」が自身の経験やアイデンティティと固く結びついているがゆえに、そしてそれが言及されていた映画にうまくあらわされているがゆえに、表現の保守性に対する批判が結果的に私自身や似た人々の経験やアイデンティティの拒絶に感じられたのでしょう。この点は私の混同なのかもしれません。ですが、マイノリティを描く作品をマジョリティのかたが語るとき、マイノリティの生のありようを生身では知らずに批評することになる以上、その危険性は(トランスの場合に限らず)常にあるのではないでしょうか。それが、マジョリティがマイノリティ映画の「保守性」やその他の不十分な点を批判するときの、どうしようもなくつきまとう危険であり、常に意識しなければならない罠なのではないでしょうか。それに実際、私は応答をしていただいたいまなお(あるいはいっそう)、北村先生は言及されていた作品だけでなく、私やそれに似たひとのような生き方や価値観、アイデンティティ形成の仕方そのものにも結局のところ否定的なのではないか(少なくともそうしたニュアンスを残しているのではないか)という疑念を持っています。またあの本を読んだひとが現実に「保守的」なトランスに出会ったとき、それを否定的に評価することにいくらかの理由を与えるような書き方になってはいないでしょうか? もしそうした書き方になっているなら、それは少なくともある種のトランスに対して否定的な感情を煽るものと言ってもいいのではないでしょうか? 重要なのは映画そのものというより、現に「保守的」でありそうならざるをえないトランスが存在しているということ、そしてそうした人々に対してあの本が示唆する見方なのだと思います。

あるいはこう言ってもよいかもしれません、映画に対するその否定的評価が、その映画に自らの姿を見出すタイプのトランス女性の生き方への否定的評価までも含意する可能性を考え、その可能性をきちんと排除して語っていましたか? と。なされていたのかもしれません。でも私がざっと読んだとき、私はそこに私自身にまで波及する否定的評価を感じ取りました。問題は映画そのものというより、そのことなのです。

表現そのものと表現されるものをきれいに分けることはできないでしょうが、もし「保守的」なトランスの生き方を否定するような考えを示唆しているのでないのならば、そこは区別がつくように、しているのは純粋に表現の話であり、私や私に似たトランスたちがこのように、あるいは語られていた映画のなかで描かれるように生きることそのものは肯定されると示す、あるいは少なくともそこには価値評価が及ばないようにするという形を取っていただけていたら、と感じます。


ナチュラル」という言葉についてのお考えはわかるように思います。ただそれなら『ナチュラル・ウーマン』の主人公を語るうえで不適切(という語り方だったと思うのですが)ではなく、シスもトランスも関係なく誰に対しても女性に「ナチュラル」と形容することは不適切だから、ということを真っ先に上げてほしかったように思います。例えば同名の日本の小説や、同名の歌についても同様だと。それにそれが理由なのであればそれは一般的な話であって(女性にナチュラルもアンナチュラルもないから「ナチュラル・ウーマン」はよくない)、マリーナの作中での扱いなどについてはあの文脈で触れる必要はそもそもなかったのではないでしょうか? 

私自身はトランス女性を「自然な女性」だし、「生物学的女性」と呼びますが、これは結果的に自然な女性や生物学的な女性の条件にトランス女性も満たせるものしか入れないようにするということなので、結果的に出てくる認識は、おそらく北村先生と大差ないように思います。妊娠や出産に関する機能はもちろん、性器の形状もXX染色体を持つか否かも、私は自然な女性であるかどうかとは関係ないと考えています。要するに私にとって「自然な女性」は単に「女性」と同義で、そこに生物学的決定論の側面は入り込まないよう徹底されており、ただあえてそれを「自然な」と呼ぶことを許すことで、「『自然な』という形容詞自体を使わないようにすることで、胸のうちで、あるいは暗黙の仕方でそれを一部の女性用の特別な、語られざる形容詞として保存する」という可能性に明示的に抗っているというだけです。そのように「語らずして確保する」ことさえ許す気はない、と。私が『ナチュラル・ウーマン』に見出したのもその方向の思想です。

