ゆなの視点

30過ぎに戸籍の性別を女性に変更しました。そんな私の目から見た、いろんなことについてお話しできたらと思っています。

小説紹介 遍柳一『平浦ファミリズム』(ガガガ文庫)

今まで見たことのない「リアルじゃない」トランス女性

久しぶりに、小説の紹介をさせてください。

ご紹介したいのは、これ。

平浦ファミリズム (ガガガ文庫)

平浦ファミリズム (ガガガ文庫)

遍柳一さんの『平浦ファミリズム』です。

ガガガ文庫というライトノベルレーベルから出ている小説で、2016年の小学館ライトノベル大賞というので、ガガガ大賞という賞を受賞したそうです。あまり詳しく知らないのですが、どうもこのガガガ大賞というのは「受賞作なし」となる年が多いそうで、現在のところいちばん最近の受賞作とのこと。

この小説では、主人公のお姉ちゃんとしてトランス女性のキャラクターが出てくるのですが、これがすごくすごく新しかった! なぜいままで耳にしたことがなかったのか不思議です。

あらすじ

『平浦ファミリズム』は、その名の通り平浦家という家族の物語です。「ファミリズム」という言葉は、造語かと思っていたのですが、いま調べてみたら実際にある言葉だそうです。いずれにせよ、その意味するところは「家族中心主義」とでもいった思想ですね。

平浦家は、一家の支柱であった母を失い、それでも不器用ながらそれぞれが自分のできることをし、互いを支えながら、いわば不安定な安定性のもとで暮らしています。主人公一慶は、高校生でありながら母から教わったプログラミング技術を駆使して稼ぎを得ていて、高校には面白さを感じておらず、さぼりがち。それ以外に父、姉、妹がいるのですが、父は社会でやっていくのが苦手で、アルバイトでどうにか収入を得ている状態。妹は、家族以外の人間と話すと体調不良に陥るという状況で、学校には行かずに自宅で閉じこもって暮らしています。このふたりは、社会ではうまくやっていけないけれど家族にもそれ以外の周りのひとにもものすごく優しく、思いやりのある魅力的な人物として描かれています。

で、やはりトランス当事者として気になるのは、お姉ちゃんなのですが、このひとは高校を中退してキャバクラで働いているという設定になっています。

この小説では、そんな家族が、家族だけが大事だと考える主人公が、それでもお節介を焼く学校の人々と交流し、また家族同士で支え合いながら、さまざまな事件を通じて、少しずつ社会との関係を変化させていく姿が描かれています。詳しい内容はぜひ実際に読んでみてほしいのですが、家族を守ろうとする主人公の姿と、だからこそその姿に胸を痛める家族たちという構図が切なく、面白い作品です。

けんかっ早いトランス女性のお姉ちゃん

この作品のお姉ちゃんの描き方で驚いたのは、それが「リアル」でないことでした。お姉ちゃんは極めて美人で腕っぷしが強い人物として描かれていて、要するに、「漫画っぽい」んですよね。そして、それが私には革命的な素晴らしさに思えました。

トランス女性を描くというとき、むかしの漫画などでは、「オネエ」、「オカマ」的に偏見に満ちた描き方をされることが多かったように思います。というか、いまでもいくらでもありますよね、そういうの。そうした作品は、そもそもトランス女性を描いているとは感じられず、私は基本的に共感や投影をせずに読むことになります。ネガティブな偏見に限らず、少女漫画などでたまにある、冷静で俯瞰的な視点から主人公にアドバイスをしてくれる、妖精か仙人のようなトランス女性キャラも同様で、ああいうのは悪い意味でのファンタジーであり、そもそもトランス女性キャラになり切っていないように、私は感じます。

これに対し、最近ではトランスの人物をリアルに描こうという傾向が強まってきているように思います。以前に紹介した渡辺ペコさんの『ボーダー』は、不満はあるもののそうしたもののひとつかと思います。映画の例を挙げると、『Girl』や『タンジェリン』、国内では『彼らが本気で編むときは、』など、実際のトランス女性が感じているようなことを反映させたキャラクターづくりが少しずつ増えているように感じます。こうした作品には、共感も投影も大いにする。のですが、ただこうした作品の場合、「リアル」すぎて、そこで描かれている人物は「投影しつつあこがれる」だとか、「投影しつつ活躍に胸を躍らせる」といった手合いの楽しみ方がしやすいものではありませんでした。

でも、どうでしょう? 例えばシス女性を描く作品であれば、そういうのがいくらでもあると思いませんか? 投影できる程度にリアルでありながら、実際の読者自身にはできないような活躍をしたりする人物、そんなものは映画を見ても小説を読んでも漫画を読んでも、いくらでもいるのではないでしょうか? 私が見たり読んだりする範囲では、そういうトランス女性キャラは極端に少なく感じます。(ひょっとしたら、トランス男性はなおさらかもしれません)

投影できる程度のリアリティと、あこがれられる程度のアンリアリティを併せ持つ描写、これがトランス女性にはほとんど見つからないように、私は思っていました。

『平浦ファミリズム』が達成したのは、まさにこれでした。

まずこのお姉ちゃんは、「オカマ」や「オネエ」的には描かれていません。主人公から見てしっかりとした年上の女性として描かれている。けれど、あちこちの言動や思い出に、当事者のひとりである私にも共感できるような点がしっかりと詰め込まれています。性別移行をしたいのに言い出せない時期に言っていたこと、カムアウト後の父親の振る舞いへの反応、そうしたあたりで「私もきっとこのように感じ、このように言っただろう」としっかりと思える。こうした点で、『平浦ファミリズム』は、リアルなトランス女性の描写を成し遂げていました。

その一方で、美人で腕っぷしが強く頼りになるお姉さん、このきわめてフィクション的な人物像は、少なくとも私にはまるで当てはまりません。けれどこのアンリアリティは、先述のリアリティを梃にして私がこの人物に自己投影できるがゆえに、「こんなふうになれたら楽しそう」といった憧れにもなりますし、またそうした人物が私でも直面し得る/し得た困難を解決していく姿に熱さをも感じさせてくれるものとなっていました。

「気持ちよくあこがれられるフィクションの人物を知りたい!」と、もし思っているトランス女性がいたら、『平浦ファミリズム』はそのひとつの候補になるかもしれません。

これからのトランス女性描写は

繰り返しますが、そんなフィクションの人物は、いろいろな面でマジョリティである人々であれば子供のころから容易に見つかるのだろうと思うのですが、私には驚くほど新鮮なものでした。

でも、もしかしたらこういう作品は少しずつ増えていくのかもしれないですね。去年のニュースで、マーベルがトランス女性を主人公とした映画を撮る予定を公表したというのがありました。また、Altersというアメリカのコミックでは、ひとりの若いトランス女性が超能力に目覚め、自分のアイデンティティと超能力というふたつの秘密を抱えながら活躍するという物語が展開されています。まだ読めていないので描写の良しあしはわかりませんが、The House on Half Moon Streetという小説は、ヴィクトリア朝時代のトランス男性が主人公のミステリだそうです。

私たちはこれまで、フィクションの世界のなかにほとんどいなくて、ロマンティックな大恋愛をすることも、魔法の世界を冒険することも、難事件に巻き込まれることも、近未来の世界を生きることもありませんでした。でも、これからは少しずつ、そうした物語が生まれるのかもしれない、生まれてほしい、と思います。現実とは異なるたくさんの世界にも私たちに似た人物がいて、現実にはないような活躍をしている、そんな当たり前なフィクション経験が、いつか私たちにも当たり前になりますように。

「みんな」になれない「私たち」、あるいは私

新型コロナウィルスの感染拡大から、いろいろなことが起こっている。少なからぬ人々が在宅勤務へと業務形態を変え(もちろんそうできない職種のひともいるが)、必要なものを買いに出るときにはマスクを欠かさず、そして新たな感染者の数の推移を見守ったり、政府からの発表を確認したり、そして声をあげたりしている。

みんなで、一丸となって。「いまこそみんなで手を取り合ってこの困難を乗り越えるときだ」というような声も聞こえる。

多くのひとにとっての、「みんな」になることへの、この容易さに、私は戸惑っている。


もううろ覚えなのだが、ベルナール・スティグレールという哲学者が、「私」と「私たち」と「みんな」について考察している本があった。『愛すること――「自分」を、そして、「われわれ」を』という邦題の本で、そこではグローバル資本主義の拡大のなかで失われていく「自分自身への愛」が語られていたように記憶している。(私の記憶が正しければ、だが)スティグレールの考えでは、「私」というものは「私たち」という集団抜きには成り立ち得ない。例えば「〇〇という会社の一員としての私たち」、「〇〇というバーの常連としての私たち」などなどのように、ひとは同時に複数の「私たち」に属しているのだが、そうした複数の「私たち」の重なり合いとそれらのあいだの差異において「私」は立ち現れるのであって、そうしたもの抜きに「私」というものが自律的に存立しているわけではない、というのだ。スティグレールの問題意識は、そうしたたくさんの「私たち」がかき消され、ただひとつの「みんな」に回収されていくという現状に向けられていた。

「私たち」という集まりは、地図とカレンダーの共有によって、その個別性を獲得する。「〇〇という会社の一員としての私たち」は、特定の時間にある所在地に集まり、特定のスケジュールに沿って行動することによって、別の地図とカレンダーを持つ集団とは区別された、固有の「私たち」になる。しかしグローバル化のなかで、国境さえまたいで多くの人々が地図やカレンダーを共有する事態が生じている。スティグレールはワールドカップのことを挙げていたように記憶しているが、従来のミニコミュニティ的な「私たち」と違い、世界規模で同じサッカーの試合を同じ時間に見ようとしたり、それに合わせて行動を形成したり、ということを人々はするようになっている。その結果、「みんな」という大規模な集団が生起し、複数の「私たち」のあいだの差異が消失して、それゆえ「私たち」の個別性は失われ(要するに「私たち」は立ち行かなくなり)、複数の「私たち」の重なりと差異のあいだに現れる「私」も失われていく。しかし「私」への愛は、それを成り立たせる「私たち」への愛からしか生まれ得ないのだから、「みんな」の時代において「私」を愛することは困難になり、それが一部の(大義を伴わないたぐいの)テロリズムなどを生み出すに至っているのではないか。おおよそ、そのような話をしていたように思う。


コロナの時代の人々は、あっという間に、はるかにもっとラディカルに、「みんな」を指向するようになった、と思う。スティグレールが問題意識を持とうとも、それでもミニコミュニティ的な「私たち」は生き延びていたように思うのだが、そうしたものも次々と場所を失い、予定を失い、共有すべき地図とカレンダーを喪失していっているように見える。グローバル資本主義がグローバルに共有される地図とカレンダーを効率的に提供することで様々な「私たち」の地図やカレンダーを委縮させていったのとは全く別の、偶然的で、ほとんど物理的ともいえる形で、暴力的な仕方で、「私たち」の地図やカレンダーはかき消されていく。いま残されているのはオンラインの場所と時間であり、そしてそこは新型コロナウィルスへの対策という観点から、画一的に統制され始めているように見える。もっとも、たまたまそういう面しか、私には見えていないというだけかもしれないが。

そうした状況を眺めていて感じるのは、多くのひとは「みんな」であることに、そこまで違和感も持っていなければ、それによって自分への愛が成り立たなくなるわけでもなさそうに見えるということだ。ごくごく自然に、「みんな」を名乗り、「みんな」へ呼びかけているように思える。……私には難しい仕方で。


「みんな」になるのも、それどころか「私たち」になるのも、私にはいつだって困難だった。

幼稚園のときに、すでにあまりに生きていくことが苦痛で、吐き気や腹痛を覚えるようになり、頻繁に登園拒否をするようになっていた人間だ。小学校も中学校も高校も大学もその調子で、まともに所属することは出来なかった。そのほかの「私たち」にもうまく馴染めなかった。多くのひとには自然と混じれるのであろう、同性たちの「私たち」にも、私は30歳ごろまで、いやもしかしたらいまだって、うまく入れずにいた。幼稚園のときに、男の子たちが「俺、生まれ変わっても絶対に男になる。女になんて生まれたくない」などと笑っていたことを覚えている。私がたぶん、人生で初めてはっきりとした絶望を感じたときだった。その後も、「なよなよしている」というので、男の子たちからはことあるごとにからかわれ、いじめられてきた。いや、少なからず女の子も、その調子だった。

性別移行によって「女になる」というような言い方もある。けれど私の感覚としては、女性として生きていて実感するのはむしろ、世の中の女性の多くが「女性と言えばシス女性」ということを暗黙の前提として(というより、それを疑ったことさえなく)暮らしているということだ。女性たちの空間の多くは、だから私には居心地が悪く、そして例えば性差別などに関連する文脈で、女性たちのことを指して「私たち」と、私も言うことがあるが、そのときには自然とそう言っているのではなく、何とも言えない怖さ、そのように言うことで誰かから「いや、あなたは『私たち』のひとりではない」と指さされるのではないかという感覚を覚えながら、あえて、頑張ってそのように言っているのだ。

もちろん、私に「私たち」が欠けていたわけではない。私も家族の一員であったりはしたし、ごくごく少人数ながら、友人グループというのもいたし、少なくともいまは仕事もしていて、その関連での「私たち」はある。ただ、性別で規定された「私たち」のいずれにも属せなかった私は、そのいずれかに属していることがほぼ自明視されているような多くの「私たち」からもあぶれてしまい、結果的に備えている「私たち」が極端に少なく、途切れ途切れになっているということは言えそうに思う。そして、明らかに、私は「私」を愛することなく生きてきた。というより、まさにスティグレールが言っていたように、そもそも愛すべき「私」を持っていなかった。それはグローバル資本主義のゆえに失われたのではなく、そもそもこの社会に「私」が形成される場所はなかったのだと思う。


私にとって、だから、「私」を愛することは、自分は女であるが、それだけでなくて、やはりあくまでトランス女性なのだという自覚と裏表になっていた。トランス女性のあいだにも多様性があるということは承知のうえで、それでも私が「私たち」とそれなりに自然に言えるのは、トランス女性たちのことを指す場合だ。そしてその「私たち」に属しているとはっきり感じるようになったことによって、ほかの「私たち」への所属も整理されだしたように思う。先に述べた恐怖はいまだに持ちながらも、そうはいっても私は女性たちの「私たち」の一部なのだ、ともいまでは思うし、様々なコミュニティにおいて求められる「女性」のスタンダードに合わずとも、「そういう女なんだから仕方がない。それでも私はこの『私たち』の一員だ」と思えるようになった。いまの私は、「私」を愛していると感じるし、たまに深く落ち込むことはあっても、「私」がそもそも存在しないという感覚は、もう克服しているように思う。少なくとも、小学校のころから30歳ごろまで常に付きまとっていた希死念慮は、最近は姿を消している(トランスには珍しくないことだと思うが、私は小学生のころに漫画などを通じて「自殺」という概念を理解して間もなく、「自分はいずれこれをするのだろう」と考えて遺書を書いてみたりしていた)。

私にとっては、「私たち」を獲得し、そして「私」を獲得するのは、長く困難な道のりだった。


そしていま、このコロナの時代において、私は「私たち」を解体できず、「みんな」になれない自分を感じている。多くのひとが、「それぞれいろいろな事情はあるだろうけれど、いまはみんなで一丸となって頑張らないと」という発想を、自然と受け入れているように、私には見える。そして「みんな」でどうすべきかを考えているようだ。人々の「みんな」化は強烈で、遠隔授業が可能になったり、さまざまな会議をオンラインで、場合によってはアバターで実際の姿を隠したりもして開催できるようになったりしているらしい。私が絶えない苦痛のゆえに学校に行けなくなったときに、遠隔授業で単位を認めてもらうことが出来たなら、膨大な補習を授業内容自体は理解しているのに受けなければならなくなるなんてことはなかっただろうに、会議や面接のオンライン化や、(そこまでフォーマルな場面ではないときには)アバターの使用が前から認められていたなら、面接に行った先でトイレの利用などについて苦慮したり、まだ移行し切れていなかったころの自分の姿を我慢して人前にさらすといったことをせずに、働くことが出来たはずなのに、といった気持ちがむくむくと湧き上がる。私はずっとこれまでの社会の仕組みが不便だと思っていたし、それを機会があれば言うようにしていて、それでもぜんぜん変わりそうになかったものが、こんなにあっさり変わるのか、と、はっきり言えばこれは社会が変わり得ることへの肯定的な気持ちというよりは、社会を動かしているのは自分ではない「誰かたち」だという否定的な気持ちだ。だからこそ、それゆえに、私はこの「みんな」に私は属せていないと感じる。みんなが「みんな」になって盛り上がっているのを、私は外からぽつんと見ている、というように。


思えば、スティグレールの「私」と「私たち」と「みんな」をめぐる話には、マジョリティとマイノリティの対比が欠けていたのかもしれない。いろいろな「私たち」のなかには、とりわけ「みんな」に接近しやすいものと、そうでないものがいるのではないか。「みんな」に包摂しやすい「私たち」ばかりに属しているひとは、気軽に、シームレスに、「私」と「私たち」と「みんな」を移行しているように見える。ひとによっては、スティグレールの懸念に反し、「みんな」を新たな「私たち」と見なして、「みんな」である「私」をますます愛しているようにさえ見える。けれど、私にはもともと自然と入り込める「私たち」が少なかったし、そしてトランス女性としての「私たち」に属することでいろいろな「私たち」に所属できるようになったとはいえ、今度はこのトランス女性としての「私たち」は「みんな」とのあいだに壁を持っているようなたぐいの「私たち」であるように、「みんな」が動き出したときに零れ落ちる「私たち」であるように感じている。

シームレスに「みんな」になれる人々のあいだにも、それを肯定できるひともいれば、それに「私」の喪失を感じて苦痛を覚えるひともいるのだろうが、そもそも「みんな」になれない私は、「私たち」はそのもっと手前で足踏みをしているようなものだ。これまでもずっとそうだった、といえば、そうだ。私は、たいていのひとの遥かに手前で、いつだって立ち止まり、進みあぐねている。

千田氏の応答に対して

「女」の境界線を引き直す意味-『現代思想』論文の誤読の要約が流通している件について|千田有紀|note

「虚偽」という言い方は「誤読」と変更してくださったみたいです。ありがとうございます。

迷ったのですが、「虚偽の要約」とまで言われて黙っているとまるで私が嘘をついているかのようなので、コメントいたします。

「『女』の境界線を引き直す」というタイトルに決めたのは私だ。かつて、「女とは子どもを産む存在」「女は生まれながらにしてに女であって、解剖学的な運命だ」といった生物学的な本質主義にまみれていた「女」というカテゴリーを、さまざまな存在--トランス女性も含む、現実に存在する多様な女たちを意味するカテゴリーとしてずらしていくことを主張するとてもいいタイトルだと思われたのだ。

以下は掲載論考からの引用です。

そもそも「女性」というカテゴリーが構築的に作られるのであるとしたら、なぜ旧態依然とした狭い二分法に依拠したカテゴリーである「女性」に、「トランス女性」を包摂するかどうかが問われなければならないのか。なぜ多様性を否定する二元論を持ち出し、その片方に「トランス女性」という存在を押し込めるかどうかが、「排除」の問題として執拗に問われるのか。(253頁)

ここから「女性」というカテゴリーにトランス女性を包摂しようという内容を読み取らず、それと逆の主張を読み取ると「虚偽の要約だ」と言われると途方に暮れます。

ゆなさんによる要約は、ほとんどすべて、私が主張していないものである。

第1節の内容を要約するなら、要するに従来の社会ではシス女性がペニスを恐れる十分な理由があり、またその常識に即して性別分離のスペースが作られており、である以上は、ペニスを持つトランス女性をシス女性が恐れるのは常識に従っているだけで差別ではないのだということでしょう。

この応答記事のすぐ直後にはこうあります。

性被害者などがペニスを恐れる理由を理解し、一方的に差別だと決めつけないで欲しいと言っている箇所、いわば議論の枝葉末節のところが、なぜ本筋に来ているのかはよくわからない。

枝葉末節かはともかく、応答記事のなかですでに私にはシス女性にはペニスを恐れる理由があり、差別だと決め付けるべきではないという主張がなされているように見えるのですが、違うのですか?

枝葉末節であるかどうかは実際に読まれた方に判断を委ねますが、ペニスの話がそもそもトランス差別をめぐる言説の中心で常に語られる事柄であること、それをこの話題に取り組む人は誰もが知っていて、知っているべきであることは言っておきます。

またゆなさんのまとめの、「またその常識に即して性別分離のスペースが作られており、である以上は」の該当箇所はない。

これは確かに私の側での要約で明示的な記載はありません。ローリングとフォーステーターの話のあとに以下の文面があります。

私はこのマヤ・フォーステーターの意見、「生物学的性別は2つしかない」、「性別は生まれつきでなく性の自認で決まるという考えの"セルフID"を中心に性別変更を可能にすると、女性の権利が守られなくなる」の双方を支持しない。ただ記事からは、従来プライベートな場所と考えられた場所の性別分離のありかたが、問題の俎上にあげられてきることが見てとれるだろう。(248頁)

その後、トイレや更衣室、お風呂のようなプライベートな場所に焦点を当てることへのおかしさを(正しく)指摘する三橋さんの言葉が引用されます。続く段落ではこうあります。

「今日明日にでもペニスをぶら下げた人が女湯に入ってくるかのようなイメージを喚起するのはあきらかにトランスジェンダー の排除を意図したでっち上げ、デマです」という箇所は、三橋さんに賛同する(「トランスジェンダー の排除を意図した」の部分は判断を保留する)。しかし将来的に手術要件が廃止されたら、議論をしなければならない懸案事項であることが、逆に確認されてしまっている気もしないでもない。すでに「トランス女性が女子トイレを使うのは「権利」であり、手術要件がなくなったら、「女湯に入ることを認めなければならない」といったツイートも確かに見受けられる。こうした風呂をめぐる議論は、今現在と言うよりは、将来を見据えているからこそ不安が掻き立てられている側面があるのではないか。(249頁)

「手術」とはここでは性別適合手術を指します。その詳しい内容は当事者以外にはあまり知られていませんが、ともあれトランス女性がそれを受ければペニスがなくなるということは周知の事実で、ここでは手術要件が廃止されればトランス女性が手術なしに女性として認められ、女子トイレや女湯に入る権利を得るということが、将来を見据えているからこその不安の源であるとされています。女子トイレや女湯は性別分離のなされているプライベートな場所の例でしょう。これらを考えあわせて、ここでペニスの有無とプライベートな場所の話が繋げられていると判断しました。

そのあとの展開はこうです。

「将来的に女湯で、ペニスのついたトランス女性とともに入浴することを「誰とでも」「どんな場合でも」認めると明言しろ」といわれて、即答できるひとはいないだろう。トランス女性の「権利」を擁護するひとは、ターフが「「ペニスが嫌いだ」といいながら、ずっとペニスについて語っていること」を「すごく異常な光景」「日本における特殊な「闇」」と断じる。「嫌い」というよりは、「怖い」という文言が多かったと思うが、Twitter上では性暴力の後遺症のPTPDで男性器が怖いなら、「病院へ行け」というような乱暴な言葉も飛び交っていた。

しかしこれは、彼女わ達の意味世界によりそったときに、じゅうぶん理解可能である。なぜならつい数年前に刑法改正が行われるまで「強姦罪」は、女性器に男性器を挿入することによって成立し、それ以外は「強姦」という「犯罪」として認められなかったからだ。明治以降、女性には「貞操」を守る義務が課され、ときにそれは女性の命より重かった。貞操は結婚と引き換えねばならぬものであり、貞操を失った女性は責められ、ときに社会のなかで居場所を失った。こうした「貞操」ーー「処女性」をはかるメルクマールが、男性器による女性器への挿入と考えられている社会で、女性が男性器を恐れるのは故なきことではない。また男性の身体の定義をあげろといわれたら、多くのひとが「ペニスがあること」を挙げる社会で、「男性器はついているけれども女性だというジェンダーアイデンティティがあるから女性」という存在に混乱を覚えるのは、必ずしも「差別意識」からではない。女性たちがトランス女性と風呂やトイレを共有するときに、不安の源として「性器」に目が行くのは、これまた理由のないことではないのだ、後述するが、ジェンダーの議論で有名なジョン・マネーの「一卵性双生児」の事例では、事故でペニスをなくした男児が、それ以降女児として育てられている。それは当時の社会、そして現在の社会でもいまなお、「男性」の定義として、男性器が大きな役割を果たしてきたからである。ペニスに関する一連の意味は、「ターフ」が作り出したものではない。彼女たちはその「常識」をなぞっているのだ。(249頁)

ペニスを男性の定義とする慣習に従って性別分離空間が作られているという主張(と、シス女性がペニスに恐怖を感じることにはもっともな理由があるという主張)をここから見出すのは、誤読でしょうか? 判断は読んだ方に委ねます。

そもそもその話を結合するつもりがないなら、同じ節で続く段落で、明示的な話題転換もなくしないでください。だいたいそれならこの節は何の話をしているんですか?

私の論文において、ジェンダーアイデンティティや身体の構築性の「発想がトランスに帰属させられた」ことはない。考えてこともなかった。これがネットでは流通しており、非常に困惑している。

私が論じているのは、アイデンティティや身体までもが「生物学的な所与」であることを離れ、その構築性があきらかなった「時代」であるということである。まさに1章で述べたC-16がその証拠である。新自由主義的な潮流を背景に、トランスのみならず、すべての人のジェンダーアイデンティティジェンダー表現が尊重されることが法律で定められるようにすらなってきているのだ。これは事実的な指摘である。

以下を読んでいただきたいです。

本来的にはグラデーションでしかない私たちの身体が、いかに言語によって「典型的な男性」や「典型的な女性」としてくさびを入れられ、カテゴリー化され、この社会に生存させられるようになるのか。「身体」までも社会的に構築されているのだという考え方は、人文・社会学系のジェンダー論研究者で否定する者は、もはやいないだろう。

そしていまや、それらの動向を踏まえてあきらかに第三期に入っている。こうした第二器のジェンダーアイデンティティや身体の構築性を極限まで押し進めた際に、身体もアイデンティティも、すべては「フィクション」であるとされるのであったら、その再構築は自由におこなわれるべきではないかという主張である。

これはトランスに限らない。美容整形やコスメ、ダイエット、タトゥーなどの身体変容にかんする言説を検討すれば、身体は自由につくりあげてよい、という身体加工の感覚は私たちの世界に充満している。[……]

身体は作られる。アイデンティティは構成される。こうした構築性が意識されるのは、あきらかに第一期の「解剖学が運命である」という意識を解体しようとする第二期の営みの成果ではある。いまや、身体もアイデンティティも、自由に選んでよいものとなった。「ジェンダーアイデンティティ」は生まれながらにして所与であり、変更不可能であるからこそ、手術によって身体を一致させたいというGIDをめぐる物語が典型的に第二期的なものであるとしたら、たまたま、「割り当てられた」身体やアイデンティティを変更して何の不都合があるだろうかという論理は第三期的ななにかである(どちらが優れているといっているのではない。これらは理念型であり、現実には両者の論理はもちろん混在し得る)。(251頁)

ここからジェンダーアイデンティティを自由に構築する存在としてトランスが描かれている(GIDと対比されつつ)と読み取るのは誤読でしょうか? もし誤読なら、はっきりと「とはいえトランスのジェンダーアイデンティティは自由に構築されるものではなく、実際には当人たちにも選択の余地のないものなのだ」と書いてください(応答からすると、そう思っているのでしょう?)。

「「女性」とは別に「トランス女性」という線を引けばいいではないかと論じているわけです」と言うに至っては、非常な悲しみを禁じ得ない。そのようなことをしてはならないというのがこの論文の趣旨である。

トイレがどのように暴力と不安に満ちた場所として描かれ、ときにその不安はいかに差別に向かって動員もされる言説だったかということを指摘したうえで、様々なトイレの可能性を論じ(論文をぜひ読んで欲しい)、トイレの線引きの基準は性別ですらないかもしれないとまで思考しながら、「トランス女性が安全にトイレを使う権利」について考えようと述べている。

すべてのひとに安心・安全がもたらされるのかを問い、多様性のためには、相応の社会的なコストを支払い、変革していくことを合意することではないのだろうか。

このまとめの部分がなぜ、「女性」とは別に「トランス女性」という線を引けばいいではないかと論じているわけです、となるのか。そうしないための変革を提言しているのであるのにである。

以下を見てください。

そもそも「女性」というカテゴリーが構築的に作られるのであるとしたら、なぜ旧態依然とした狭い二分法に依拠したカテゴリーである「女性」に、「トランス女性」を包摂するかどうかが問われなければならないのか。なぜ多様性を否定する二元論を持ち出し、その片方に「トランス女性」という存在を押し込めるかどうかが、「排除」の問題として執拗に問われるのか。問題は「二元論の片方にトランス女性を「女性」として認め入れる」かどうかではなく、トイレの使用の際に、どのようなカテゴリーの線を引きなおすことで、皆が安全だと「感じられる」かどうか、という問題ではないのか。その基準は性別であるかもしれないし、ないかもしれない。そもそも「女性が安全にトイレを使う権利」とともに語られるべき事柄は、「トランス女性が安全にトイレを使う権利」でかるべきだ。なぜそこが従来の「女性」トイレだとアプリオリに決められているのか。私たちに必要なのは、どのような分割線を引くことで、すべてのひとに安心・安全がもたらされるのかを問い、多様性のためには、相応の社会的コストを支払い、変革していくことに合意することではないのだろうか。(253頁)

ここから「女性」とは別に「トランス女性」の安全を考え、それゆえ従来の女性トイレとは別の安全な場所を作れるようにすべきだという主張を読み取らない読解法が私にはまったくわかりません。おかしな言い方ですが、千田さんはこの論考の著者の文章をまるで理解されていないのではないでしょうか?

論文では相応のトランスに対する差別の歴史を認め、ただ仮に差別意識があったとしても、「差別意識」に問題を帰するのであれば、啓蒙と意識改革と帰結させられることを指摘している。シス女性たちの恐怖とは何であろうか。実体化して語られた恐怖はなかったはずである。私が取り上げたのは、畑野とまとさんによるトランスジェンダーについてもたれているだろう差別意識の例示である。ゆなさんは、「シス女性たちの恐怖が差別意識から出たものではないということが主張され」と書かれているが、まずシス女性たちの恐怖が何かは畑野さんの言説におけるレベルのものであり、シス女性の差別意識から出たものではない、などということは主張していない。

ところがこの論考の著者はこう言います。

私が知る限りのトランス排除的だといわれるひとたちに会った限りでは、トランスに対する差別意識をもっているひとは皆無に近かった。[……]

彼女たちが差別意識を持っているということはこのように事実誤認だと思うが、もしも仮に差別意識があったとしても、差別の問題を考える際に、その原因としてことさら「意識」を持ち出し、批判のターゲットとすることは大きな問題を呼び込む。(254頁)

ここからトランス排除的だとされるひとが差別意識からその言動をしているのではないという主張は読み取れませんか?

また「実態化して語られた恐怖はなかったはずである」というのと、シス女性のペニスへの恐怖の話はどう整合性を保っているのでしょうか。

また「トランスはたんに、破壊行為の口実として使われている可能性すらあるほどに、ターフはある種のスティグマとして機能してしまっている」ことを指摘したのであって、トランス活動家による暴力的な活動とは断じていない。

論考著者の以下の議論を見てください。

彼女たちが差別意識を持っているということはこのように事実誤認だと思うが、もしも仮に差別意識があったとしても、差別の問題を考える際に、その原因としてことさら「意識」を持ち出し、批判のターゲットとすることは大きな問題を呼び込む。この論理は、差別の解消のためにすべきことは、「差別者」への啓蒙と意識改革と帰結させられる。「ターフ」が気持ちを入れ替えて、差別をやめさえしたら、問題が解決するかのように見えることだ。だからこそ、「ターフ」を探しだして、なんとか啓蒙しようとするのだが、当然、思うような反応がかえってこなければ、苛立ちは増幅する。

先に例を出したバンクーバーの女性センターが破壊された事件では「ターフを殺せ」「ファックターフ」「トランスパワー」という落書きが施設に対して行われた。その数週間前には、ネズミの死骸がドアに釘づけられていたという。これが誰によってなされたかはわからない。トランスはたんに、破壊行為の口実として使われている可能性すらある。しかし、ターフはある種のスティグマとして機能しており、ターフに対しては何をしてもいいのだという意識が醸成されていることもまた事実である。(254頁)

確かに、千田さんの指摘通り「トランスはたんに、破壊行為の口実として使われている可能性すらある」とは言われていて、この点は私の書き方に誤りがあったと認めます。ただ、直前の段落からの繋がりを見て欲しいです。直前の段落で差別社を啓蒙しようとしているのは、事実に照らしても明らかにトランス当事者やそのサポーター、とりわけ活動家として活動しているそうした人々のはずです。その人々が、「思うような反応がかえってこなければ、苛立ちは増幅する」と述べられたうえでの暴力的な事件の記述なのです。

前の段落で苛立っていると語られる主体がトランス活動家たちであると推定される以上は、「苛立ち」と「攻撃」とのあいだの常識的な結びつきに従って、その後の攻撃的な活動の容疑者は第一にトランス活動家と見なされている、たとえその気がなかったとしても多くの読者はそう誘導されるのではないでしょうか? そうなると「口実として使われている可能性」の指摘は単なる「真相はわかりませんけどね」というエクスキューズでしかないのではないでしょうか?

例えばですが、「最近このあたりでは外国人が増えていて、彼らは酔うと大騒ぎしている。ところでこのあいだ排外主義的なレストランの窓が破られる事件があった。排外主義というのがスディグマとして機能しているせいで外国人の存在が口実とされているだけという可能性もあるが」などと言われたときにどういう思考が誘導されるのかということです。

トランスのみならず、私たちの社会がジェンダー表現やジェンダーアイデンティティの構築性を尊重する社会へと変化してきたという事実命題であって、「トランス」がことさら自由にジェンダーアイデンティティや身体を構築していると述べたことはない。

ここでタトゥーやダイエットのことを挙げているのだと思いますが、それは身体構築の話で、そもそもアイデンティティの構築に関してはトランス以外の言及が何もないのです。それに加えて私が言っているのは、トランスが「ことさら」、つまりシス女性と違ってトランスだけはアイデンティティを構築していると千田さんが主張しているということではありません。私が言っているのは、多くのトランスはアイデンティティを構築なんてしておらず、そこに自由はないにもかかわらず、構築していると語られているということです。

これも誤読だというのなら、はっきりと「第三紀ジェンダー論においてアイデンティティさえ自由に構築されるものとなったが、とはいえトランスのアイデンティティは多くの場合には自由に構築されたものではなく、多くの当事者はそれを否応なしに押しつけられたものとして経験している。」と書いてください。これなら少なくとも後半は納得できます。

この原稿用紙20枚ほどの論文に、先行研究や多くの論文を参照していないという指摘をされるのだが、ぜひ、私の論理展開に必要であるのに欠けている研究があるか、ご教授願いたい。

既に専門の方からの指摘もあると思いますが、当事者の一人として、まず当事者の証言をしっかり引用してください。特にアイデンティティに関して。

紙数の少なさを繰り返し語っていますが、極めてどうでもいい注釈11のアメリカ人のお風呂エピソードなどを削ればいいではないですか。

以上が私からの再応答となります。


ところで、

タイトルは編集者と相談し、「『ターフ』をめぐる対立を超えて」というサブタイトルは提案していただいたものをいただくことにした。

というのはショックでした。というのも、私は自分の記事のために『現代思想』の全体が貶されているのを見て心を痛めていたからです。あくまで全体としては優れた試みなのに千田さんの論考が不注意から紛れ込んでしまったのだろうと認識していました。しかし、このサブタイトルは編集者が提案したものだったのですね。はっきり言って失望しました。

最後に、

みなさんには、何かをSNSで拡散する際には、もう一度立ち止まって考えることをお願いしたい。

には同意します。Twitter上で語る言葉にも雑誌で語る言葉にも、「単なる言葉」では済まされない影響力、伝播力があります。私はこの千田さんの誠実な言葉を、ぜひこの「ターフ」論考の著者にも聞いていただきたく思います。

また私の要約が誤りに満ちていると主張される千田さんは、そのTwitterアカウントでぜひ私が訴えている通りに「トランス女性のペニスへの恐怖は(理由はあるにしても)不当な差別構造を保存するものであり、語るべきではない」「トランス女性のアイデンティティは自由に選択したものなどではなく否応なくあるものだ」「トランス女性は女性の一部なのであるから、女性の安全とは別にトランス女性の安全を考えようという主張はいかに一見すると当たり障りなく見えても、トランス排除的で不当である」とはっきり、いますぐ書いてください。これが私の訴えであるとともに、まさに私が論考から読み取った内容の真逆なのですから。


追記
下記のブログを拝見しました。
無題 - Dog ears

確かに「構築」の意味を私は誤解していたのかもしれないと思い直しました。とはいえ、問題は変わらなく思います。

 これ、多分「構築性」という部分の解釈で食い違ってるよね。千田氏の方は「"社会的に許される範囲"が言葉や体に縛られる事なく自由になり、これまでの"生まれながらに割り当てられていたあるべき形(フィクション)"に束縛される必要がなくなった」という「社会的な束縛からの自由」を主旨としているのに対し、ゆな氏の方は「個人の絶対的な自由」として読解している。