個人的な意見としては、これは北村先生の採用する立場よりももっとラディカルな考えなのではないかとも考えています。実際、北村先生が「自然」という言葉に抱いているであろう懸念は、私を、あるいはマリーナを「自然な女性」と呼ぶとき、おそらくすでに解消されているでしょう。性染色体がXYで、ヴァギナも少なくとも生まれたときには持たず、子宮もなく、生理も妊娠もない私たちに対して「自然」を使うとき、懸念されていた「自然な女性」の好ましくない含意の何が残っているでしょうか? むしろそれらはすべて晴らされることになり、残るとしたら「しかしそれを『自然』と呼ぶのに違和感がある」くらいの話ではないでしょうか? これはトランス女性を「自然な女性」と呼ぶことから即座に出てくる含意です。むしろ私としては、「自然性」が持つ好ましくない含意を徹底して打ち消すためにこそ、私たちをきっぱりと「自然な女性」と呼べばいいのに、とさえ思います(もちろんこれは、シスとトランスに本質的な身体的ないし生理学的な差が存在するという見解のひとであれば、取れない立場でしょうが)。トランス女性も「自然な女性」と呼ぶその用法ならば、体や機能や形状がどうあれ、シス女性もすべて「自然な女性」と呼ばれることになるでしょう。ですので、マリーナを「自然な女性」と呼ぶことへの拒絶の理由としては、一部の女性を特権視し、他を抑圧するような好ましくない含意というのは、本当ならまるで理由にはならないのではないかと思います。あの邦題に私が見出す思想は、どんな体をしていようと、シスだろうとトランスだろうと、あらゆる女性は「ナチュラル・ウーマン」であり、不自然な女性なんて存在し得ないというものなのです。実のところトランス女性を主人公とし、あれだけ差別され、暴力にさらされる物語の邦題をあえてこうすることの狙いとして、いったいほかに何が考えられるでしょうか? それが私の認識です。


北村先生が丁寧に応答してくださったおかげで、私自身にも私が気にしていたことの核が見えてきたように思います。それは取り上げられている映画の評価以上に、批判を受けているその映画で描かれているように(それゆえ批判されているような表現で確かに正しく捉えられる仕方で)現に生きているトランス女性の存在が、そうした人々のそこに至る経験や人生とともに無視されているのではないかということのようです。なので、映画の評価としては仮に批評家たちのあいだで一般的に受け入れられるものであったとしても、それを現にそうした作品を自分たちの物語だと思っているトランス女性たちと丁寧に切り離すことなく論じたならば、彼女たちを(私も含みます)不当に無視し、彼女たちの視線よりも自らの視線を優位に置くような側面を、その批評は持っているのではないかということなのです。実際の経験と丁寧に切り離し、純粋に、人々の実際の人生と無関係なものとして映画を論じる準備をするか(それならば「勝手なことを」と腹を立てることはあるかもしれませんが、差別的とまでは思わないで済むかと思います)、さもなくばまさにそのように生きるトランス女性と向き合い、その声を聞いてほしい、これが私の伝えたいことです。


『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』を読まれたかたには、女性の立場への意識が高いひとが多いだろうと想像します。ですので、このように考えてみてもらえないでしょうか? 北村先生ではなく、なんらかの男性が同じような本を書いたとし、それを読んだ一人の女性が私と同じような仕方で「女性の経験を踏まえていないではないか、これでは女性を無視していて差別的だ」と訴えたとする。そしてその男性は北村先生がしたのと同様の応答をし、いま女性は私が書いているのと同じような応答をする。「シス女性」を「男性」へと、「トランス女性」を「女性」へと書き換えた形で。わかりませんが、そのようにしたなら、もしかしたら私の感じていることがいくらか伝わるかもしれません。その女性は、男性側の批評に反論したのでもなく、男性側の批評を強化する論拠やほかの女性の意見を与えるように求めたのでもないのです。ただ、自分や自分に似た女性の経験や物の見方をあなたは気づいていないのではないか、気づかずにそれをないものとして扱っているのではないか、と言っただけなのです。(マジョリティ側のひとが納得のいく基準をもとに抽象的なレベルで議論をする前に、いまここにある個々人の具体的な生のありようを知ってほしい、それを知らないうちにそんな議論に入らないでほしいという私の気持ちも、女性である、同性愛者である、民族的マイノリティであるなどの立場のひとにとっては、私にはもちろんトランスであることと女性であることについてしかわかりませんが、おそらく似たようなことをしばしば感じているものではないでしょうか?)


追記: 

シスのかたから「保守性」を(トランス自身についてであれ、トランスの表現についてであれ)語られるときに私が感じていることは、おおむね哲学者の千葉雅也先生が以前に語っておられた、非カテゴリー的な者にとってのカテゴリー的なものの切実さ(そしてその「保守性」をマジョリティのひとこそが容易に非難すること)といった話と同じようなことではないかと思います。

それに関してはツイートもされておられましたが、『世界思想』46号に掲載されている千葉先生の論文にもまとめられていたかと思います。千葉先生はシス男性のかたですが、私はこの関連する千葉先生の言葉に「私が日々感じていることが表現を得た」という感動を覚えました。


追記2

書き落としていましたが、「古くさい」が特に否定的なニュアンスではなく「古典的」とのことだそうで、そうであるならばそれは納得しました。ただ普通はそれは否定的な言葉として使われているのではないでしょうか。その点は、「古くささ」より新しさのほうを強調して語ってくださればよかったのだろうと思います。「トランス俳優を使うのは新しいが、古くさい」、あるいは『クレイジー・リッチ』は「アジア人キャストばかりで作られているのは新しいが、古くさい」という形で語られていたように見えて、キャスティング以外のどこを高く評価していたのか少なくともざっと一読したところ見えやすい書き方ではなかったように思います(余談ですが、『クレイジー・リッチ』も私から見たら理想の男性と理想の関係を築き理想のプロポーズをされる、最高に素晴らしい映画でした)。もちろん、私が見落としていたのかもしれません。