 おそらく「再構築」という表現をそのまま本人が主体的に取る行動だと認識したのだと思われるが、その前の段落で「身体までも社会的に構築される」と述べている様に、この場合は社会規範がジェンダーアイデンティティに及ぼす作用を「構築」と呼んでおり、「再構築は自由に行われるべき」というのは「今後の構築は社会規範に縛られるべきではない」という事を指していると考えるのが妥当だろう。GIDのくだりも、あくまで現在ではなく"ジェンダーアイデンティティの定義が自由ではなかった頃"におけるGIDの話を挙げて「第二期的だ」と示しているだけで、別に現在のトランスとの対比ではなく、美容のくだりを発端にして「身体を自由に作り上げてよい」という社会意識が確かに形成されている事を説いてるだけに過ぎない。

ここでも「「身体を自由に作り上げてよい」という社会意識」、「"ジェンダーアイデンティティの定義が自由ではなかった頃"におけるGIDの話」とされていますし、千田さんの主張が身体やアイデンティティについて「これまでの"生まれながらに割り当てられていたあるべき形(フィクション)"に束縛される必要がなくなった」というものであるとまとめられていらっしゃいますが、私が言っているのは「トランス女性のジェンダーアイデンティティはいまでもたいてい自由ではないし、多くの場合にあるべき形に束縛されているし、私たちの多くは身体を自由に作り上げられる(かどうかはともかくとして、仮にそうだとしても)ようにジェンダーアイデンティティを作り上げてなどいないということです。その意味で私たちは、私の知る限りではフィクションから自由などではまったくありません。シス女性が自由でないのであろうのと同じように。私たちは否応なしに女なんです。

直後に千田さんご自身がシス女性の女性性をこのように選択したものと見做した場合の不都合を指摘しているわけですが、私の経験する限り、私のジェンダーアイデンティティも一度として自分で選択したものではない以上、同じ話がトランス女性の女性性にも言えるように思うからです。

そして相変わらず気になるのは、身体を自由に作り上げてよいという社会意識の話はされているかもしれないですが、アイデンティティに関するその話はされていないため、結局のところ何の話をしているのかまるでわからない、話題になっているトランス女性であるはずの私にも皆目見当がつかないことなのです。

私の認識では、シス女性とトランス女性はジェンダーアイデンティティを単に共有していて、片方に言えることは他方にも言えます(ジェンダーアイデンティティというのはそうした概念ですから)。違いは過去の経験(性別移行の時期によって程度は変わりますが)や身体の形状、機能くらいのものであるはずです。そして現在のトランス差別に関して言われているのは、それらの違いをもとにトランス女性をシス女性から分離するのは不当であるということのはずです。

両者のジェンダーアイデンティティに、その構築性にも、何の違いもないという前提のもとで千田さんの議論を見返していただきたく思います。

千田有紀「「女」の境界線を引きなおす:「ターフ」をめぐる対立を超えて」(『現代思想3月臨時増刊号 総特集フェミニズムの現在』)を読んで

(査読のない商業誌である『現代思想』に掲載されるのは「論文」ではなく「論考」だろうというご意見をいただきました。こういう文章をどう呼ぶべきかわからず「論文」と書いてしまいましたが、そのために誤った印象を与えてしまったかもしれません。申し訳ありません。)


この記事では、『現代思想3月臨時増刊号』に掲載された千田有紀氏の「「女」の境界線を引きなおす:「ターフ」をめぐる対立を超えて」を取り上げ、ひとりのトランス女性としての視点から批判します。いろいろと語りたいことがあるのですが、以下ではまず第一節で、千田氏の基本的な議論を要約し、その範囲に焦点を絞って反論をします。千田氏の論文の概要を知りたいだけという方は、ここだけ見ていただければ結構です。第二節では、詳細に千田氏の議論を検討し、どこでどのような問題が生じているのかをかなり細かく見ていこうと思います。第三節はおまけ的な内容で、そこではこの論文が登場した文脈を、私から見た限りで説明します。

本題に入る前に一つ断っておきたいことがあります。以前と違い、今回は私は本も買い、数回にわたって論文を読んでいるので、「さっと目を通しただけ」ではありません。とはいえ、私はフェミニズムに関してもジェンダー論に関しても何ら専門家ではありません。それゆえ、現在の学術的な動向と結びつけて語ることはできず、ただトランスとしての自身の経験、及び私の知っているトランス当事者たちの言葉をもとに私が理解していることを手掛かりに語るしかできません。そしてそれは学術的な主張ではないがゆえに、ただ証言として述べるだけにとどまります。

とはいえ、このことはもちろん一面では私からの言い訳ですが、他方で現在のアカデミックなフェミニストたちに向けての訴えともなっていると理解しています。つまり、第一に、当事者として私は自分の証言はする、だからあなたたちにはこれをきちんと学術的な文脈に位置付け、現在のフェミニズム内でのトランス排除にあらがう義務があるのではないかということ、そして第二に、専門家でもない単なる一当事者がわざわざこのようなことをしなければならない状況を恥じてほしいということです。もちろん、誠意と熱意を込めてトランス排除にあらがってくださっているアカデミックなフェミニストたちは何人もいますし、その方たちの努力が足りないと言ったことを言いたいわけではありません。ただ、そうした一部の方々を除いて、あまりにもフェミニストのみなさんはぼんやりとしているのではないかと思うのです。今回取り上げるような論文がこれだけ大々的に発表されたということ自体が、その証左ではないでしょうか?

以下では、ページ番号は『現代思想3月臨時増刊号』でのページを表し、また引用中の[]は私による補いを表します。

「「女」の境界線を引きなおす」はいかなる論文か?

概要

「いま、日本のTwitterでは「ターフ戦争」とでもいうべき事態が起こっている」(246頁)という宣言で始まるこの論文は、「[トランス女性のトイレやお風呂からの排除をめぐる]混乱や対立がどこから生じているのか、ときほぐして考えることが必要である」(247頁)という観点から「ターフをめぐる争いについて考察」(同左)するものとされています。

第1節「「生物学的女性」vs「セルフID」?」では、マヤ・フォーステーターの意見を挙げながら、「従来プライベートな場所と考えられた場所の性別分離のありかたが、問題の俎上にあげられている」(248頁)ことが確認され、「「強姦罪」は、女性器に男性器を挿入することによって成立し」(249頁)、「「処女性」をはかるメルクマールが、男性器による女性器への挿入と考えられている社会で、女性が男性器を恐れるのは故なきことではない」(同左)と論じられ、そのうえでジョン・マネーの事例を挙げながら「当時の社会、そして現在の社会でもいまなお、「男性」の定義として、男性器が大きな役割を果たしてきた」(同左)と確認されます。「ターフ」と呼ばれる人々はこうした「常識」をなぞっているから「男性器」を恐れているだけで、差別意識を持っているわけではないというのです。

第1節の内容を要約するなら、要するに従来の社会ではシス女性がペニスを恐れる十分な理由があり、またその常識に即して性別分離のスペースが作られており、である以上は、ペニスを持つトランス女性をシス女性が恐れるのは常識に従っているだけで差別ではないのだということでしょう。すでに数多くの問題がありますが、後に論じます。

第2節「ジェンダー論の第三段階」がこの論文の核となる内容でしょう。そこではジェンダー論が歴史的に三つの段階を経て発展してきたことが論じられます。第一段階では「「ジェンダー」という概念が出現し」(250頁)、生物学的・身体的差異とは異なる、社会的・文化的差異が着目されるようになったとされます。第二段階はバトラーが代表するものですが、「ジェンダーアイデンティティのみならず、「身体」がいかに言語によって構築され、揺らぐのか」(同左)ということに焦点が移り、「「身体」までもが社会的に構築されているのだ」(251頁)という発想がもたらされたとまとめられています。第一段階、第二段階が実際の論者に言及されつつまとめられているのに対し、第三段階は奇妙にも何の言及もなく紹介されるのですが、そこでは「第二期のジェンダーアイデンティティや身体の構築性を極限まで推し進めた際に、身体もアイデンティティも、すべては「フィクション」であるとされるのであったら、その再構築は自由におこなわれるべきでないかという主張」(同左)がなされているとされます。ここで驚くべきことに、いきなり「これはトランスに限らない」(同左)と言われ、美容整形やダイエットなどでの身体加工の感覚が第三期の発想としてまとめられます(トランスがこうした主張をしているという根拠は何一つ挙げられていませんが、そのように話が進みます)。

このあとこの節では、さまざまな観点からこの「身体もアイデンティティも自由に構築できる」という発想がいかに「女性」(=シス女性)の不利益に働くかが論じられていきます。例えばそれは女性が女性であることを選択と自己責任の問題にするとされています。そうした不利益を確認したうえで、続いてトイレのようなプライベートなスペースが「「男性を排除」することによって安全が担保されたことになっている」(252頁)だと語られます。そして本論文の実質的な結論は以下のように述べられます(長くなりますが重要な個所なので引用します)。

そもそも多様なセルフ・アイデンティティをみとめるとすれば、「トランス女性が女性トイレを使う権利」と「女性が安全にトイレを使う権利」が対立させられるかのように問題化されること自体が、そもそも奇妙ではないか。自分のアイデンティティがノンバイナリー、Xのひとも、移行中のトランスのひとも、すべてのひとが安全にトイレを使う権利がある。そもそも「女性」というカテゴリーが構築的に作られるのであるとしたら、なぜ旧態依然とした狭い二分法に依拠したカテゴリーである「女性」に、「トランス女性」を包摂するかどうかが問われなければならないのか。なぜ多様性を否定する二元論を持ち出し、その片方に「トランス女性」という存在を押し込めるかどうかが、「排除」の問題として執拗に問われるのか。問題は「二元論の片方にトランス女性を「女性」として認めて入れる」かどうかではなく、トイレの使用の際に、どのようなカテゴリーの線を引きなおすことで、皆が安全だと「感じられる」かどうか、という問題ではないのか。その基準は性別であるかもしれないし、ないかもしれない。そもそも「女性が安全にトイレを使う権利」とともに語られるべき事柄は、「トランス女性が安全にトイレを使う権利」であるべきだ。なぜそこが従来のトイレだとアプリオリに決められているのか。

つまり第2節ではジェンダー論の第三段階である身体とアイデンティティの自由な構築という発想がトランスに帰属させられたうえで、「自由というなら「女性」でなくてもいいではないか」と主張し、「女性」とは別に「トランス女性」という線を引けばいいではないかと論じているわけです。これが本論文のタイトルにある「境界線を引きなおす」なのでしょう。

第3節は「ターフ探しがもたらすもの」では、シス女性たちの恐怖が差別意識から出たものではないということが主張され、仮に差別意識を持っていたとしても、差別意識を問題化し啓蒙を望むならば、それがうまくいかなかったときにいらだちを覚えるだろうと述べられたのちに、トランス活動家による暴力的な活動の例が列挙されます。

まとめましょう。千田氏の論文のストーリーはこうです。

  1. そもそもシス女性には現在、ないし従来の常識に照らしてペニスを恐れる理由があるのであり、それは差別意識によるものではない。
  2. トランスはジェンダーの第三段階に当たる、「身体もジェンダーアイデンティティも自由に構築する」という発想のもとで自身のアイデンティティを自由に構築している。
  3. 自由に構築できるアイデンティティなのだから、従来からのシス女性の安全を脅かすような仕方で女性トイレ等の使用を求めるのではなく、トランス女性はトランス女性のスペースをつくり、それぞれの安全を求めればいい。
  4. それにもかかわらず、トランス活動家はシス女性たちの恐怖を差別意識だと誤認し、それを正そうとしては失敗していらだった挙句に、ときに破壊活動にまで及ぶ。

これが千田氏の論文から私が読み取った内容であり、そして青土社という広く名の知れた出版社が出す著名な思想系雑誌『現代思想』にて「フェミニズムの現在」と題された特集のひとつとして語られた内容です。繰り返しますが、これが、フェミニズムの現在として述べられています。

問題点の指摘

ここでは以上の要約に沿う形で、簡単な問題点の指摘をしておきます。

何よりも大きな問題は、「トランスは身体とジェンダーアイデンティティを自由に構築できるという発想を採用している」ということが何の根拠もなしに前提とされていることでしょう。これはトランスフォビックなツイッターアカウントなどではおなじみの言説で、「セルフID」などと語られていますが、これを実際に採用しているトランス当事者は、仮にいたとしても多くはないはずです。むしろ私も含め、私の知る人々は「自分たちのアイデンティティはそんな自由に選んだものではない」と繰り返し語っています。そもそも自由に構築できるような代物であるなら、周りに侮られ、不利益を被るリスクをおかしてまで、こんなアイデンティティを選びはしませんでした。少なくとも私はそうです。それよりも単なるシス男性として暮らせたらどれほど楽だったでしょう。何度も何度も「がんばれば男性として生きられるのではないか」と挑戦した挙句に、絶望的な気持ちで「私は男性としては生きられない」と理解し、このように生きざるを得なかったというのが私の実感ですし、こうした割り当てられた性別で生きようと試みて挫折するという経験は多くの当事者が語るものです。千田氏はせめて、何らかの根拠を挙げてこの主張を正当化すべきだったはずです。

そしてここが正当化されていないがゆえに、その後の議論は意味をなしません。千田氏自身が「アイデンティティを自由に構築できるとトランスは考えている」という前提のもとで論じているのだから当然です。またこのことは、千田氏が反発する「トランス女性を女性という枠内に包摂しようとすること」を受け入れるべき理由を示してもいます。それは何よりも、私たちトランス女性は不自由にも、自分たちにもどうしようもできない仕方で女性であるからなのです。それは、私たち自身にもまったく自由にならないことなのです。もちろん、男女二分法におさまらないアイデンティティを持つひともいますが、そのひともまた、男女二分法の外部にいることを自ら自由に選んだわけではなく、おそらく当人にもどうしようもない仕方でいずれの性別にも属せないのだろうと想像します。

また、序論と結論で繰り返されるのが、トランスへの恐怖を語るシス女性が差別意識からでなくそれをしているということです。千田氏はさもトランス側の人々が「そうしたシス女性は本当は恐怖を感じておらず、差別意識からそれを言っているだけなのだ」と主張しているかのようにまとめていて、そうしたことを主張しているひともいるのかもしれませんが、私や私の知る人々の意見は違います。おそらく恐怖を語る人々の多くは心から恐怖しているのであり、排除のための単なる口実として言っているのではないのでしょう。そしてその恐怖が既存の社会の構造に従うものだというのもそうなのでしょう。私たちが繰り返し指摘しているのは、その社会構造がトランス排除的にできていて、それを無反省に受け入れたうえで、トランス当事者の生き方に目を向けようとしないままに恐怖を感じている人々の不合理さなのです。そして、その前提となっている社会構造や常識が、さらにはそうした恐怖を語り、その恐怖に従って振る舞うことで保存される社会構造や常識が差別的であるということなのです。

このことは男女間の話に置き換えたらわかりやすいかもしれません。もしかしたらある種の男性は(フィクションでよく見られると思いますが)女性が自分の心を惑わす悪しき存在であると思い、心の底から恐怖し、自分の周囲に女性が来てほしくないと願い、そのことを口にしているかもしれません。しかしここには非常に偏った女性観があると言えるのではないでしょうか? 女性は性的な誘惑をしてくる存在であり、しかもそれに応じるのは堕落であるというような(ここでは女性側の意志などは問題とされません)。そしてこの恐怖に従って行動したこの男性は、男性ばかりの空間を作り上げ、それを強化し、ますます女性を跳ねのけるようになるでしょう。それは結果的に、女性排除的な空間を作り上げ、女性差別に利することとなります。こうした事例に対し、普通は「しかし本心から恐怖しているのであって差別意識はない」などと擁護したりはしないのではないでしょうか? その恐怖の理由となっている思い込みから解消してもらい、性差別的な構造の保存に力を貸すのをやめてほしいと思うのではないでしょうか? 私たちが言っているのはこういうことです。

ほかにもたくさんの、本当にたくさんの問題がありますが、全体の概要とそれへの反論は以上で終わりとします。一言でまとめるなら、全体の核となる「トランスはアイデンティティを自由に選択している」が、いかなる専門家の引用も当事者の引用もなしに、それゆえ何の正当化もなしに前提とされ、しかも私が見る限りトランス当事者の発言と合致していないという事実のゆえに、千田氏の議論はそのほとんどが破綻している、というのが私の見立てです。よりによってそれだけ大事な個所を何の正当化もなしに済ませるというのは、私には理由がよくわからない振る舞いではあります。

以下の第2節では、この論文の問題となる個所を可能な限りすべて列挙しようと思います。長くなりますので、概要だけでよいという方はいかに目を通していただく必要はありません。

「「女」の境界線を引きなおす」検討

246頁

「いま、日本のTwitterでは「ターフ戦争」とでもいうべき事態が起こっている」

多くのトランス当事者やその権利を擁護する人々は、「トランス差別問題」というように問題化しているのですが、「これは差別ではないのだ」と論じるにしても、それを「ターフ」というラベルをめぐる争いのように語るのは誠実には思えません(実際、私は普段そもそも「ターフ」という呼称を基本的に使っておらず、単にトランス差別の話だけをしています)。


「いまや「ターフ」とは中傷の言葉であり、侮辱や暴力的なレトリックとともに使われている」

直前の個所ではWikipediaの「TERF」の項目を以下のように引用しています。

その意味はすでに、ラディカルフェミニズムに関係のないと思われる、トランス排除的な視点をもつひとを単に言及するためにまで広がってしまった。このターフと言う言葉で呼ばれるひとは、たいていこの言葉を拒否し、それを中傷だと考えている――ターフと呼ばれているひとのうちには、自分は「ジェンダークリティカル」だと考えているひともいる。このターフという言葉を批判するひとは、ターフという語は、侮辱や暴力的なレトリックとともに使われていると述べている

ここでの問題は、第一に、「ターフと言う言葉で呼ばれるひとは[……]それを中傷だと考えている」というターフと名指される人々の意見への言及から、するっと「いまや「ターフ」とは中傷の言葉であり」と事実言明へとシフトしていることです。普通は、誰かがしかじかと考えているということは、実際にしかじかであるということの正当化とはなりません。

第二の問題は、自身で引用した文章の「トランス排除的な視点をもつひとを単に言及するため」を無視している点です。Wikipediaの項目でも、単なる侮蔑の言葉ではなく、「トランス排除的な視点をもつひと」への言及で用いられるとされているのです。そこをなぜか切り捨てて、「中傷である」というほうだけを取り出すというのは、はじめからターフと名指される人々の意見こそが正しく、しかもこの人々は実際にはトランス排除をしていないと前提にしているだけではないでしょうか。

第三の問題は、さらっと引用個所に出てくる「ジェンダークリティカル」に何の注釈もしていないことです。ジェンダークリティカルフェミニズムというのは、イギリスなどで語られる立場ですが、私の理解する限りではジェンダーという概念を批判的に見て、セックスこそが女性性や男性性の本質をなすとする立場で、それ自体がトランスフォビアとの強い親和性や従来のフェミニズムへの反動性をしばしば指摘されている立場であったはずです(はっきりとした解説記事が見つけられなかったので、記憶を頼りに書いています。よろしければ各自でご確認ください)。要するに、「ターフ」という名を侮蔑的だと拒否しようが何だろうが、その主張内容からトランスへの差別性を指摘されているわけなのですが、それを何も解説しないままに流してしまい、ただただこの引用から「ターフ」という語が侮蔑的に使われだしたという内容だけを抜き出しているのです。それならその個所だけを引用したらまだ見栄えはよかったと思うのですが、前後まで引用したのは研究者としてのマナーなのでしょうか。


「きっかけは、二〇一八年七月のお茶の水女子大学のトランス女性受け入れだ。そのニュースが報じられた際に、Twitter上では当初は好意的にとらえられていたと記憶しているが、その後はお手洗いや風呂の使用をめぐっての激しい応酬へと発展した。」

この個所は、誰が「好意的にとらえ」、誰が「お手洗いや風呂の使用」を話題にし出したのかといったことを明示化しておらず、不誠実に思います。当初好意的に捉えていたのは、トランス当事者や他のLGBT関連の活動家たちの多く、それに加えアカデミックなフェミニストの方々も好意的であったように思います。その一方でトイレやお風呂の話をし出したのは、少なくともトランス当事者やその支持者ではないはずです。こちらからそんな無関係な話を引っ張り出して不興を買いたがる理由もありませんから。トイレやお風呂の話が出てきたのは、主にトランスフォビックな、ノンアカデミックなTwitter上のフェミニスト(あるいは少なくとも「フェミニスト」を名乗る人々)であったというのが私の記憶です。このように明示化を避けることで、一部のトランス活動家の攻撃性は明示的に語られ、印象付けられるのに対し、一部のフェミニストの攻撃性は隠されているように思います。

247頁

「こうした一連の過程で、誰がトランス排除的なフェミニストであるのかをめぐって争いが起こっている」

トランス側である私から見ると、「誰がトランス排除的なフェミニストであるのか」は発言を見れば即座にわかるし、その判断は周りの当事者や支援者にもおおむね共有されているので、誰がそうなのかについて争ったことは特にありません。ただ、私たちが「それはトランス排除ではないか」と訴えると、そう言われた当人はたいてい「トランス女性を〇〇に入れないことには根拠がある」と返してくるというだけであるように思います。この際、両陣営のあいだである空間からトランスが排除されているということさえ共有されていて、私たちはそれを差別と呼び、相手はそれを合理的な線引きだと言っているというのが実情であるように、私には見えます(性差別に関しても語られる「差別ではなく区別」論法を想起します)。


「トランス女性の「生きづらさ」を考えるときに、話はおそらく、性別の違和感や身体に対する苦痛だったり、労働市場での女性の低賃金であったり、性別を変更する際の家族や周囲との軋轢であったり、身体や生活上の様々な不都合などに焦点化されることが通常だろう。」

とりあえず、勝手に決めないでくださいと言いたいところです。注釈5においてご自身の知っているケースは「圧倒的に男性へのトランスの方が多い」とまでわざわざ言っているのに、何をもって勝手に私たちの「通常」を決めているのでしょう。

この個所はそもそも議論上の役割がはっきりしないところなのですが、次の段落ではトイレがトランスにとってあまり問題となっていないのではないかと論じられているので、通常はトランス女性はそんなことよりここで挙げられているようなことを問題としていると言いたいのだろうと推測されます。確かに、性別の違和感や身体への苦痛も、家族や周囲との関係も私たちには切実な問題です。「労働市場への女性への低賃金」についてはどこから出てきたのかよくわかりません。確かに私たちが十分にパスすればシス女性と同様に経済上の不利益を被ることになりますが、むしろ私たちにとって重要な問題は、その段階にさえいけないことである場合がほとんどであるように思います。要するに、パスできないから就職自体が困難であるだとかといった話のほうがトランス女性の悩みとしてはリアルで、シス女性と同程度にでもいければ、それはそれで女性差別は被るし抗わねばなりませんが、とはいえそれだけで「相当に恵まれたほう」というのが、おそらく私たちの標準的な認識ではないでしょうか。それはともかく、これらに加えて、トイレが不安で使えないなども私たちのあいだでしばしば共有される悩みです。わざわざこれだけ切り捨てる理由はありません。私たちはたくさんの悩みに直面しています。

そのあとの、「GIDの学生の面倒を見たことがある」というエピソードは、「自分はトランスのこともわかっている」というポーズを見せるという以外の何の意味があるのか、私にはわかりませんでした。専門誌ではないからいいのかもしれませんが、普通は論文ではそういう無意味な文言は削るものではないかと思います。


「あくまで私が相談をうけた範囲ではあるが、お手洗いは、あまり問題となった記憶はない。尋ねてみたこともあるが、各々工夫を重ねているようだった。彼ら・彼女らは、あまりひとの来ないトイレの場所は熟知していたし、周囲の人間の理解もあり[……]、大学ではそれほどのトラブルは起ってはいなかった。」

もちろん、問題とならずに暮らすことはできるのです。私も別にトラブルを起こしたことはありません。ただ、ここでさらっと書かれている「各々工夫を重ねている」「あまりひとの来ないトイレの場所を熟知」という事態をこんなに呑気に捉えられるのは、不思議に思います。私たちは、トラブルを起こさないために工夫を重ねざるを得ず、そしてときにはあまりひとの来ないトイレの場所を熟知さえしなければならないのです。私も移行途中ではよく利用する場所の誰でもトイレの位置を把握する、コンビニやカフェなどの性別を問われずに使えるトイレを見つけると、できるだけ早めに利用しておくなどといった工夫を重ねてトラブルを起こさずに過ごしていました。ここは「トラブルは起ってはいなかった」などと呑気なことを言うのでなく、トラブルを避けるために絶えずそうした工夫をせざるを得ない境遇の困難を察してほしいところです。

それにしても不思議なのですが、このように各々の工夫のもとでトイレを利用して問題が起きていないという立場と、「トランス女性を女性に包摂せず、トランス女性の安全を考えるべき」という第1節で要約した立場とはどう整合性を保っているのでしょうか? 現在苦労しながらでもトラブルなくトイレを利用しているトランス女性(が大半のはずです。トラブルが起きると不利益をこうむるのはこちらなので)は、結局のところそのままでいいという話なのか、それとも「改めて女性専用スペースはシス女性のために空けて、トランス女性用スペースを作ってください」という話なのでしょうか。前者ならばそもそもこの論文自体の意義がわかりませんし(言われるまでもなく各自それぞれでやっていっています)、後者ならばこの個所はいったい何のために述べられているのでしょう。


「男性器をつけたままの手術をしていないトランス女性」

直前の段落では「ペニスのある女性」という言い方をしているのですが、こちらは「女性である」と明示し、それがたまたまペニスを持っているだけという語り方でいいのですが、一転してこの個所では「男性器をつけたままの手術をしていないトランス女性」という言い方になっています。「ペニス」に比べて「男性器」は、「男性」という呼称が含まれている時点で、すでに男性という性別と紐づけられた言葉になっています。そして「ペニスのある女性」のときと違い、ことさらに「トランス女性」という言い方をする(「ペニスのある女性」と言えば一部のトランス女性のことだと十分にわかるにもかかわらず)ことによって、やんわりとトランス女性を「女性」の外側の存在と見なし、その身体に男性であるという意味付けを帰属し始めているように思えます。実際、直前で「ペニス」と言われているにもかかわらず、この論文では多くの個所で「男性器」、「女性器」という、性器の形状と性別を対応させる表現が用いられ、さらにしばしば「女性」をシス女性のみを指して用いています。これは議論とは別の言葉のニュアンスのようなレベルにおいて、間接的にトランス女性を「女性」の外に置く準備を読者にさせる効果をもたらしているように思えて、不誠実だと感じます。議論の内容が変わらないならば、そうした効果を持ちかねない言葉遣いは避けるべきではないでしょうか?


「日本では「ターフ」の「排除」に関しては、すでに話題は女子トイレや女子風呂からのトランス女性の排除に集約されているという感すらある。」

トランス側はしばしば、「私たちは各々の状況に照らしてどうにかこうにかトラブルを起こさずやっているのだから、そんなことを問題にする必要はない」と言っているかと思います。それをその問題に集約しているのは、トランス排除の疑いがかけられているひとたちの側です。


「二〇一九年の八月、バンクーバーのレイプ救援・女性シェルターというレイプやDVに対応するシェルターが、破壊されるという騒ぎがあった。このシェルターは、バンクーバーでも「(非トランス)女性だけ」を受け入れている稀有なセンターだったため、「トランス女性は女性である」というスローガンが書き込まれ、破壊されたのだ。」

ここも議論にどう関連しているのかわからないのですが、いきなりトランス女性の暴力性を印象付けようとしているかのようです。この際、トランス女性のレイプやDV被害の話はありません。私はトランス排除的であれこうしたセンターを破壊するような活動を擁護できるとは思いませんが、とはいえトランス女性の被害やトランス女性にとってのシェルターのシス女性に比しての少なさを語らずにこの事件だけを挙げるのは、一部の暴力性を過剰一般化している点も含め、トランス女性の悪魔化ではないかと思います。

248頁

「またイギリスでは『ハリー・ポッター』の作者であるJ. K. ローリングが、マヤ・フォーステーターを擁護するツイートをしたことから、「ターフ」だと非難されている。」

これ自体は単なる事実の記述なのでいいのですが、その後のFromt Rowからの引用では、フォーステーターによる「生物学的性別は2つしかない」、「性別は生まれつきでなく性の自認で決まるという考えの"セルフID"を中心に性別変更を可能にすると、女性の権利が守られなくなる」という主張が、フォーステーターの解雇の理由となっているとされています。英語になりますが、以下のBBCの報道を見てください。
Maya Forstater: Woman loses tribunal over transgender tweets - BBC News
まず、フォーステーターはそもそも解雇されたのではなく、「契約を更新されなかった」なので、単純に事実の誤認が含まれているあまり良質でない引用元であるように思います(なぜ報道関係のサイトでなく、トレンド情報などの発信サイトを参照したのでしょう?)。

また判決で述べられているのは、フォーステーターに「トランスジェンダーの権利や、ミスジェンダリングによって引き起こされ得る多大なる苦痛を無視する権利はない」ということのようです。これは千田氏が引用している主張ないし信念のゆえに「解雇」(契約無更新)がなされたということよりも、もっと具体的な実害の話です。そしてとりわけ問題視されているのはやはり千田氏が引用している信念ではなく、「仮に相手の尊厳を損ない、威圧的、攻撃的、侮蔑的、屈辱的、ないし不愉快な環境を作り出すことになるとしても、あくまで自分(フォーステーター)自身が適当だと考えた性別(セックス)によってひとを名指そう」という信念であり、これが民主的な社会において敬意を払うに値しない信念だと裁判官から述べられているのです。

要するに、フォーステーターはミスジェンダリングを繰り返してハラスメントを行なっていたという判断のもとで、契約の更新をしないことが不当ではないという判決が下ったというのが真相であるように私には見えます。これを「単なる信念のせいで解雇された」とまとめるのは、あまりに不公平ではないでしょうか? そしてこうした事情であったからこそ、このような擁護しようがないおこないを擁護したローリングには失望の声が上がったのです。

249頁

「こうした風呂をめぐる議論は、今現在と言うよりは、将来を見据えているからこそ不安が掻き立てられている側面があるのではないか。全裸で同性の他人と風呂につかるという日本的な入浴方式は確かにまれなものであるようで、合宿の前などには欧米からきた留学生はかなり露骨に驚きと嫌悪の情を示す。」

そもそもこのふたつの文の繋がりがまるでわからないのですが、何のために留学生の日本的入浴方式への嫌悪の話を挙げたのでしょう? 論理的な筋道はまったくわかりませんが、無批判にここを読むと、「確かに考えてみれば同性同士でも裸を見せ合うのに嫌悪を抱くのは自然だ」という感情を読者に起こさせ、それがするっと「それならトランスにはなおさらだ」という感情面での「納得感」を生み出しかねず、危険なレトリックであるように思います。とりあえず無関係な話は削除していただきたいです。

この個所には丁寧に注釈まであり、なぜかアメリカのひとたちの反応が語られているのですが、ここも理由がまったくわかりません。この論文は実はトランス当事者の言葉はこの近辺でいくつか三橋順子さんの言葉が挙げられているだけで、それ以外まるで引用も言及もなく進み、トランスサポーティブなフェミニストへの言及等も極めて少ないのですが、このお風呂エピソードを入れるよりもそちらのほうがこの話題にとって本質的に大事だったのではないかと思います。

こう書くと笑い話のように見えるかもしれませんが、私はこのあたりを読んで、「私たちをトピックにするときにさえ私たちの生の言葉より、議論に何の関係もない留学生お風呂話のほうが大事なのか。どれだけ私たちの声を聴くに値しないものだと思っているのだろう」と脱力まじりの怒りを覚えました。


「「将来的に女湯で、ペニスのついたトランス女性とともに入浴することを、「誰とでも」、「どんな場合でも」認めると明言しろ」といわれて、即答できるひとはいないだろう。」

典型的な藁人形論法です。そんなこと、私だって即答しませんし、シス女性に対してだってひとによっては恐怖を覚える可能性があるので、そんなことは明言できません。問題は、いったいだれがそんな過大な要求をしているのかということです。トランス側がこんなことを求めていると読者に思われてしまっては困ります。


Twitter上では性暴力の後遺症のPTSDで男性器が怖いなら、「病院に行け」というような乱暴な言葉も飛び交っていた。」

Twitter上ですから、乱暴な言葉はもちろん飛び交っていたのでしょう(それはそれとして、PTSDについては実際のところ放置するより専門的な治療を受けたほうがいいのではないかと私は思いますが)。

ただここでも、千田氏はトランスフォーブ側からのミスジェンダリングを含む苛烈な言葉には言及せず、トランス側の穏やかな言葉での訴えにも言及せず、トランスを、そしてもっぱらトランスだけを攻撃的なものと印象付けています。


「つい数年前に刑法改正が行われるまで「強姦罪」は、女性器に男性器を挿入することによって成立し、それ以外は「強姦」という「犯罪」として認められなかったからだ。」

これはシス女性のペニスへの恐怖が理解可能であることの理由として挙げられているのですが、不思議な議論であると思います。むろん、従来の強姦罪はペニスのヴァギナへの挿入だけを指していたのでしょう。ただ「それ以外は「強姦」という「犯罪」として認められなかった」という言い方はむしろ普通は、現在の基準のもとでは強姦と見なされるケースがそれ以外にもあったにもかかわらず認められていなかったということを意味するのではないでしょうか? これはむしろ、従来の常識に反して、実際にはペニスをヴァギナに挿入する以外のさまざまな強姦があるという話なのであり、性暴力を受けたシス女性がペニスを恐怖するのにも一定の理由はあるにせよ、ペニスを持つものだけが強姦者であるわけではないし、ヴァギナを持つものだけが強姦被害者であるわけでもないのであり、強姦性をペニスだけに託すのは不合理だという話が、この流れからは自然と引き出されるのではないでしょうか?

またいずれにせよ、「男性器」という言葉のレトリックに気を付ける必要があります。「男性器」が「男性」を含むがゆえに、これは自然と「男性による強姦」と結びつけられます。しかし同時に「男性器」=「ペニス」はトランス女性にもあるため、トランス女性と強姦が「男性器」というワードを通じて結びつけられてしまいます。もちろんこれ自体は「男性器」を「ペニス」に代えても言えることなのですが、ただ「男性器」という言い回しによってより一層トランス女性を「男性より」のものとする「雰囲気」が作り出されているように見受けます。(なお、ここでトランス女性の強姦被害の話は触れられておりませんし、果たして加害の例がどの程度あるのかといった話もまるで触れられていません)


「明治以降、女性には「貞操」を守る義務が課され、ときにそれは女性の命よりも重かった。」

この話やその不当性自体に異論はありません。ただ注意すべきは、ここで「女性」が「シス女性」の意味で使われていることです。これは上の個所の直後に述べられているので、ますますトランス女性を「男性より」とし、「シス女性こそが女性」というニュアンスを、はっきりそれと主張することなく、言葉のうえでの操作によって作り出しています。


「また男性の身体の定義をあげろといわれたら、多くのひとが「ペニスがあること」を挙げる社会で、「男性器はついているけれども女性だというジェンダーアイデンティティがあるから女性」という存在に混乱を覚えるのは、必ずしも「差別意識」からではない。」

そんなことは、こちらのほうがよくわかっています。だからこそそうした社会や女性/男性の定義に異を唱え、従来の常識が偏っていることを毎日のように訴えているのです。これはかつて「女性には知性がない」だとか「選挙権に相応しくない」だとかという常識があった時代に、そうした常識に抗ってきた女性たちと変わりありません。果たして千田氏は、そうしたかつての女性たちにも、「女性と言えば多くのひとが知的に劣ると考えていたその社会で、女性が選挙権を求めるということに混乱を覚えるのは、必ずしも「差別意識」からではない」などと擁護するのでしょうか? 差別に抗う運動は、いつだって特に意識することなく単に常識とされてきた不公正な社会の構造への異議申し立てだったのではないでしょうか。


「後述するが、ジェンダーの議論で有名なジョン・マネーの「一卵性双生児」の事例では、事故でペニスをなくした男児が、それ以降女児として育てられている。それは当時の社会、そして現在の社会でも今なお、「男性」の定義として、男性器が大きな役割を果たしてきたからである。」

ここは意味が通らず困惑する個所です。というのも、千田氏自身後述するように、マネーのこの実験は失敗に終わり、当該児童は結局のところ女性としては生きられなかったと知られているのです。これは、ジェンダーアイデンティティを教育などによって変えることはできないということを示すと普通は理解される話で、なぜこの文脈で出てきたのかわかりません。むしろこの事例が示しているのは、「ペニスがないなら女性だ」などという常識を採用していると、多大な苦痛を被る者がいるということなのではなかったでしょうか。こうした不幸をなくすためにも、性器の形状と性別を対応させないように社会を変えるべきなのではないでしょうか?