そして取り上げられていたトランス映画に新しい点があるとしたら、それはまさにトランス女性の経験とのリンクではないか、そこは相変わらず見過ごされているではないか、とまだ感じます。そこを知らないで語れるのだろうか、と。ここでも問題は、トランス女性の経験に目を向けられているのかということなのではないかと思います。


追記3

もう少し簡潔に書けそうなので記させてください。

ある作品で描かれる限りでのある人物の振る舞いや装いが(つまりはそのような人物として描くことが)ステレオティピカルである、ないし保守的であると否定的に主張するとき、それはその人物と同じように振る舞い装う現実の人物もまたステレオティピカルで保守的であり、よくないという含意を伴うのでないでしょうか? 例えば作中での男女の関係性の描写が保守的であると主張するとき、もし現にその関係性を模したような関係を築く男女がいたとしたら、それは批判されるべきだということを、そうした評価は含意しないでしょうか?

そうした批判を、もっぱらマジョリティの特権性を解体するためだけに用いるのなら構わないのです。一見当たり障りのなさそうな作品に潜むそうした点を暴くことは、日常においてもそうした当たり障りなさそうなことをするひとの背後にある特権性を暴き立てるでしょう。実際、あのご著書の大半はそうした方向に向けられているものと想像します。

しかし、仮に方向性としてマジョリティ男性と似た「保守性」が見られるのだとしても、あの箇所で相手取られているのはシス女性である北村先生よりもむしろ弱い立場であるトランス女性なのです。問題は、作品の保守性を語るときに、仮に念頭にある目的がマジョリティ男性の特権性の解体だったとしても、その語りにおいて、まさに作品に描かれているように振る舞ってしまいざるを得ないタイプのトランス女性に対しても否定的な評価を同時に下してはいないか、ということなのです。言ってみれば、北村先生はご本人としてはマジョリティ男性だけを目標にその保守性を暴こうとしているのかもしれませんが、そのときに撃ち出す銃弾が私たちを貫通して進んでいるように思うのです。その銃弾が、私たちが甘んじて受けるべきものだというのならまだわかります。「こういうふうに生きてきたひとがいるのも知っている、こんなふうに言われたくないのも知っている、しかしあなたのためにこそ言うのだ」という形なら、パターナリスティックでシスプレイニング的ではあるかもしれませんが、存在に気づいているとは思ったでしょう。しかし、単に見えてないから気づかず撃ってしまっていたというのでは救いがありません。そしてあのご著書を読んだときに、私はそもそも自分たちの存在を気付かれてさえいないと感じたのです。

実のところ、あのご著書を書かれるに当たって、批評家や研究者など以外にはどの程度トランス女性やトランス男性の体験について調べ、どの程度実際のそうした人々と交流したのでしょうか? そうしたひとの経験や生き方についてどの程度のことを知り、言及されていた映画とそうしたひとの生き方との結びつきの可能性をどのくらい意識されたうえで語っていたのでしょうか? せめて当事者同士の交流会や、当事者が多くいる学会のようなものには顔を出し、意見交換くらいはされたのでしょうか? 私が気にし続けているのは、「その批評は妥当なのですか? 根拠があるのですか?」ではありません。「私たちがどう生き、何を感じてるのか知っていますか? 知ったうえで語っていますか?」なのです。こうした「そもそも私たちの生き方に関心を持ってはいないのではないか」という疑念は、数人のトランスの批評家の意見を自説の補強のために持ち出されてもなくなりはしません(そもそも私の素朴な感想も数え入れたとして、私自身も含めて複数ある当事者の声のうちで、これは拾い上げあれは拾い上げないというその選択は、いかなる権利のもとでなされているのでしょうか?)。そして、もし仮にトランスの人々の具体的で多様な生き方に無関心であったのならば(そうでないことを願いますが)、それにもかかわらずトランスを描く作品についてほんの数人のトランス批評家の言葉を持ち出すだけで自分はそのよしあしを断じる立場にいるのだというその前提は、この社会の差別的な構造に根ざしてはいないでしょうか? 私たちがシス女性に逆のことをすることは基本的にできないのです。そんなことをすれば、よくて無視されるか、悪ければ「けっきょく男だから女のことがわからないんだ」と言われるだけですから(もちろん北村先生はそんなことを決して言わないと思いますが、現在の風潮では世間的にはそうでしょう)。



*単純な書き間違いなどがいろいろ見つかるため、適宜修正しております。ご了承ください。