「ペニスに関するこういった一連の意味は、「ターフ」が作り出したものではない。彼女たちはその「常識」をなぞっているのだ。」

ここも藁人形の気配があります。というのも、トランス側の多くのひとは、ペニスを男性性の象徴とする発想がターフと名指される人々の創作であるとまでは言っていないはずだからです。言われているのはむしろ、それはこの社会での偏見であるが、トランス排除的な人々はこの偏見を強調、強化して、この社会をますますトランス排除的にしてしまっているということであるはずです。


「ただ、急いで付け加えるが、ここでは男性器を持っているから「女性」というジェンダーアイデンティティを主張すべきではないと主張しているわけではない。」

この微妙なレトリックに注意を払う必要があります。さも、「あなたたちのアイデンティティは尊重します」という口ぶりですが、そうでしょうか? 実のところジェンダーアイデンティティという概念自体はシス/トランスをまたいで適用されるものなのですが、千田氏の論文ではシス女性には一度もジェンダーアイデンティティの話が持ち出されていません。シスが生まれながらにしてジェンダーアイデンティティを尊重されるのに対し、トランスはそうではないというのが、トランス差別をめぐる諸現象の根幹にあるにもかかわらず、です。さらに丁寧にも、ここではカッコつきで「「女性」」と語り、さらに「主張すべきでは」などという言葉まで加えています。

実際のところ私たちが言っているのは、「私たちは単に女性なのです」ということです。しかしそれを言うとすぐに体の話をされてしまうから、シスならばおおよそ常に尊重されるがゆえに問題化されず、しかしトランスの場合には意識化されるものとして「ジェンダーアイデンティティ」という概念を用いているのです。

なので、私の知る言葉づかいでは、千田氏のこの文言は「男性器を持っているから女性ではないと主張しているわけではない」と言い換えることができるのですが、ではなぜ千田氏は上記のようなややこしい言い方をしているのでしょうか? それは、「トランス女性はシス女性が女性であるようには女性ではなく、単にそれを主張しているだけ」という含意を持たせているからではないでしょうか? ここは一見すると譲歩しているようでいて、何一つ譲歩していないし、私たちのアイデンティティへの尊重など示してはいないのです。


「争いを深め、不要な対立をあおる風呂について語ることが、生産的だとは思えない。もうこの風呂の話は、終了したらいいのではないか。」

完全に同意します。というより、トランス側で女風呂の話題を続けたがっているひとは私の周りにはいませんので、それを問題視していた人々の側で「トランス側のこれまでと同様の判断に任せます」と言ってくれたら終わる話です。

250頁

「マネーの有名な「双子」の症例[……]は、のちに嘘であることが暴露された。その本のタイトルはAs Nature Made Him、自然が彼を作りたもうたように、である。人間は「自然」から、つまり生まれながらの身体からは逃れられないという主張だ。」

ここは私が単純に知らないのですが、コラピントのこの本の主張は最終的にこうなのですか? 現在この話が言及されるときには、「アイデンティティは外的に変えることはできない」という話として紹介されるのが普通であって、「生まれながらの身体からは逃れられない」などというトランスの存在を完全否定するような主張とともに言及されているのは初めて見たのですが。「自然」というのはコラピントにとって「身体」だったのでしょうか? その個所を引用してくだされば助かったのですが。

251頁

「そしていまや、それらの動向を踏まえてあきらかに第三期に入っている。こうした第二期のジェンダーアイデンティティや身体の構築性を極限まで推し進めた際に、身体もアイデンティティも、すべては「フィクション」であるとされるのであったら、その再構築は自由におこなわれるべきではないかという主張である。」

ジェンダー概念を発見した第一期と、セックスもまた常にすでにジェンダーであるといった立場とされる第二期とについては、代表的な論者が挙げられていて、文献への言及もあるのですが、この第三期は誰が提唱者で、どのような文献で語られているものなのでしょう? そういうことを示すまでもないほど明らかなことには私には見えませんが……。


「これはトランスに限らない。」

先の個所の直後にこう来ます。つまり、千田氏はトランスに「身体もアイデンティティも自由に再構築できる」という立場を帰しています。そしてこれが千田氏の議論の中核になるのですが、驚くべきことに、このたったの12文字で語られるのみで、しかも「トランスの立場である」という明示的な主張でさえなく、「トランスに限らない」とさも読者も知っている自明の前提のように語られています。ここにはいかなる注釈もなく、ただのひとりの当事者への言及も、たった一本の論文への言及さえありません。

そして、これが重要なことだと思うのですが、私の知る限りトランス当事者のあいだで、自分のアイデンティティの構築が自由であると思っているひとなどいない、いたとしてもごくごく少数であって、このようにトランス全般の話にできるようなものでは到底ないように思います。後に千田氏は、この誰が提唱しているのかわからない第三期ジェンダー論からは、女性が女性であることが自分の選択したことであるという不都合な帰結が生じると述べていますが、その不都合さをトランスにだけ勝手に押し付けるつもりでしょうか? 千田氏は、私たちは自分でアイデンティティを選択したのだから自己責任だとでも言いたいのでしょうか? 少なくとも私の人生においては、私の性別は私が選んだものではありませんでした。男性として生きてみようと頑張っては鬱状態になり、自殺衝動やアルコールへの依存を抱え、結局のところ「どう頑張っても自分には男性としては生きられないのだ」とあきらめたというのが実情です。そして自分が生きられるアイデンティティを探った結果、女性として生きているのです。私のアイデンティティは「構築した」ものではあるかもしれませんが、「自由」に選んだものではまったくありませんでした。自由に選べるなら、周りに合わせて普通の男の子の振りをしようとした中学時代に、私は鬱状態になって不登校に追いやられるのでなく、ただ普通の男の子として生きることが出来たことでしょう。


「美容整形やコスメ、ダイエット、タトゥーなどの身体変容にかんする言説を検討すれば、身体は自由につくりあげてよい、という身体加工の感覚は私たちの世界に充満している。」

千田氏がトランスに帰する立場のうち、身体の選択の自由よりも、アイデンティティに選択の自由のほうこそが後の議論のかなめに見えます。にもかかわらず、なぜかここでは身体の加工の話ばかりがトランスと並列されています。これは身体の選択の自由が私たちにとって自然であるという事実を、「身体とアイデンティティの自由な構築」という並列を通じて、「同じようにトランスはアイデンティティも、コスメやダイエットのように作れると思っている」という、不当なアナロジーを読者に抱かせるために利用しているように見えます。アイデンティティの構築の話をするなら、それだけに議論を絞るべきです。


「「ジェンダーアイデンティティ」は生まれながらにして所与であり、変更不可能であるからこそ、手術によって身体を一致させたいというGIDをめぐる物語が典型的に第二期的なものであるとしたら、たまたま、「割り当てられた」身体やアイデンティティを変更して何の不都合があるだろうかという論理は第三期的な何かである。」

無数の問題を抱えた一文です。

第一に、GIDとトランスをこのようにまったく別のアイデンティティ観に根差すものとするのは、トランスのなかにはいまでもGIDの診断を受ける者がいる、それもしぶしぶでなく肯定的な仕方で診断を受け取る者がいる(私がそうです)という事実をまったく無視しています。

第二に「割り当てられた」の使い方が単純に間違っています。トランスについて語るときに「割り当てられた」とはassigned sex、つまり「割り当てられた性別」を指します。これは私の理解する限り、出生時に身体の形状をもとにして、それに関する社会的意味付けのなかで、医師や両親といった者たちが赤ん坊の性別を「割り当てる」、つまり「女である」、「男である」などと決めてしまうことを問題化する概念です。しばしばトランスは「心の性別と体の性別の不一致」などと語られますが、ここでは「体の性別」というのが実は純粋に身体的に決まるのではなく、そもそも医師や両親の権威、あるいは関連する法制度という社会的な意味付けの網の目のなかで他者から付与されるものだということを表しています。もちろんこれも、トランス限定の概念ではなく、シスにも適用されます。

つまり「「割り当てられた」身体やアイデンティティ」(それが何を意味するのか私には皆目わかりませんが)ではなく、「社会が私たちに押し付けた性別」にアイデンティティが合致していないというのがトランスであるはずです(GIDもこの意味でのトランスの一部となります)。ここではつまり、アイデンティティを所与としたうえで社会からの勝手な割り当てによって不利益を被っていることが問題とされているのです。

この第二の問題からわかることは、千田氏はトランスとは何なのかさえ知らないということではないでしょうか。

第三に、ここでGIDとトランスを区別する、しかもジェンダー観のかなり大きな違いによって区別するということは、千田氏の議論と齟齬をきたすように思います。というのも、千田氏が散々こだわっていた性器の形状は、ここで言うGIDにもトランスにも当てはまる事柄だからです。にもかかわらず、後に千田氏はトランスが第三期ジェンダー観を採用しているという(不当な)前提をもとに、シス女性の空間とトランス女性の空間を分けることを提案しています。この流れだと、GID女性はシス女性と同じトイレ等を使ってもよいが、トランス女性は別にしてほしいという話に思えます。しかし以前の個所では、シス女性のペニスへの恐怖が理由を持っているということを強調し、そのこととシス女性の空間の話をつなげていたのではなかったでしょうか? そしてGID女性でも性別適合手術を受けない限りはペニスは持っているのです。単純にここで挙がっている各主張は全体として整合的でないように思います。


「こうした感覚は、ポスト・フェミニズムの時代と親和的である。男女平等は、現実には達成されていない。[……]しかし、にもかかわらず、男女平等は達成されたという前提で、様々な問題を個人の「選択」や「責任」に帰する時代が、ポスト・フェミニズムである。」

そもそもこの話が議論全体のなかでどういう役割を果たしているのか定かではありませんが、一つ言えるのは、千田氏はトランスに、現実には達成されていない男女平等を達成されたと見なす反動的な立場と親和的なジェンダー観を帰属しているということです。この帰属が根拠を持たず、むしろ事実に反するように思えるということはすでに指摘しました。この不当な帰属の末に、「トランスが採用しているジェンダー観は男女の不平等を保存する」と言われれば、トランスの実際を知らない読者は「トランスとは性差別親和的な反動家だ」と誤認するのではないでしょうか。

もちろん、保守的なトランスはいます。それは保守的なシスが男女にわたって存在しているのと変わりません。けれどもここではそういう個別的な話ではなく、そもそもトランスという発想を可能にするジェンダー観自体が保守と結びつくとされているのです。どうあがいても不当な議論だと思いますが、とはいえそこに目をつぶるとしても、これだけの話をするには、やはりせめてトランスのジェンダー観の個所にきちんと論証が必要だったし、当事者の声を引用すべきだったのではないでしょうか?


「そこでは、男女平等を主張するフェミニストは、自ら「女」というジェンダーアイデンティティを「選択」したにもかかわらず、その結果が気に入らない、不平等だと、「性別」というカテゴリーを改めて持ち出して、自己正当化のためにひとびとを「性別」に押し込めてくるひとたちとすら表象される。俗な言葉でいえば、「男も女もないこの時代に、なぜまだ男だ女だなんてそんな古い言葉にしがみついていて、自分のせいでなく性別のせいだなんて、文句ばかりいっているの?」ということだ。」

この押し付けが不当なのは同意しますが、実のところ、これは千田氏がトランスに押し付けている立場そのものです。第1節の要約で引用した箇所でもありますが、252頁でトランスに対して向けられる千田氏の言葉は以下の通りです。

そもそも多様なセルフ・アイデンティティをみとめるとすれば、「トランス女性が女性トイレを使う権利」と「女性が安全にトイレを使う権利」が対立させられるかのように問題化されること自体が、そもそも奇妙ではないか。自分のアイデンティティがノンバイナリー、Xのひとも、移行中のトランスのひとも、すべてのひとが安全にトイレを使う権利がある。そもそも「女性」というカテゴリーが構築的に作られるのであるとしたら、なぜ旧態依然とした狭い二分法に依拠したカテゴリーである「女性」に、「トランス女性」を包摂するかどうかが問われなければならないのか。なぜ多様性を否定する二元論を持ち出し、その片方に「トランス女性」という存在を押し込めるかどうかが、「排除」の問題として執拗に問われるのか。問題は「二元論の片方にトランス女性を「女性」として認めて入れる」かどうかではなく、トイレの使用の際に、どのようなカテゴリーの線を引きなおすことで、皆が安全だと「感じられる」かどうか、という問題ではないのか。その基準は性別であるかもしれないし、ないかもしれない。そもそも「女性が安全にトイレを使う権利」とともに語られるべき事柄は、「トランス女性が安全にトイレを使う権利」であるべきだ。なぜそこが従来のトイレだとアプリオリに決められているのか。

ここではまさに、自ら選択したにもかかわらずなぜ旧態依然とした男女二分法にこだわり、「女性」にトランス女性を含めろなどと言うのかということが言われています。

繰り返しですが、ここでトランスに帰せられているジェンダー観が実際にトランスのものであることを千田氏はただの一言も正当化せず、何の根拠も挙げていません。そして私は実のところそれは事実に反すると思っています。そのうえで千田氏は、シス女性に向けられたら不当になると自らも判断していると思われる議論を、トランス女性に向けているのです。これが不当であることは、千田氏自身がよくわかっているはずです。

252頁

「トランス女性が「女性」として陸上競技に出るのは、この「テストステロン値」を性別の線引きとしてみなすという、「社会的合意」による。そもそもスポーツにおける線引きは、最初は外性器、それから染色体、そしてそれがさまざまなプライバシーの侵害などの問題を生んだために、今度はホルモン値へと変遷してきたのだ。身体が複雑に構築されているからこそ、私たちは何を「性別」とみなすのかに関する社会的な合意を必要としているのだ。」

話自体は同意しますが、流れはよくわかりません。フォーステーターが生物学的本質主義に接近しているという話から、千田氏はその道を取らないと宣言されたあと、いきなりセメンヤ選手の話が出てきます。しばらく陸上競技の話があったあと、特に接続する文言もないままに後に「トイレに話を戻そう」と述べられるので、何のための個所なのか、トランスでないセメンヤ選手とトランス女性の話にどういった関連性を千田氏が見出しているのかは定かではありません。もちろん、身体的な基準での性別の認定という問題を介してこれらの問題は重なるのですが、千田氏がそこからトランスに関してどういった帰結を引き出そうとしているのか見えないのです。

それはともかくとして、この個所について私が言いたいのは、「それがわかっていながら、なぜ?」です。何を「性別」と見なすのかは社会的合意のもとで決まるのであり、決して身体そのもので決まるのではありません。そして現状、その社会的合意が私たちトランスにそのアイデンティティと反する性別を割り当ててしまう。だから、その合意を修正しましょうと私たちは言っているわけです。けれども千田氏は決してそちらの方向へは足を踏み出しません。スポーツにおける性別の基準が状況に応じて変えられてきたように、トランスが他のひとと同様に暮らせる社会を実現するために性器の形状によって性別を判定するのはやめるようにしていきましょう、とは奇妙にもならないのです。


「もしも自由と多様性の旗印のもと、私たちが皆のセルフ・アイデンティティを尊重するとしたら(実はすべてのひとにとって、その自由の行使はそう容易でもなければ、均等に分配されているわけでもないことは別稿に譲るとして)、私たちが考えるべきことは「どのように皆の安全が守られるのか」という問いになろう。」

ここで唐突にこれまで一度も出てこなかった「セルフ・アイデンティティ」という言葉が登場します。それを略した「セルフID」はフォーステーターの言葉として出てきていますが。「セルフID」という言葉は、トランス当人にとってもまるで自由でないアイデンティティを、さも自由に自称しているかのように語る、トランス排除的な言説でたびたび目にする言葉であると、私としては理解しています。ここで「セルフ・アイデンティティ」は同様に用いられているように見えます。ここまではぎりぎりトランスフォビアの擁護にとどまり、積極的にフォビア的に加担していたわけではないと言えたかもしれませんが、自らこの言葉を使い出したあたりで(厳密にはトランスに不当なジェンダー観を押し付けたところからすでに、だと思いますが)、私は千田氏自身も積極的な加担の側に足を踏み出しているように思います。

また「実はすべてのひとにとって、その自由の行使はそう容易でもなければ、均等に分配されているわけでもないこと」については、はっきり言って、別稿に譲っていただくまでもなく、ほとんどのトランスは身をもって知っています。シス男女のアイデンティティは誰からも疑われることなく気ままに行使されるにも関わらず、私たちはアイデンティティを明示すれば疑われ、それをこのようにわざわざ雑誌上で「自由に選んだセルフ・アイデンティティ」などと事実に反する物言いをされ、自らのアイデンティティの行使に繰り返し否定的な言説が突き付けられます。私から見れば、千田氏のほうこそアイデンティティをめぐる自由がある種の人々にとって得難いこと、その行使が均等に分配されていないことをまったく理解していません。

ここでは「どのように皆の安全が守られるのか」という言葉にも注意すべきです。これは見たところ当たり障りない言葉ですが、ここから後に千田氏は、「女性」と「トランス女性」を区別し、それぞれの安全を守ればいいという話へと展開します。この際に、私たちの女性としてのアイデンティティを毀損して私たちが安心して暮らせないような言説環境を作り出すこと、私たちもまたシス女性も被る性差別や性被害の多くをしばしば被っており、「女性」と「トランス女性」の線引きによってそれが曖昧化され、私たちがさも被害の危険が実際より少ないかのように見なされかねないことなどを考えているようには思えません。ここではトランス女性は単に「女性に値しないもの」として見捨てられ、それによって安全が損なわれたとしても「あとは自分たちでどうにかして」と放置されているといったほうが適切であるように思います。実際、千田氏の議論立てでは、トランス女性はあくまで自分の選択したセルフ・アイデンティティを主張しているだけなのだから、それによる不利益は自己責任となるのでしょう。


「日本では女性の排泄に対して、性的な興味をむける視線があり、プライバシーを守るためのトイレの構造が、その性格上、暴力の温床となり得る。」

唐突に登場する、この一文のみのこの段落の役割は不明確です。しかしこれまでにも何度も「女性」でシス女性のみを指す用法があったために、この個所を読んで「トランス女性もシス女性も暴力を受け得る」という実情に照らして適当な読みではなく、「シス女性は暴力を受け得る」という誤った読みへと誘われる可能性は大いにあるように思います。それにしてもそのこととトランス女性の話が何の関係を持っているのかわかりません。無理やり関係をつけるならトランス女性と「性的な興味をむける視線」の重なりを暗示しているという可能性が思い至りますが、できたらそのような文章を書いていると解釈するよりは(それではあまりに悪質な語り口になってしまいますから)、単に意味のない文を挿入していると解釈したいところです。とはいえ、そのような誤読にいざなわれる読者は存在しうると判断します。

253頁

「そもそも多様なセルフ・アイデンティティをみとめるとすれば、「トランス女性が女性トイレを使う権利」と「女性が安全にトイレを使う権利」が対立させられるかのように問題化されること自体が、そもそも奇妙ではないか。」

それ以上に奇妙なことは、繰り返しですが、「多様なセルフ・アイデンティティをみとめる」という謎の立場です。ノンバイナリーな性別も認めるというのはトランスの多くが採用し、また少なからぬ当事者もいる立場で、多様性はその意味で認められていると思いますが、「セルフ・アイデンティティ」という言葉に込められた「自らの自由で選択するアイデンティティ」という発想は、一般的にはトランスの立場ではないと思います。

「トランス女性が女性トイレを使う権利」と「女性が安全にトイレを使う権利」が対立させられるのは奇妙だというのは同意します。なぜなら私たちが求めているのは後者の「女性が安全にトイレを使う権利」に過ぎないからです。これがおかしい話だと思われるとしたら、それは暗黙の裡に形容抜きの「女性」はシス女性を指すと想定しているためにすぎません。私たちも女性であり、安全を必要としていて、しかしシス女性と同様の性被害や暴力の可能性があるにもかかわらず、シス女性の一部からはときに「男性用トイレを使えばいいではないか」とまで言われているというのが私たちの実態です。もっとも、ここを誇張するつもりはありません。そういう発言を実際に見たことはありますが、それはごくごく一部の過激なトランスフォーブの発言であり、私が女性用トイレを使おうとしたときに追い出そうとしたシス女性というのはひとりもいませんし、私がトランスだと知っている友人たちにも、私が女性用トイレの使用に怯えていたときに「怖いならついていってあげるからちゃんとトイレに行きなさい」などと励ましてくれたひとこそいても、難色を示したひとはいませんでした。

話のついでに言っておきたいのですが、トランスフォーブはTwitter上でこそ目立ちますが、経験上実際に遭遇する機会はまずありません。シス女性の多くは、はるかにもっと柔軟です。それはフェミニストも含め、です。トランスフォビックであると判断される言説には反対しますが、シス女性全体を悪魔化して怖がるような罠に、私たちも陥るべきではありません。


「そもそも「女性」というカテゴリーが構築的に作られるのであるとしたら、なぜ旧態依然とした狭い二分法に依拠したカテゴリーである「女性」に、「トランス女性」を包摂するかどうかが問われなければならないのか。」

繰り返しですが、私たちが自分自身にもどうしようもない仕方で女性だからです。そして女性という区分が社会的同意で作られるからこそ、現にどうしようもなく女性である私たちがほかの女性と同様に安心して暮らせるために、「女性」にトランス女性を含めるようにカテゴリーを拡張してほしいのです。もしまだそのように拡張がなされていないのだとしたら、ですが。実情としては、千田氏の見解に反して実際の社会はそのように「女性」カテゴリーを拡張する方向にすでにだいぶん進んでいるように思えるし、実際私も手術後はもちろん、その前から職場などでは、完全に十分とは言わないまでも、女性として勤務し、トイレなども普通に使わせてもらっていました。二分法はともかくとして、旧態依然としているのは千田氏の女性概念なのではないかと思います(世の中の動きの方がもう少し先進的に思えます)。

ところで「そもそも「女性」というカテゴリーが構築的に作られるのであるとしたら」というのは不思議な言い回しです。というのも、トランスに帰属されていたのは「自分のアイデンティティを自由に構築する」という(誤って帰属された)見解で、「女性というカテゴリーを構築する」などといった話ではなかったからです。女性というカテゴリーがそもそも構築的だというのは、むしろフェミニズムの伝統的な主張、千田氏のジェンダー論の三段階分類でいうと、第一段階でジェンダー概念が提唱されたときからの基本的な主張ではないでしょうか? そのこととこの文の後半の話が私にはつながっているように見えず、困惑します。


「問題は「二元論の片方にトランス女性を「女性」として認めて入れる」かどうかではなく、トイレの使用の際に、どのようなカテゴリーの線を引きなおすことで、皆が安全だと「感じられる」かどうか、という問題ではないのか。その基準は性別であるかもしれないし、ないかもしれない。そもそも「女性が安全にトイレを使う権利」とともに語られるべき事柄は、「トランス女性が安全にトイレを使う権利」であるべきだ。なぜそこが従来の「女性」トイレだとアプリオリに決められているのか。」

ここではさも「皆の安全を考えている」という雰囲気のもとで、トランス女性を男性にも女性にも分類されない「その他」に置いています。私たちの安全は「女性の安全」とは別であると。いえ、千田氏はずっとその立場であり、だからこそ「女性」は多くの個所でもっぱらシス女性を指しているのですが、ここではそれが強く出ています。冒頭に「二元論の片方にトランス女性を「女性」として認めて入れる」かどうかは問題でないと書かれていますが、それは何も不思議ではありません。千田氏はずいぶん前より「女性」でシス女性だけを指していたのですから、その問題は論じるまでもなく千田氏のなかで決着がついているのです。

そしてまたここでは、アイデンティティを認められない空間の脅威というものが考えられていません。トランス女性をシス女性と別仕立てに、「女性」ではなく「トランス女性」として線を引いたうえでその安全を考えればいいと千田氏は考えているようですが、その線引き自体が私たちを毀損すること、またシスに比べてトランスを劣った位置に置くシス/トランス二分法の強化であり、私たちへの差別や暴力、軽侮が強まる可能性などを何一つ考えてはいません。そうした危険性は、問題を他のマイノリティ女性に置き換えて語ったなら明白であるだろうと思います。


「トランス排除について語る座談会では、トランスジェンダーは、「嫌われ」「怖い」と思われ、「存在を認めない」「わけのわからない性の人たち」「気持ち悪く感じてしまう」「存在がわいせつである」という「差別者」の「意識」の結果、トランス排除がおこるという論理が構築されている。」

それはそうだろうと思います。よくわからないのは、千田氏がこれを誤認だと考えているようであることです。この論文ですでに、トランス女性のペニスへシス女性が抱く恐怖には理由があり、それを語るシス女性がいるのは仕方がないといった議論をされている以上、少なくとも「怖い」とは実際に思われていると千田氏も認めていたのではなかったでしょうか? さらに千田氏はトランスを「セルフ・アイデンティティ」などという自己決定されるアイデンティティの持ち主と見なし、「なぜトランス女性を男女二分法の一方である女性に包摂しなければならないのか」という疑問を口にしている以上、既存の男女二分法には収まらず、しかもなぜか自己決定できる奇妙な性のひとだと、自分自身が論じていたのではないでしょうか? そのほかはともかく、この二点は千田氏自身が丁寧にこの論文によって実例となってくれていることです。そのうえで(シス)女性の安全とトランス女性の安全は別個に追及すべきであり、トランス女性の安全の場がなぜ女性用トイレだと決まっているのかという論調は、まさに通常トランス排除と呼ばれる主張そのものとなっています。

本当に奇妙に感じるのですが、千田氏のこの論文そのものがトランス女性のペニスへの「怖い」という気持ちや、トランス女性のアイデンティティを「セルフ・アイデンティティ」などという「わけのわからない性」と見なす立場を根拠にして、シス女性とは別の場所でトランス女性は安全を求めるべきだというトランス排除を主張していて、私にはここで千田氏が疑念を呈している論理の格好の適用例が千田氏自身の議論であるようにしか見えません。これにご自身で気づかないというのが、私には本当にわかりません。

254頁

「トランスに対して差別意識を持っていたら、そもそもトランスの排除という問題自体に関心がなく、この問題を避ける可能性のほうが高い。」

ここも単純に根拠のわからない箇所です。

つまりこの主張によると、排除というトピックを避けず排除の必要性を訴えるひとは、基本的に差別意識を持っていないということなのでしょうか? ここは、本当にわかりません。別の例を挙げると、民族的マイノリティに差別意識を持っていたら、民族的マイノリティを排除しようという問題をそもそも避けるはずということでしょうか? だとしたら、積極的にヘイトスピーチをおこなったりしているひとたちは、問題を避けていないから差別意識を持っていないのでしょうか? 何というか、この個所については、私はただ困惑しました。また結局、千田氏は、ターフと名指された人々は排除をしているという立場なのかそうでないのかどちらなのでしょう? この言い回しからすると、「排除はしていて、しかし差別意識を持っていたらそもそもそんな関心を持たないはずだから、差別意識ではない」という立場に取れますが……。


「なんとかトランス女性を排除しないで自分たちの「安心」の場を得られるか、試行錯誤しているひとの主張を、「差別意識」だけに還元することは弊害の方が多い。」

ここでも困惑します。というのも、千田氏の「排除」は何を意味しているのでしょう? 私の理解する限り、トランスフォビアの、とりわけトランス女性へのフォビアの問題として語られるトランス排除とは、「女性のスペースからのトランス女性の排除」のことです。千田氏が好んで論じるトイレはその典型例でしょう。従って、「トランス女性を排除しないで」はこの文脈では「トランス女性もいままで通り自身の状況に照らしつつうまく女性用トイレを使うものとして」を意味するということが私の、そして多くのトランス当事者やそのサポーターの想定する理解でしょう。けれど、千田氏が主張していたのは、「トランス女性の安全の場がなぜ女性トイレなのか」といったことでした。これを「トランス女性を排除しないで」と述べているとき、いったい千田氏はどこからの排除のことを語っているのでしょう。ここもまた、ただただ困惑する個所です。


「彼女たちが差別意識を持っているということはこのように事実誤認だと思うが、もしも仮に差別意識があったとしても、差別の問題を考える際に、その原因としてことさら「意識」を持ち出し、批判のターゲットとすることは大きな問題を呼び込む。この論理は、差別の解消のためにすべきことは、「差別者」への啓蒙と意識改革と帰結させられる。「ターフ」が気持ちを入れ替えて、差別をやめさえしたら、問題が解決するかのように見えることだ。だからこそ、「ターフ」を探しだして、なんとか啓蒙しようとするのだが、当然、思ったような反応がかえってこなければ、苛立ちは増幅する。」

この個所もひたすら困惑しました。「差別意識があったとしても」差別者への「啓蒙と意識改革」を目指すことは問題だと言っているように読めるのですが、それであっているのでしょうか? そしてその問題は、啓蒙がうまくいかなかったら苛立ちが増幅することだと。metooやkutooの運動もそうだと思いますが、しばしば差別への反対運動は無自覚にも差別を行なう人々の意識改革、啓蒙へと向かうものであるものと私は理解していました。しかし、それは啓蒙がうまくいかないときにいらだってしまうから問題だというのでしょうか? なら私たちは、トランスのみならず、シス女性も含めてこの社会で不利益を被るあらゆる人々は、どう差別に対抗したらいいのでしょうか? 私がフェミニズムに詳しくないために困惑しているだけかもしれませんが、「フェミニズムの現在」と題した特集のもとでこのようなことを言う以上、現在のフェミニズムはこうした思想のもとで営まれている、少なくとも千田氏はそう理解しているのでしょうか?

ここから先はわざわざ取り上げません。そこでは「いらだったトランスたちの攻撃的な活動」がリストアップされています。私がこのことから想起するのは、性差別的なシスヘテロ男性がときに「フェミニズムにつぶされたもの一覧」のようにリストアップするような事柄です。

文脈

私の知るかぎりでの、この論文が現れた文脈です。
社会学者の千田有紀氏によるトランス女性差別を巡る議論 - Togetter

このまとめからあるていどは見て取れるかと思いますが、発端は千田氏がトランスフォビックなTwitterアカウントとトランス当事者やそのサポーターたちの対立を、「マイノリティ同士の対立」とまとめたことに端を発します。後者からすれば「マイノリティ同士の対立」ではなく、マイノリティがそれよりも下位のさらなるマイノリティへと差別的な言動をしているという認識であったため、千田氏の認識の仕方が問題とされました。

ツイートの応酬がなされるなか、千田氏はトランスフォーブとして有名なアカウントの発言を引用したり、唐突に女風呂での男性からの性被害の話をしたりし、そのことがトランス側から問題視されました。アカデミックな側でも、小宮友根氏や清水晶子氏のようい、トランスの権利に積極的に関わっていた研究者たちから疑問の声が上がりましたが、千田氏はその話を打ち切り、「あとは論文で語る」と幕引きをしたのでした。そこで出てきたのが今回の論文だったため、千田氏自身がそのように述べているのかはわかりませんが、関連する多くのひとが、これこそがその論文であると判断し、その内容を心配していたのでした。

私はアカデミックなフェミニズムの研究者ではありません。しかし、せめてトランス当事者としての声を可能な限りあげようと思いました。これがアカデミックな領域でのフェミニストのみなさんのもとへ届き、少しでもトランスをめぐる状況が改善されることを望んでいます。



追記
千田氏の論文の差別性はもはや明らかだと思うのですが、私としては千田氏ご本人にこれを問いただしたいという気持ちは強くありません(悪質でないからではなく、悪質だと思うが千田氏の改心を少しも期待していないからです)。

それよりもこの論文を平然と掲載した青土社現代思想』編集部に、どういうつもりだったのか、トランス差別に対して、あるいはその他のさまざまな差別について会社としてはいったいどういったスタンスを取っているのか、この論文に関してどのような意見でいるのかといったことをきちんと説明してほしいと思っています。

千田氏はただ一人の差別者であるに過ぎませんが、その言葉をさも学術的に価値ある内容であるが如くに世間に放ったのは『現代思想』なのであり、その点ではっきり言って差別に大いに加担する振る舞いをしているというのが私の認識です。実際、『現代思想』に掲載さえされなければ、千田氏は研究者としての身分があるとはいえ、それ以外はせいぜいただのよくいるTwitter上のトランスフォーブでしかなかったはずです。『現代思想』が差別に加担することをよしとする方針でないならば、できるだけ早くこの事態に関して声明を出し、これから読む読者たちに問題点を示して、トランス差別が広まらないように対策をしていただきたいと思います。

これは過大なお願いでしょうか? そうではないと信じています。


追記
上に書いた、こうした差別加担的な文章が載ってしまったことについて『現代思想』側には責任があるのではないかという点はいまも同じ考えですが、ただこの本自体は悪いものではないはずということをお伝えさせてください。おそらく、単に不注意からうっかり載せてしまっただけなのだと、私は思います。

実際この本には鈴木みのりさんの「(トランス)女性の生活の中の音楽」という文章ものっていて、こちらはむしろこれまでまともに響くことも聞き取られることもなかった、日々この街で生活を送っている一人のトランス女性の感じるものを、その生活ごと語り、そのなかで音楽というものがどのように経験され、そして音楽によって感じるものがどう変容していくのかと言ったことを繊細に描いていて、素晴らしい文章となっています。

この記事をご覧になった方、とりわけ『現代思想』を購入したうえでご覧になった方は、ぜひ鈴木さんのそちらの文章もご覧ください。そこで語られているものこそが、リアルな一人のトランス女性の姿です。

小説紹介Meredith Russo『If I Was Your Girl』

トランスの女の子が主人公のヤングアダルト小説!

Russoさんのとても評判の良い小説『If I Was Your Girl』をご紹介します。

If I Was Your Girl

If I Was Your Girl

この小説は、性別移行したての高校生の女の子が、新たな街と学校で暮らしだす物語。作者のRussoさんはご自身も公言されているトランス女性です。青春小説らしい甘酸っぱさや爽やかさと、当事者ならよくわかる苦しさやちょっとした「あるある」的な笑いが見事に同居した、「こんな小説を待っていました!」と喝采したくなる名作です。

本当に評判がいいらしく、Amazonの説明によると、以下の賞を取っているそうです。

  • Stonewall Book Award Winner
  • Walter Dean Myers Honor Book for Outstanding Children's Literature
  • iBooks YA Novel of the Year
  • A Publishers Weekly Best Book of the Year
  • A Kirkus Reviews Best Book of the Year
  • An Amazon Best Book of the Year
  • A Goodreads Choice Award Finalist
  • A Zoella Book Club Selection
  • A Barnes & Noble Best YA Book of the Year
  • A Bustle Best YA Book of the Year IndieNext Top 10
  • One of Flavorwire’s 50 Books Every Modern Teenager Should Read

と言っても、私にわかるのはBarnes & Nobleがアメリカによくある大型書店(紀伊國屋とかジュンク堂みたいな感じ)であることくらいで、ほかのはどういう賞なのかよくわかりませんが……。でも最後の、「現代のティーンエイジャーがこぞって読むべき本50」とかは、なんだかいいですね。そう、読むべき本です。ティーンエイジャーに限らず。

翻訳は出ていなくて、ちょっとアクセスしにくいのが困りどころ。私が翻訳をして持ち込みとかできないかなと出だしの翻訳に挑戦してみたりもしたのですが、仕事で忙しくてぜんぜん手がつけられておりません。

ともあれ、この小説の凄さやよさをご紹介しますので、英語で挑戦しようというかたはぜひ! そこまで難しい表現などはないので、英語小説にそんなに慣れていないひとでも読みやすいほうだと思います。

とても自然なトランスヒロイン

主人公のアマンダは、もともといた学校ではいじめられ、友達もおらず、とうとう自殺未遂を起こしてしまいます。そこで出会った医者に勇気を振り絞って、女の子として生きたいという話をして、そこから、トランスコミュニティに参加してはじめて本当の名前で呼んでもらったりするようになります。

そんなアマンダは、性別適合手術が受けられるようになるや、すぐに受けていて、もう物語開始時点では手術を終えているのですが、その後も学校には復帰できず、お母さんと二人で自宅で過ごしていました。けれどこのままではいけないと一念発起し、離婚して一人で暮らしているお父さんのもとへと引っ越し、トランスであることを隠し、ただの女の子として新しい環境、新しい学校で生きていこうとする。それがこの物語の始まりとなります。

アマンダは、パスになんの問題もない女の子として描かれています。それどころか、男の子からも女の子からも一目で気に入られる美少女とされている。

ほとんどファンタジーみたいな設定に思うかもしれませんが、この点についてはあとがきでRussoさんも説明していて、要するに普通の女の子としてのトランスの女の子という面を、シスのひとにも受け止めやすいようにと計算してのことらしいです。そう、この作品では、たまたま変わった体と変わった過去を持ってしまい、それを隠しながら暮らそうとする普通の女の子の姿がどこまでも描かれるのです。

パスに問題がないから、誰もアマンダのことを奇異の目で見たりはしない。けれどアマンダは自分のことを気にし続ける。そのギャップが、きっと当事者から見たらリアルに見えるはずです。アマンダの怯えは、私にもあるものでした。

一例を挙げると、仲良くなった写真好きの女の子に写真を撮られそうになって、すっと顔を背けるシーンがあったりします。どうでしょう? トランスのひと、特に女性にはちょっとピンと来たりしませんか? 

外見に注目されるとか、外見が形に残るとかが怖いんですよね。私もいまの姿にはだいぶん満足していますが、それでも写真に怯える気持ちはあって、なかなか自分でも撮らないし、ひとに撮られるときにもちょっとした覚悟が必要だったりします。

周りはアマンダをただの大人しい美少女としか思っていないから、余計にこのアマンダの怯え方、事情を知らない周りからするとなんでそうなるのかわからない反応が強調されて、その分だけトランスのリアルが浮き彫りになるようです。

あちこちに見え隠れするトランス「あるある」

アマンダの描写に加えて感動したのが、さすが当事者が書いただけあるというトランス「あるある」の数々でした。

細かなことだけれど、ボタンの左右がむかしといまとで変わってしまい、ボタンを閉めるのに手こずるとか、私も覚えがあります。それが描写されていて、アマンダがボタンに悪態をついたりする。些細な描写ですが、非当事者のつくった作品では、私は見たことのないもので、ついくすりと笑ってしまいました。

あと、笑えない「あるある」としては、埋没して暮らすことにこだわるあまり、かつては親しかったのにパス度が低いトランスのひととは一緒にいるのを躊躇うようになる(一緒にいるとバレてしまいそう)という話があったりもします。

そして、パス度が極めて高いヒロインにトランスコミュニティのひとが言う「あなたは遺伝子くじ(genetic lottery)に当たったんだから」みたいな言い回し。シス女性の友達に「ここが気に入った」と話したらぎょっとされたのですが、この外見がサバイバルに直接影響し、そして外見に影響する遺伝子に関して「勝ち負け」の感覚が拭難くあるというところ、こういうのもなんだか私にはとてもトランス女性らしさだと感じます。気になりますし、生まれつきパスするような外見や声のひとは羨ましいですものね。

人間関係の描写が絶妙

さて、この小説はもちろんトランス「あるある」を開陳するだけの内容ではなく、はっきりとした物語があります。新しい学校に行き出したアマンダが、そこで新しい友人や、はじめての恋人を得ることになり、自分がトランスだと知られたらという恐怖と、しかし(特に恋人には)どこかでそれを言うべきではないかという気持ちとに葛藤しながら、少しずつ自分の生き方を見出していくのです。

そのなかで、周りの人物のアマンダへの関わり方が、すごくうまく描かれています。友人や恋人に関しては、ぜひ小説で確認してみていただきたいのですが、ここで触れたいのはお父さん。

久しぶりに会ったら女の子として暮らし出していた我が子に、お父さんは戸惑い、はじめは周りのひとに娘の存在を知らせまいとしたり、アマンダのことをむかしの名前で呼んだりします。そんなお父さんが、時間をかけて、アマンダの理解者と庇護者へと成長していくさまも、この小説の筋のひとつとなっています。最初は「なんだこのおじさんは」と思うのですが、最後まで読むともはやこの小説でいちばん愛らしいキャラはお父さんではないかというくらいに好きになりますよ。

総じて言えば、特にアマンダのように完全にパスしている子の場合は、最初の印象や、それどころか仲良くなってからの関係や会話からすら、そのひとがトランスフォビアを秘めているかどうかはわからないということが絶妙に描かれていると言えます。

あと、この小説はキリスト教との関係もいろいろと語られていて、これに関しても面白いです。アマンダが引っ越した先は保守的な信仰が根強い地域で、友達の両親が乗る車にもホモフォビックなステッカーが平然と貼られたりしている。大都市だともう少し風当たりもマシなのだろうと思いますが、読んでいて居心地の良さそうな地域ではないんですよね。そんな街の雰囲気や、あとアマンダが教会に通えなくなってからも自分なりの神に祈る姿などが描かれていて、このあたりは私にはあまりわからないところではありますが、読んでいて興味深かったです。

青春の物語

と、主にトランス当事者として気に入った点を挙げましたが、単純に青春小説としてすごく良くできているんですよね。新しい友達との交流、これまで味わったことのないいろいろな経験、はじめての恋と、恋人との甘いやりとり、苦悩、そして苦悩を超えて自分自身の生き方を見出すこと。

ラストのアマンダの決意には、読んでいて涙さえ流れてきました。当事者にも非当事者にも読んでみてもらいたいです。

あと、あとがきでトランスの読者向け、シスの読者向けにいろいろと作品の狙いなどを解説していて、そこもとてもよかったです。ぜひ合わせて読んでみて欲しいです。

映画紹介『彼らが本気で編むときは、』

「母性」あふれる、「女らしい」トランス女性はステレオタイプ的?

彼らが本気で編むときは、 | J Storm OFFICIAL SITE

荻上直子監督作の『彼らが本気で編むときは、』は、公開前から話題になっていた映画でした。

かもめ食堂』などで評判となった荻上監督の手になる作品で、当時はまだそこまで多くない、トランス女性をシリアスに取り上げた作品でもあり、しかも主人公の女性をジャニーズ事務所に所属しながらも歌やダンスではなく俳優で身を立てている生田斗真さんが演じるというので、監督に関しても、テーマに関しても、出演者に関しても、話題になって当然といった作品でもありました。

この映画、私も公開してすぐに映画館に見に行き、かなり序盤から涙を流し、ハンカチを握り締めながら見たものです。これを機にすっかり生田斗真さんのファンにもなりました。『人間失格』なんかもいいですよね。「こんな声で語りかけてくれるひとにだったら、私も尽くしてしまう……」と思いました。

話を戻しますが、この記事では、生田さんがトランス女性を演じる素敵な映画『彼らが本気で編むときは、』のよさを、私の目線から語っていきたいと思います。

それに当たって、ひとつ参照点を加えておきたいと思います。と言いつつ、もはや検索しても見つからなくて実際に参照することはできなかったので、記憶頼りで語るしかないのですが、実はこの映画、公開直後にある批評が話題になったんです。とはいえどなたが書かれていたのか思い出せないので、具体的な批評というよりは、「仮想の批評」くらいに思っていただいても構いません。

それは、この映画がトランス女性を扱うという点で先進的でありながら、ステレオタイプ的な女性像を再生産するという点でむしろ保守的であると指摘し、不満を述べる批評でした。実際、生田さん演じるリンコは、相当な程度に「女性的」なんです。妙にゆるっとしたワンピースばかり着ていたり、料理上手だったり、子供好きだったり、編み物までできたり。とても優しく穏やかな人物としても描かれていて、それはまさに、「女性的」とされる要素のてんこ盛りみたいな人物描写になっている。それがステレオタイプ的な女性像であることには、私も異論はないのですが、そのことの、私から見た限りでの、トランスにとっての意義というのを語ることで、そうしたありうる(というか現にあった)批評に応答していきたいと思っています。

とはいえ、いきなりそんな話をしてもあれなので、まずはもう少し柔らかなところから。

あ、この記事にはたくさんのネタバレが含まれますので、気になる方は先に映画をご覧ください。

トランスの女性と、小学生の女の子の、擬似的な親子関係

この映画の筋は、かなりわかりやすいものです。

主人公は、ネグレクト気味な母親ヒロミと二人で暮らす小学生の女の子トモ。しばしばトモを放置して家を出てしまうヒロミなのですが、物語の始まりでもいつものように新しい恋人のもとへと出奔してしまい、トモは一人取り残されることになります。そんなとき、いつも頼る相手が叔父(母親の弟に当たります)のマキオ。今回もトモは慣れた様子でマキオの働く本屋さんに赴き、マキオの家に身を寄せようとします。ところが、久しぶりに会うマキオには実は恋人ができていて、すでに一緒に暮らしているというのです。それが、トランスの女性である、リンコなのでした。

トモはもともと、偏見から自由ではない女の子です。幼馴染の男の子カイが「女みたい」などとからかわれるのを見て、それに自然と与するかのように、カイを粗雑に扱ったりします。そして、ここがこの映画のポイントのひとつだと思うのですが、生田さん演じるリンコは、はっきり言ってそんなにパスしていません。要するにトランスだとわかりやすい。作中でも一目でバレるシーンがあったりします。そんなリンコですから、初めて会ったときのトモはぎこちない。

けれどともに暮らすうちに、トモ、リンコ、マキオが互いに信頼しあうひとつの家族となっていく、その様子をこの映画は丁寧に描いています。

リンコの絶妙な描写と演技

リンコに関して、当時からさまざまな感想が見られました。なかには「ふつうの女のひとにしか見えない」(その意味するところは「シス女性にしか見えない」だと思います)というのもありましたが、作中でリードされる(バレる)描写がある以上は、少なくとも制作サイドはそのように意図していなかったかと思います。トランスであることはわりとすぐ見て取れるタイプです。

他方で、「服が似合っていない」「服がダサい」のような意見もたくさん見かけました。そして「生田斗真が男っぽすぎて男にしか見えない」などもありました。

私は、これが、「だからこそ」リアルだと感じました。

リンコはやけにワンピースやスカートにこだわり、そして、やたらとゆったりした服を着るし、しかもそれが生田さんの顔つきなどに比すると少女的すぎるきらいもあって、はっきり言って似合っていないし、ダサいんです。でも、特にジェンダークリニックに行った経験のある当事者のかたはピンとくるのではないかと思うのですが、そういうトランス女性って、実際のところ多いんですよね。思うに、これにはいくつかの理由があるんです。

ひとつには、女性的なものへの憧れがある。体つきや顔つきからすると、いっそボーイッシュな格好をしたほうが似合うには違いないんですよね。でも、女として生きると決意した以上は、できたら女性的な服を着たいというのが人情。もちろん慣れてきたらボーイッシュなアイテムを組み合わせつつフェミニンに見せるとかもできるのですが、トランスの女性は、特に移行からそこまで経っていないひとは、経験不足すぎてそもそも慣れていないんですよね。

さらに、経験不足というのと絡むことですが、ファッションの個人史みたいなものが欠けているひとも多い。何せ、移行するまで男性服を着ていたわけです。そうすると、シスの女性なら多くの場合に経験するのであろう、各年代でいろいろ着てみては周りの意見をフィードバックして、だんだんとファッションの感覚を蓄積・更新していくというプロセスが、ぽっこり抜けてしまいがちなんです。そうするとどうなるかというと、「女性服を着ようにも、どんなアイテムがあり、何が自分に似合っているのかなどの蓄積がまるでなくて、五里霧中」みたいな状態になってしまう。

私は男性として暮らしていたころから服は好きで、男性服で自分なりに可愛く着るというのをしていました。特別におしゃれとまでは言えなくても、興味や慣れはあったほうだと思います。それでも、女性服にシフトしたころはどうしたらいいかわかりませんでした。そもそも想定されている体格が違うから、男性服を買っていたブランドでは着れる女性服を買えなかったりするんですよね。あと、やっぱり女性服のほうがバリエーションが多くて、男性服時代には挑戦したこともないようなものが多すぎる。そんなこんなで、私もはじめのころはかなりもっさりした格好になっていて、母に笑われたりしていました。

また、男性として暮らしていたころの規範が心に残っていたりもします。例えば肌を出すことへの忌避感。男性が肩を出したり脚を出したりというのは、かなり頻繁に「気持ち悪い」と評価されます。いまもたぶんそうですよね?そうすると、肌を出すのは気持ち悪がられるというのが心に刻み込まれてしまって、妙に肌を覆う格好になりがちなんですよね。それってでも、男性に比べると女性には適用の程度が低い規範で、そんな意識でいるとどうしてももたついたような服装になりがちなんです。見ていると、リンコも妙に肌を覆う割合の大きい格好をしていて、このあたりでもリアルだと感じました。

もちろん、体格をごまかしたいというのもあります。肩幅の大きさ、くびれのなさ、脚の筋っぽさ……。ホルモン治療が進めばだんだんと気にならなくなる部分もありますが、若いうちからホルモンをするのならともかく、それなりの年齢になってからだと、骨格などはどうしても変えようがなくなってきます。すると、それをどうにか誤魔化したくて、ゆるっとした服を着たくなったりするんですよね。

これに関連して、あからさまに女性的な服のほうが少なくとも女性として見られたいという意志自体はあらわな分、トラブルが起きにくいというサバイバル上の理由ももちろんあるでしょう。

そんなこんなで、リンコの「ダサい」格好って、私から見るととてもリアルで、「わかってる」感じがするわけです。それに加えて、さして女性的な顔立ちでもない生田さんの起用。顔立ち、体つき、声、どれもまさに移行の途中段階などで経験するような、周りからすぐに奇異の目で見られるトランス女性の姿なんですよね。もちろんそういう経験をせずに済むひともいるとは思いますが。

だから、生田さんの演じるリンコに向けられる感想もまた、トランスの女性として生きる私には、聞き覚えのある言葉でもありました。それがすごいと思う。感想を書いているひとは思ってもいないだろうけれど、この作品はまさに、リードされてしまうトランス女性に出会ったときに非当事者から発せられがちな言葉を引き出すつくりになっているんです。その背後にあるのは、リンコのやたらとリアルな描写だと思うんです。

これに加えて、生田さんの演技もとてもいいのですよね。そこかしこで見られる怯えたような視線、手の大きさを指摘されたときの動揺など、トランスである私から見て納得のいく振る舞いを見事にしてみせています。

トランス女性が母に成る物語

さて、ステレオタイプの話に移りたいと思います。リンコは料理上手でフェミニンな服を好み、子供に優しい、このうえなくステレオティピカルな女性として描かれている。なぜそのように描かれているのでしょうか?

まずトランス女性にとっての女性ステレオタイプとシス女性にとっての女性ステレオタイプの距離感の違いを指摘することができるでしょう。このことは以前に以下のエントリーでも述べましたので、ここでは細かくは繰り返しません。
あるトランス女性が見た北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』 - ゆなの視点


改めて言っておきたいのは、私たちにとって女性ステレオタイプは、基本的には押し付けられるどころか頑なに拒絶されてきたものであり、自力でそれを身につける権利を獲得したものだということです。他方で私たちには「トランスステレオタイプ」とでも言うべき表象、例えば青々とした髭の剃り跡がある筋肉質な「おかま」のような姿や、男女の枠を超越した視点からアドバイスをする「超越的トランス」とでも言うべき姿を押し付けられてきました。そうしたステレオティピカルなトランスとしては描かれず、女性らしさへの生々しい憧れと、ときに周りから奇異の目で見られるような体つきとを抱えて、そのあいだで悩むリンコは、トランス女性の描写としてはむしろステレオタイプに抗い、リアリティを目指したものだと評価できるかと思います。(もちろん、「苦しむトランス女性像」を強調しすぎで、その点ではステレオティピカルなのではないかという批判は成り立つと思いますが。)

こうした点で、まずはリンコの描き方を「ステレオティピカル」と断じるとき、そのひとはトランスの人々の個人、あるいは集団としての歴史を省みていないのではないかと私は感じます。それを省みたなら、むしろこの映画が少なくとも相対的には真摯な作品であると、あるいはそのように判断する当事者がいることは少なくとも理解できると思うことでしょう。

ただ、これは『彼らが本気で編むときは、』の真摯さの話であり、ラディカルさの話ではありません。実のところ私は、この映画が極めてラディカルで、その一見した雰囲気に反して、まるで保守的ではない側面を持っていると考えています。そしてそこにも、ステレオタイプが絡んでくるのです。

「社会的ステレオタイプ」と「身体的ステレオタイプ」という用語を導入してみることにします。ステレオタイプというのはそもそも社会的な事柄でしょうから、変に聞こえるかもしれませんが、ちょっとずつ説明していきます。

まず社会的ステレオタイプというのは、振る舞いや装いにおいて、「女性らしい」、「男性らしい」などとされるものを指すことにします。これに対し身体的ステレオタイプは、体の形状や機能において、「女性らしい」、「男性らしい」などとされるものを指すことにします。

この特徴づけは曖昧ですが、いまのところこれ以上にうまく語る方法を私は見つけられていません。これらは後天的/先天的とはいくらかずれる軸であるように思います。トランスのひとには経験があるかと思いますが、私は日常的な振る舞いを頑張って「男らしく」しようとしていた時期ですら、「女っぽい」「おかま」などと言われてきました。その経験に照らすなら、もしかしたら振る舞いのなかにはどう訓練しても身につかない、その意味で先天的なものがあるのかもしれません。他方で、膨らんだ乳房は身体的ステレオタイプにおいて「女性らしい」ものですが、生まれつきは乳房が膨らまないひとでもホルモン治療や外科手術で膨らませることができます。あるいはこれらは絶対的な区別ではないのかもしれません。ともかく、体そのもの以外に関するステレオタイプと、体そのものに関するステレオタイプくらいに考えてください。

身体的ステレオタイプは、ややもすると生物学的な特徴が性別の定義を与えるという思想を背景に「本質」と誤認されたりもしますが、あくまでステレオタイプであり、それゆえそれ自体は社会において作られるものであるということにも注意してください。膨らんだ乳房は「女性らしい」でしょうが、それは女性の本質ではなく、乳房の膨らんでいない女性もいれば、乳房の膨らんだ男性もいます。同様に、月経や妊孕力も「女性らしい」とされますが、それは女性の本質ではありません。

一般に、フィクションの表現がステレオタイプ的だと難じられるとき、問題となっているのは社会的ステレオタイプの側です。その理由はおそらく、この社会の大半のひとが健常なシスの人々によって占められているためであると私は考えています。シスであり、しかも身体的な障碍や疾患を持たないひとの場合、身体的ステレオタイプの多くは、それがステレオタイプであると意識することもなく、自然と身につくものとなっているでしょう。世の中の大半の女性には月経があるから、フィクション作品で女性キャラに月経があることのステレオタイプ性に気づかないわけです。それが、さまざまな理由で無月経の人々に与えるプレッシャーや拒絶感などには思いを馳せることもないままに。

これは単に、たまたま多くのひとが身につけているからステレオタイプに気づかないというだけで、そもそもステレオタイプではなく本質なのだということではありません。たまたまほとんどの女性が生まれつき料理好きになる村があったとして、その村では料理を愛する女性キャラはステレオティピカルとは見なされず自然な表現と受け入れられるでしょうが、しかしそのことはそれがステレオティピカルでないということを示しはしませんし、また少数ながらそのステレオタイプに合致せず、生きづらさを感じているひとが存在していないということも示しはしません。

一般的に言って、トランスの人々は多くの身体的ステレオタイプを欠いています。胸を膨らませるくらいはできますが、華奢な骨格だとか、広がった骨盤だとか、月経だとか、妊孕力だとか、ほしくても手に入れる術のないものが多くあります。その意味でトランスの人々は、そもそもいくらか非ステレオタイプ的なのです。だからこそ、社会的ステレオタイプを身につけることで、自分の性別を確立しようとするという面もあるでしょう。

これは、身体的ステレオタイプをもとから多く身につけているから社会的ステレオタイプを手放すことにそれほど抵抗のないシスの人々とは大きく違う点です。性別というのはそもそも社会的なネットワークのなかに巻き込まれているもので、社会的、身体的ステレオタイプの一切を欠いてなお自分の性別を宣言するというのは難しいものなのではないかと思います。だから、シスの人々が社会的ステレオタイプをしばしば困難なく拒絶できるのは、ステレオタイプ全般を跳ね除ける強さがあるからではなく、むしろ身体的ステレオタイプを安定して身につけているからこそでしょう。シスのひとでも、例えば女性が乳房を切除したときなど、身体的ステレオタイプが失われる危機に直面したなら、それを復元しようという「保守的」な行動を少なからぬ人々がすることでしょう。それは、社会的ステレオタイプを身につけていることを非難されたときのトランスの人々にときに見られる反応と同質なのだろうと思います。

シスもトランスも、多くのひとはラディカルにステレオタイプを捨てる気はない、捨てれば幸福に傷がつくという点では変わらず、ただ身体的ステレオタイプをはじめから豊富に備えているか否かだけが違うのだろうと私は考えています。

さて、以上の区別をもとにすると、『彼らが本気で編むときは、』は、社会的ステレオタイプでもって、身体的ステレオタイプの十全な代替となりうるという希望を描こうとした、その点でラディカルな作品だと評価できる、私はそう考えています。鍵となるのはリンコがトモの母親であるヒロミと対決するクライマックスです。

トモを引き取り、自分が母になる、物語の半ばからリンコはそうした夢を抱き始めます。マキオもそれを理解し、本格的にそうした可能性を模索し出そうというときに、ヒロミがトモを迎えに来る、というのが終盤の山場となっています。

リンコはヒロミに、自分がトモの母になりたいと告げます。それに対するヒロミの反応は、多くのひとにとって想像のつくものだろうと思います。まずトランスと同性愛を混同しておざなりに二人の「自由」は認めると言いつつ、鼻で笑いながら、リンコではトモの母にはなれないということを指摘していきます。子供時代に胸が膨らんだこともないリンコがトモにブラジャーを買ってやれるのか、生理のことは知っているのか、そんな人間が母親をやれるわけがないではないか。

先の区別で言うなら、ここで持ち出されているのは身体的ステレオタイプに当たります。それを盾に、ヒロミはリンコが女性ではない、ましてや母親になれるはずがないと言うわけです。これは、トランスとして生きていればいくらでも目に、耳にする類の言葉で、私たちは頻繁に身体的なステレオタイプの欠如を理由に性別を否定されます。

厄介なことに、これに対して私たちは「でも私はこんなに女性的だ」と反論することを許されていません。そこで社会的ステレオタイプを持ち出せば、「そんなものを女性の核だと思うなんて、なんて男性的な」と言い返されるのがオチですし、「体のありようなんて本質ではない」と言ってもまともに聞いてはもらえません。マイノリティであるというのはこういうことです。私たちは対等な立場で女性とは何であるかを語れるとは見なされていないし、そして私たちは相手の言葉を聞くことを強いられるのに対し、私たちの言葉を相手は「戯言」扱いする権利があることになっている。私たちはそもそも、こうした場面において、まともに対話の相手と認められてさえいないのです。

それに加えて、ステレオティピカルな身体を持っていないというのは、しばしばトランスの人々のコンプレックスでもあるため、そこを強く攻められるとどうしても動揺してしまうという面もある。

実際、この場面でリンコは言い返すこともできず、黙って俯いてしまいます。マイノリティがいかに言葉を奪われているかを生々しく描く、胸が痛くなるような名シーンだと思います。

ですがこの映画の凄さは、この場面に、リンコとヒロミという二人の母のいずれとも暮らしたことのあるトモを置いていることにあります。トモは、二人の母親らしさを、それゆえ間接的には女性らしさを語れる立場にあるのです。

そして沈黙するリンコに代わってトモはヒロミに殴りかかり、リンコがいかに母親であったかを語ります。そこで挙げられるのは、美味しい食事や編み物など、社会的ステレオタイプに当たる諸属性です。

ここで何が賭けられているのでしょうか? 素朴に見るなら、これを単にステレオティピカルな母親像の肯定としか思わないかもしれません。けれど文脈を見る必要があります。トモの反論は、身体的ステレオタイプを盾にリンコの母親性を否定するヒロミの言葉を受けてのものなのです。つまり、この場面で、身体的ステレオタイプを備えている点で自分こそが母親にふさわしいと主張するヒロミに対して、リンコが十分な社会的ステレオタイプを備えていることが真っ当な反論になる、少なくともトモがそう捉えているということが描かれているのです。

ここに賭けられているのは、社会的ステレオタイプの獲得によって、身体的ステレオタイプの欠如を乗り越えて、真に母親になるという可能性なのです。果たしてそんなことを描く映画がほかにあるでしょうか? いえ、あるかもしれませんが、少なくとも珍しいには違いないでしょう。この映画がラディカルだというのはこの点です。この映画において、身体的な女性らしさは母親であるための必要条件を成しておらず、しかも社会的な女性らしさがその十分条件たりうると宣告されているのです。

トランスの女である私にとって、これほど希望のあるメッセージはありません。身体的なステレオタイプを欠いていることによって、私たちはいろんな悲しみを経験します。けれど、トモはきっと、それでも私たちは母にだってなりうるし、女であったっていいと言うでしょう。

社会的ステレオタイプと身体的ステレオタイプの対決、これはつまり、前者に頼らざるを得ないトランスと後者を生まれつき多く備えがちなシスの対比となるわけですが、これを念頭において見るときに、この映画の素晴らしさもラディカルさも、はじめて光が当てられるのではないかと私は思っています。

こうした対比は、たまたまではなく意図的に描かれたものだろうと私は考えています。というのも、この作品にはリンコの同僚の女性も出てくるのですが、このキャラクターはいっそコミカルなくらいに女性らしくなさを強調した話し方をするんですね。このキャラクターとリンコが一緒に現れるとき、どうしたって「リンコにこんなふうに振る舞う余地はあったのだろうか」と考えざるを得ず、そしてそれは「なぜこの同僚の子にはこのような振る舞いが容易なのだろう」という疑問を導きます。ここにはすでに、終盤の対決が予告されているのでしょう。

映画の結末は、ここでは語らないことにします。ただひとつだけ言っておくとすると、この映画で象徴的に出てくる毛糸の乳房は、毛糸という非身体的なものによって形づくられた女性性の印なのであり、リンコの女性性と母性の肯定なのでしょう。そのつもりでこの映画を見たなら、ラストシーンに優しいメッセージが見出せることだろうと思います。

* コミカルで繊細な名作

小難しいことも書きましたが、この映画自体はコミカルでとても見やすい、楽しいものとなっています。何せトモが可愛いんですよね。ぼそっと呟く一言が妙におかしかったりもしますし。

そんな作品なので、とりあえずはごちゃごちゃしたことを抜きに、いちどただエンターテイメントとして見てもらいたいです。そのうえでもし「トランスのひとならこの映画に何を見るのだろう」と思われたなら、この記事はその一例になるはずです。

小説紹介『Hopeless Romantic』

出会いはアウフヘーベンのきっかけ

カナダの作家Francis Gideonさんによる小説。作者さんはノンバイナリーのひとのようです。
https://www.amazon.co.jp/Hopeless-Romantic-Francis-Gideon/dp/1626495572

絶版になったのかめちゃくちゃプレミアが付いていて、しかも前に見たときはそんなことなかったと思うのですが、アダルト商品になっていました。

ちょっと事情がわからないのですが、何か揉め事があったのか、出版社のサイトでも作者さんのサイトでもなかったもの扱いになっているみたいなんですよね。何があったのでしょう。

でも! 私はこの小説が大好きなんです! 30過ぎにして生まれて初めて、活字の本で泣いたのがこの小説なんです!

あらすじ

主人公ニック・フレイザーは彼氏と別れたばかり。これまで男のひととしか交際したことがないニックですが、どうも誰と付き合ってもニックの憧れを理解してもらえない。というのもニックは、ベタベタなくらいにロマンティックな恋愛が好きな「hopeless romantic」だったんです。

ニックは博士論文執筆中の大学院生なのですが、同じ大学に通うケイティという女性と出会います。音楽や映画の話で意気投合し、生まれて初めて女性に恋心を抱き、戸惑うニック。戸惑いながらも率直に自分の気持ちを語ると、ケイティは自分がトランスであるという事実を打ち明けます。

ゲイとしての自分のアイデンティティと、ケイティの女性としてのアイデンティティ、そしてケイティへの恋心、この矛盾に直面し、ニックはこれまで知らなかったトランスの女のひとのことを理解しようとするとともに、自分自身を問い直すことになります。

「ちょっと待って!」と思いました?

ゲイであるニックがトランス女性のケイティに恋をする、これって変な感じがしますよね。いえ、トランス女性の登場する作品を「BL」と呼んでしまうようなひとも私は見たことがあるので、引っかからないひともいるかもしれません。でも、トランスだろうがなんだろうが女は女だと思っているなら、つまりはトランスのひとのアイデンティティを尊重しているなら、むしろここは引っかかるポイントのはずなんです。ぎょっとすると思う。

ニックはケイティがトランスだと知らないまま想いを打ち明けます。ケイティは自分がトランスであるとニックが気づきもしていなかったということに戸惑って、そうした事情を語ります。それまでゲイだと打ち明けていなかったニックはここで安心したかのように「なんだ、そうだったのか、それで合点がいった」みたいな発言をします。

…え、それでいいの? と思うべきポイントです。でも、安心してください。それこそがこの小説の最大のテーマなんです。

嬉しそうにケイティへの自分の想いを受け入れ始めるニックに対し、ケイティは猛反発します。「自分はゲイだと言って、私がトランスだと知ったら『なるほどね』って、それって要は私を男だと思ってるってことでしょ?」と。それまでトランスのひととの交流がなく、知識もなければ配慮もないニックは、ここで初めて自分がケイティのアイデンティティを踏みにじったことに気づきます。そしてここからすべてのドラマが始まるんです。

ニックは何度かケイティを傷つけてしまう。でも二人は互いに強く惹かれ合い、ケイティは根気よくニックに自分のことを伝える。そしてニックもがんばってケイティのことを、トランスの人々のことを理解しようとする。そしてだんだんと、ニックは自分のアイデンティティを見直してでもケイティを愛したいと思うようになる。そうした自己変革のドラマがこの小説の核となります。

ここで鍵を握るのがニックのルームメイトでドイツ観念論に関する博士論文を書いているタッカー。ゲイとしてのアイデンティティとケイティへの恋心とケイティの女性としてのアイデンティティが矛盾すると悩むニックに、タッカーはドイツの哲学者ヘーゲルの名前を挙げながらアドバイスをします。矛盾に直面して、それを止揚アウフヘーベン)することでひとは成長していくんだと。ニックはやがて、自分のことをバイセクシャルとして認識し直し、ケイティを無条件で女性として愛するようになっていきます。

あんまりに可愛い二人の恋模様

実はこの小説、何がツボって、私好みのシチュエーションに満ち溢れていたんですよね。ニックもケイティもベタなロマンスが大好き。二人ともお金はあんまりないけれど、どうにかこうにかベタなロマンスを作り上げようとがんばります。

行くのは近所の安いレストランだけど、二人とも目一杯着飾って待ち合わせをし、まるで一流のレストランに来たみたいにケイティの椅子を引いてあげるニック。ニック自身の好みもあって、ケイティと付き合いだしてからのニックは本当にお姫さまみたいにケイティを扱うんですよね。作中でニックのお父さんも言うことなのですが、女性扱いの経験が少なく、そのうえベタなロマンスを好むケイティにとっては、それってたぶんいちばん求めているものだと思うんです。

私もたまに荷物を持ってもらうとか、ドアを開けておいてもらうとか、食事をご馳走になるとかすると、たまらなく嬉しかったりします。奢ってもらいたいとかではないのでお金自体は相手が固辞するとかでなければ出しますが、それよりも何よりも、レディとして扱ってもらえるというのが、「ああ、いま私はちゃんと女のひととして、それも敬意を払うに値する女のひととして見られている」と感動するんですよね。だから二人のデートを見ながら「そう、これ! わかってる!」と叫びたくなってしまいます。

そして音楽や映画の趣味が合う二人の会話も本当に可愛い。お互いに「AかBか」みたいに二つの作品名を並べてはどっちを選ぶか言い合うというのを何度かしているのですが、それがもう見ているだけで「私もこんなふうに話せる男性と出会いたい!」と心から羨ましくなります。

そんな二人がどんなふうに愛を深め、どのような結末を迎えるのか、ちょっと手に入れにくい本ですが、古本などでもしかしたらあるかもしれないので、ぜひ読んでみてもらいたいです。

女の子的なものへの憧れ

ヒロインのケイティがとても魅力的なキャラクターなんですよね。音楽や映画の話をするときの生き生きとした様子。たまにとんちんかんなことを言い出すニックを、それでも信じて諭す様子。それに加えて、ケイティが見せる女の子らしいものへの憧れが、痛いくらいにわかるんです。

ロマンティックなシチュエーションを好むこともその一部なのですが、それ以外でもこの小説でとりわけ印象的だったエピソードがあります。それはケイティがトランスの友達と一緒に移行記念日を祝うという話。二人はその日だけ子供に戻り、子供のころには買ってもらえなかったバービー人形なんかを買ってきて、二人だけで遊んで、そして翌日になると親戚の子にそれをあげるのだという。もう子供時代は取り戻せないのだけれど、せめて一日だけでも、女の子として、女の子らしいおもちゃで遊んでみたい、それははたから見ると滑稽でもあるかもしれないけれど、でも真っ当な子供時代を送れなかったという傷を癒すための、せめてもの埋め合わせなんですよね。

私もこの年になってぬいぐるみを買ったりするようになりました。服装も、本当はもっと大人げないものを着てみたい。できたらいきているうちで一度くらい女の子の制服を着てみたりもしたい。リカちゃん人形とかシルバニアファミリーとかも、一回くらいは触れてみたい。

本当は、生まれ直してただの女の子としてすべてを普通に経験したいんです。本当は、初めからそういうふうに生きたかったんです。でも無理だった。姉妹がいたりしたら多少はそうしたものに触れる機会もあったかもしれませんが、私は弟がいるだけなのでそういうことさえなく、とにかく女の子らしいものに触れる機会がなかったんです。かろうじて持っていたのは可愛い文房具くらいで、それもほかの子に見つかってからかわれたりしていました。

街を歩いていて、普通に女の子らしい服を着て、髪を伸ばしているような幼い子供を見たりすると、憧れや妬みでどうしようもない気持ちになるんですよね。もちろんその子が本当は男の子である可能性はあって、その場合はその子にとっても苦しいことが多いと思うのですが、そうでない場合は、どうしても「この子は私が手に入れられなかった普通の体を持って、私には許されなかった長い髪をして、私は買ってもらえなかった服やおもちゃをもらい、そしてたぶん私にはしてもらえなかった女の子扱いを普通にされているんだろうな」と感じてしまう。
そんなくらい、女の子らしいものへの憧れは強烈なんです。大人になって人形遊びに夢中になるわけにもいかない、でもせめて一日だけは。その衝動が私にはよくわかるし、私も試しに買ってみようかなと思ったりしました。

ちょっと性的な描写がきついところも…

そんな大好きな小説なのですが、ひとつだけ苦手なところも…。それは性的な描写がきつく、かつやけに長いところです。もしかしたらそういう小説のレーベルなのかもしれませんね。ほかのところは可愛らしいのに、言葉遣いも振る舞いもやけに荒々しいし。

あとケイティは手術は受けていないひとという設定なんですね。それ自体はいいのですが、ベッドシーンでケイティのペニスにニックが触れるような描写とかは、ケイティはそういうのが大丈夫な人物なのかもだけれど、私としては少しきつい。私の場合は、男性として暮らしていたころには女性と交際したりしていて、そのときはそういうものと割り切っていたけれど(とはいえあとで心理的に調子を崩したりするのですが)、女性として暮らし出して以降に男性と少し交際した折などにペニスに触れられたりしたのはどうにも受け入れられなかったので、ちょっと苦手な描写でした。

等身大で魅力的なトランスヒロイン

苦手なところもありつつ、でも私はHopeless Romanticが大好きです。なんといってもヒロインのケイティがいい。

最近トランスの友達と飲んでいたときにも話したのですが、どうにもこうにも既存のフィクション作品には私たちに似たヒロインが少なくて、うまく共感したり憧れたりしにくいんですよね。シス女性のヒロインは、可愛いとかかっこいいとか思うことはあってもどこか隔絶した存在に思えるし、描かれる思い出とか感情とかもあまりリアルに感じられないんです。子供時代のこととかたぶんぜんぜん違いますしね。あと生理とか妊娠とかについても、シスの女性にとってはリアルな問題なのだろうけど、トランスの女性からしたらぜんぜんわかりませんしね。十代のうちに薬もなしに胸が膨らんだりするとかも、シス女性が描くとたまに「不気味な変化」みたいにされていたりするけど、自力ではそんな変化が起きさえしない身からしたら「え、なにそれ、ずるい」みたいに感じてしまうほど。

それはもちろんどちらがよりリアルとかという話ではないのですが、シスのひとにとってトランスの女性の生き方を描く作品が違和感を抱かせ、場合によっては「偏見に基づく女性像」とさえ感じられうるのと同じように、私からするとシスの女性の生き方を描く作品って実感を伴わないリアリティを欠いたもので、しかもあんまり思春期の身体的な変化とか生理・妊娠の話とかをされると「女性には特有の身体的特徴があるという偏見の強化ではないか」と感じさせられることもあって、どうにも共感したら憧れたりしやすくはないんです。

そんななか、この小説のケイティのリアルな魅力! ケイティはパスも必ずしも完璧ではなく、たまにリードされる(トランスだとバレてしまう)し、そのせいで差別的な扱いを受けることもある。低い声を気にして初めはニックともうまく喋れないし、初対面のひと相手だと慣れるまで変に高い声が出てしまったりする。

いろいろなことに傷ついたり、古い傷を癒そうと友達と人形遊びをしたり、そしてそういうふうに生きたからこそニックからレディとして扱われることに喜ぶ。それが、すごくリアルな女性像だと、私には感じられる。そんなケイティがニックの目を通すと本当に可愛らしく美しい女性となっていて、ケイティがリアルに感じられる分、ニックのその視線は私からすると快く憧れられる、「私もこんなふうに見られたい」と思われるものになっているんです。

だからこそ、中学時代から江國香織さんや山本文緒さんの小説を読んだりして、「可愛らしいな」とは思いつつも、いまいち心を揺さぶられるには至らなかった私が、生まれて初めてクライマックスに涙を流したんだと思います。私はどちらかというと本を読むほうだと思うのですが、恋愛小説で泣くというのはずっと大げさな物言いに過ぎないと思っていて、でも違ったんですね。しっかり共感して自分を投影できたなら、主人公が幸せになる姿にちゃんと泣けるんですね。ただ世の中に、私が共感できるヒロインの数が圧倒的に少ないだけで。

さらにこの作品は、性別移行や性別違和自体が物語となってはいないというのも大きなポイントです。社会からの偏見の話はありますが、あくまで核をなすのは二人の恋愛と、恋愛を通じて自らを作り直していくニックの変化。私が自己投影できるような人物がヒロインとなっている恋愛作品って、もうその時点で本当に少なくて、世の中にほとんど存在しないのではないかというくらいなんです。翻訳もないうえにおそらく絶版という、このうえなくアクセスしにくい作品ですが、私みたいにうまく自己投影できるヒロインが見つけられないトランスのひと、あるいは私みたいなひとがどういったものに共感するのかを感じ取ってみたいシスのひとに、広くおすすめです。